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ノイズ

布団から起き上がらないのが諸悪の根源だった。それは一日の始まりを後回しにする。目覚めかけた頭と体を迎え入れずにダラダラと時間をやり過ごす。他のいろいろが後手にまわり、後回しが癖になる。あっという間に一日が過ぎていく。あったはずの時間が消え足元は崖だ。ノイズの草むらを闇雲に歩いて築けば崖の前、運が悪けりゃそのまま落っこちてしまう。むしろそれは運がいいのかもしれない。

「働いていると本が読めない」というのを見た。全く頷ける話でそれは本の題なのかよく知らないが、その本ももちろん読めていない。朝三時に起きて働きに出る。寝ぼけた頭と体で働き出せばあっという間に時間は過ぎていく。十時間も経てば体よりわたしのどこかが疲れていて、何かをしようという気が起きない。体力もきっと落ちているだろうがそれだけではない。何かをやりたい、やらなきゃ、できない、していないがぶつかりごちゃ混ぜになって、動かないわたしの中の濁流になる。勢いはそこに全て吸い込まれてしまっているのか、動き出せないのだ。ただパソコンを開いてこうして頭の中を書いていくことすらできなくなる。何も難しいことはない、考えたままを書くだけなのに。働くほどに向いていないと感じる、何をしたって同じだ。働くことが人を喜ばせるなら好きなはずなのに、すぐに奴隷根性を発揮したり単純に飽きてしまう。そんなでは何十年も働けやしない。勤労人には尊敬しかない、頭が上がらない。回らないし上がらない頭は一体どこで役に立つのだろう。

一言でも漏らせば、いや一つの言葉もなくとも不吉さが漏れ出してくるようだ。どうしたって考えるのは仕事のことで、そうなれば何をしていたってもうダメだった。文字だって読めないし、楽しいだとか楽しみだとかワクワクだとかは一切枯れてしまって、その流れた痕跡だって消え去ってしまう。夕方に向かって暗くなる空、空気が部屋の中に侵入してきてわたしに忍び寄るとっくの前からわたしの中には黒くてぶ厚い雲がもうもうと意思を持って膨れ上がっている。寒くもないのに布団にくるまってしかし体は冷め切っている。彼女の笑顔が怖かった。薄いガラスでできた何かを模した芸術作品を、支えにくいその形を手汗で濡れた手で運んでいる。いっそ落としてしまった方が楽だと一瞬頭によぎる。それでも粛々と運んでいくしかない、粉々に壊す勇気がわたしにはない。南の果ての島で汗を流し、享楽的にしかし迷路のような出口のない生活、舞い戻るかのように思い出される記憶。
「もういっそやめちゃいなよ」
もういいやと思った方が楽だ。明日をあらぬ方向に投げてしまって、しかしその後には大きな虚無が口を開けて待っている。二度も鯨に飲まれたらバカだ。バカだと笑われるならまだいいが、笑えない悲劇だってある。悲劇も度が過ぎれば笑えるというのは本当だろうか。
借金を先の2、3ヶ月にならしたが、それでも山が小山になった程度で手元に金があっても落ち着かない、無いのよりたちが悪い。食えて屋根があるだけで幸運だが、食えずに屋根もない時の方が充実していたのはなぜだろう。社会への尊敬を持っていても、どうにも溶け込めずにいつしか羨望の目にかわる。働けるのに働けない。こどものような、いやわたしの中の子供が寂しそうに屈んで膝を抱えている。どうしてこうなったんだろうと考えることがもうわたしを慰めているようで捨て去った。もう、何回目だろう。せめて書かなきゃやってられないはずが、書くことだってできない。と思い込んでしまう。「不幸はとにかく自意識が過剰なのだ」流れてきた言葉でそうなんだろうと頷いて、タバコを吸った。

もう紙がない。買いに行かなければ吸えない。そうして半日が経ちもう外は薄暗く、落ち着きか諦めで心臓はおとなしくなった。バックバックバック。十何年前の記憶がピンポン玉みたいにポンと浮かんでくる。ああ嫌だったという気持ちとか、何でもなかったことなのに何か違和感を残した記憶ばかりだ。

仕事場からの帰り道をいつもとは反対に向かって歩く。仕事に向かう時は車で帰りだけは歩きだから、見慣れた景色だけど、何かを遡っている気がした。歩いてよかったと、気持ちが明るくなるほどでもないけど、感じた。店に寄った帰りは結局いつもと同じ帰り道で、当たり前だけど、行ったら帰らなければならない。貰ったら返さなければならない。生まれたら生きなければならない。帰り道にインド料理屋があり、普段がらんとしている店内は薄紫色の壁につるつるした黒の安っぽいテーブルと椅子が4脚ほど置いてある。背を向けた女の向かいの、インド人だろう男が立派な顎鬚の顔をこちらに向けかけて、何となしに目をあわせずに数歩先の道に目を落とした。すたすたと歩く。細い三日月が浮かんでいて、うっすらと欠けた丸い影が見える。ポケットの中のタバコが切れたら吸うのをやめようかと考えている。

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