それぞれの場所で元気でいよう
夏、ある友人に会った。
彼女は昔勤めていた会社の同期だった。
わたしは割と時間をかけて仲良くなることが多いのだが、彼女は会った初日から意気投合した。
休日にもよく2人で遊んだ。
彼女が仕事を辞めてしまってからもその関係は続いていたが、お互いの結婚出産などで徐々に会うペースは落ちていった。
そして2020年、コロナ禍以降は一度も会っていなかった。
今年の初夏、約5年ぶりの再会を果たした。
久々に彼女から連絡があり、職場近くのレストランで会う約束をした。
彼女は出会った頃からずっと明るい。
とても元気でパワーがあり、さっぱりしている。
それは40歳になった今も変わっていなかった。
近況を聞き、相槌を打ち、笑う。
言葉が次から次へと出てくる彼女を見て、ああこういう人だったなあと懐かしくも感じた。
相変わらずバイタリティーに溢れていて、悩みになりそうなことも笑い飛ばしてしまう。
不思議な感覚だった。
かつてのわたしは確かにこの元気で明るい彼女ととても気が合うと思っていた。
ところが久々に再会して話を聞いていると、なんだかスクリーンを観ているような、ここに自分はいないようなそんな感覚になったのだ。
彼女は今のわたしには明るすぎた。
わたしがそう感じたということは、彼女もわたしに対して何かしらの違和感を抱いただろう。
なにより話したいことが出てこなかった。
聞くことはできるのに、聞いてほしいことが浮かばない。
一緒にいる感覚がせず、彼女のマシンガントークを一方的に感じてしまう。
若い頃は同じペースで話せたのに。
すっかり瞬発力を失ってしまったみたいだ。
笑っていても、もう1人わたしがいて、それが本当のわたしで、少し離れた場所から見ている。
数年会わずにいる間に変わってしまった。
冷静に考えれば当たり前とも言える。
あの頃は同じ仕事をして、毎日のように顔を合わせ、同じようなことで悩み、一緒にたくさん笑った。
共通の知人も多かった。
でも今は離れた場所で、全く違う環境で、関わる人もそれぞれ違う。
変わって当然なのだ。
思い出話ばかりもしていられない。
そう、思い出話はあまりしなくて、そこはとても良かった。
彼女は現在を楽しんでいるようだったし、わたしも今が一番充実している。
それが分かっただけでも充分だったかな。
今はきっと違うのだ。
でもそれは変動するもので、たとえば10年後はまた変わっているかもしれない。
この先また息がぴったり合う日がくるかもしれないし、もう来ないかもしれない。
とりあえず今はそれぞれの場所で、お互い元気でいよう。
レストランの駐車場、車窓越しに手を振った。