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#10 「楽しい」は〇〇的だという衝撃と納得

数ヶ月前にですね。

「楽しい」とは「刹那的なもの」だから、持続しない。
「喜び」は内側から湧き出てくるもので、刹那的ではない。

という話を聞いて、衝撃だったのですね。

でも、振り返れば、「楽しい」を追い求めてきたけど
「楽しい」と「喜び」は同じだと思って、
まさかその区別があるとは考えが及ばなかったんですよね。

その視点で振り返ってみると。

世の中には「楽しいが正義」が溢れていて、
「ワクワクすることが正解」という考え方が主流のように思えるんだけど、、、

実際、演劇を続けていた中で、
「楽しい」がわからなくなったり、
「楽しい」を探し求めて
「楽しい」を追い求めて
根無草の如く、彷徨い生きてきた自分の人生を振り返ると

確かに「楽しい」って「刺激」の一種なのかもしれない。

と思えてくる。

そして、心の飢え乾きは刹那的な「楽しさ」や「刺激」で、
一瞬「紛らわす」ことはできても、「満たされる」ことはない。

さらに深掘りしてみると、
私自身が「芸術」や「演劇」の役割や位置付けについて

「日常」は苦しくて、変えられない。
苦しい人生を自殺せずに生き抜くための、
「息抜き」としての「楽しい非日常」

だと、考えていたなあと、改めて言語化して気づく。

日常はどう頑張っても、解決できない。
だから、楽しさで「紛らわす」ことで、心を休憩させる。
終わりのないマラソンの一時休憩というか、給水所のようなもの。

こんなふうに捉えていたんだなと。
意識したこともなく、自覚したこともなかったけど。

どこかで、常に「虚しさ」を抱えていて、
「虚しさ」はもうどうしようもないと「絶望」していたんだなと。

でも、心の真ん中で信じるべきものがわかり、
主体的に「何を信じるか」を自分で選び、
生きる土台として据えて、
新しい土台がしっかり定着するように、
急がず慌てず、人生の建て直しを始めてみて。

その中で、かつては無ければ生きていけないと信じて疑わなかった
「演劇」からも手を離してみた今。

ふと振り返り見えてきた、かつての自分の姿は、
自認していた自分の姿とは、あまりにもかけ離れていた。

生きるために必要だと握りしめていたものを、
別の側面では「虚しいもの」だとも思っているという
「自己矛盾」があり、それに気づかず、自覚もなく。

ただただ、低い自尊心が「自己矛盾」によりさらに傷ついて、
それにも気づかず自覚もなく。

その自尊心を満たそうと、刹那的な「楽しさ」を追い求めて、
それは一種の「刺激」で、
「刺激」を貪って、しばし痛みを「紛らわす」という、
中毒的な、依存症的なあり方で「演劇」を握りしめていたのだと。

その自分の自尊心の低さゆえの「不健全さ」に、愕然とした。

今は、信じるものがはっきりとして、
痛みは伴ったけど、納得して「演劇」を手放せたことで、
人生の第2章が確実に始まっている。

まだまだ、土台を作り始めたばかりだから、
それはそれは、超絶地味なことの連続で
何一つ華やかなことはないのだけど
「喜び」がものすごく増えたのは確かだ。

派手なことと地味なことを比べて
妬んだり落ち込むようなことも、いつしか無くなった。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

ルカの福音書16章10節

古代ユダヤ賢人の言葉は、
私のような愚かな人間は、すっかり見落としてしまうようなことさえも
見逃さず目に留めて、汲み取り、心に留めてくれているようで、
静かなあったかな安心感。
決して冷めることのない温もりが、沁みる。

今日の話はオチがないので、唐突に終わり(笑)

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