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#6 「弱点」が「強み」に変えられた話
わたしは、いわゆる「感覚派」。
感覚が優位に働く性質。
感受性もあるし、繊細さもある。
だが、しかし。
もっと凄い精度の高い感覚派の方が、ゴロゴロいる。
一流と言われる人の多くがそう。
そこと「比較」すると、明らかに弱い。
ガチ感覚派の人が、
感覚的に「くっきりはっきり」わかることが、
わたしには「ふんわりぼんやり」なことが多い。
感覚派の中で比較すると、「鈍感」なのだ。
精度が低い(笑)
だから、「鈍感的感覚派」。
かつて。
ここの気づきで、最初の「自己否定」と「自己卑下」があった。
「嗚呼、わたしは劣等民族なのだ」と(笑)
この嘆きが間違いで的外れだったと、気づかせてもらえたのは、
実はとっても、最近。
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♪迷わずに〜KBC〜
(KICK BACK CAFE@仙川)
40過ぎて、やっと知ることができたのは、
「感じたことに重きを置かないタイプ」も多くいるということ。
いわゆる、思考派とか、論理派とか。
「感情」に流されないタイプ。
感じたことをスルーしていたり、
感じていることすら、自覚していなかったり。
切り離し、分離ができるタイプ。
決して、良し悪しでは無い。
別の、他に、もっと重きを置いているからこそ、
わざわざキャッチしないという「選択」の人。
感情に流されない分、冷静で緻密で的確。
反面、ドライな印象もある。
(だからといって冷徹では無く、むしろ熱い心の人も多くいるのだが)
わたしはバリバリのウェットタイプ。
感情との分離や切り離しがとても下手くそ、不得意。
(これも最近、練習して、以前に比べたら格段にできるようになった。
でも、元々不得意だから気を抜いてると、簡単に持っていかれる。)
そもそも「感情の分離」が得意な人と「比較」すると、
冷静に徹しきれないわたしは、その分、論理に緻密さを欠く(笑)
そうして、次の段階の「自己否定」と「自己卑下」が到来(笑)
「嗚呼、わたしは劣等民族なのだPart2」(笑)
間違いと的外れの嘆きのマリアージュPart2(笑)
でもでもさ。
逆に、わたしは「ふんわりぼんやり」とはいえ、
「何かしらの情報」をキャッチできている。
キャッチはしてる!
ただ、わたしの感覚では「ふんわりぼんやり」が限界というだけで。
でも捉えてるから知りたい。
わたし自身が何をどう捉えてるのか、
自分でわからなければ、表現もできない。
表現者を目指してしまったからこそ、立ち現れたわたしの試練。
だったら、その足りない分を、どう補うのか。
その試行錯誤のなかで、
観察や分析や思考で補う作業が必要になり、
その道具が「ことば」だった。
「鈍感的感覚派」だったからこそ、
今辿り着きつつあるのが「感覚言語化」なんだ。
いわば「欠落」部分があったから与えられたもの。
感覚で微細なことまで理解できるような、
優れた感覚派の方は、わたしにとって、永遠の憧れで尊敬だ。
でも、もしわたしにそれが与えられてたら。
「感覚言語化」というデザインも、与えられなかったし、
感覚が伝えたいけど伝えられず困ってる人と、
感覚を知りたいけどわからなくて困ってる人の
「橋渡し」という喜びも与えられなかった。
この気づきも、他者と「比較」があったから、
他者との違いを知ることから、ヒントが与えられた。
悲しみや苦しみさえも、
全てを「益」に変えてもらえるんだ、本当に。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。
こうやって、ちょっと自分自身のことを顧みるだけでも、
神の業の凄さはこんなにも明白で、事実は揺るがない。
その栄光の一端を知ることができ、
触れることができ、
圧倒されるという体験。
これほどありがたいことは無い。