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眠る人と頭

枠にはめてしまう癖がある。態度を変えて世界を見ればそこに違う世界が見えてくる。しかし世界が変わったのではない。自分が変わったわけでもない。新しく浮かび上がった世界が、もともと「ある」と思っていた世界と重なるように浮かび上がって見えてきたのだ。

一度に書かなければ止まってしまうと考えるのは勢いに任せているからだ。自分だけをみて書き殴る、抉るように書いても読み苦しい。これも反省を書いているだけでつまらない。立ち止まってタバコを吸うと、違う時間が流れているのに気づく。
と休憩したらいつの間にか外は真っ暗で夜だ。6時でこの暗さ。今日は風も強くて外に出ると寒い。本を読んでうんうん唸ってどうにも動けないから横になった。いつの間にか20分だけ眠って起きると体は重いが頭は少し軽くなる。普段夕方には飲まないコーヒーを何となく飲んでみる。仕事が終われば今夜は本が読めそうだ。読みたがっている気がする。2時間後の自分なんて分からないが。時間は未来から流れてくる。曖昧な未来という靄は自由にイメージしていい。映画のように決まったものじゃない。雨が降り出した。野良猫がさっと狭い路地に消えていく。嘘つきがフードをかぶって足早に街を行く。テイクアウトしたピザを抱えてなるだけ雨に濡らさないように家路を急ぐ人。イヤホンをして歩く女が少し足を滑らせる。雨音に混じって少しだけ静まる街の音。車は途切れない。家の明かりがいつもより温かく見える、そんな夜。雨が勢いを増す。しとしと優しく道路を濡らしていた雨は協力するように繋がりだし街の汚れを洗い出した。こびりついた嘘は落ちるだろうか。そんな簡単に、綺麗にいかせないよと意固地な街の中でも温かい食卓を囲む笑顔が無数にある。

また今日も雨だ。水に混ざった牛乳みたいな色の空。この膜が地球をすっぽり覆っている気がする。もちろんそんなことはなくてピーカンの空や雷がぴしりと光っていたり淡く燃えている空もある。もし世界中の空が雲に覆われたら、同じ空を共有したら頭をつき合わせて話し合えるだろうか。巨大な一つの雲が世界を繋げてくれるだろうか。いやすでに一つの地球を世界は共有していて今の有様だ。太陽に見捨てられ終わりが目の前にやってきても本当に目を向けることはない。死んでいく星から一部の金持ちだけがロケットで雲を突き破って宇宙を目指す。一度受精した精子が受精卵から飛び出すように。生を捨てて死に向かう。
考えることをやめたわたしは死んだ時間を過ごしていた。考えるという行為を忘れていた、それは生きるを忘れていたことに等しい。考えない人間が人を裏切り自分を裏切り命を裏切る。止まった血流は熱を失い冷たくなって切っても血は流れない。生は輪切りのソーセージのように切断され糸の切れた凧のように彷徨う。あてもなく。風は容赦なく攫っていって、壊れた凧が吹き溜まりに大量に積み重なっている。打ち上げられ捨てられ腐りきった魚の山のようだ。腐敗の臭気を嗅ぐものもいない、そこに命のあるものはいない。
ここにいてはダメだとわたしは歩き出した。いく先を考えるよりここを離れることだ。南に向かおう。寒いのは苦手だったし、南には島があると聞いていた。美しい透き通る海がその島を囲んでいる。そこにはきっと太陽が、漲る光が注いでいる。もう三年は太陽を見ていない。嘘みたいな三年だ。わたしは生きていたのだろうか。その問いは生きていなかったものからしか生まれない。とりあえず歩き疲れるまでは足を止めないで、疲れ切った体ならどこだって眠れる。一番星が光っている。厚い雲の向こうで、夜空にひとつ光っているのが目には見えなくてもわかった。あれが道標になる。いく先がわかればこっちのものだ。少し重くなってきた足腰にも力が入る。止まるわけにはいかない。腐りかけていた体と止まっていた血流は動き続けることでしか繋がらない。生き物のいないここでは熱を生むのはこの体、このわたしだけだ。夜はもっと冷え込んでくる。それまでになんとか辿り着ければ。小さな寝床でもいい。

書き出さなければ書けるわけがない。何度も同じことを書いてしまうが毎回同じ壁に律儀にぶつかる。人はこれを馬鹿と呼ぶ。繰り返し書くことで、毎日トイレをするように、おれは便秘になったことがない、自然とうちから湧くように言葉が出てくるようになる、と書きながらそもそも言葉が溢れていない人間などいないと気づく。思考は意識に上る上らないは別にして沸き続けている。思考の全くない凪の状態は悟りだ。つまりほとんど全ての人間は思考し続けて1日を終える。ほっと湯に浸かったりぼーっと何かを眺めたりする時間につくひと息は意識と無意識の休憩なのだ。瞑想やヨガの流行る現代では悟ることが良いもの、煩悩は悪とされがちだが、これは勝手な偏見かもしれないが、見方によっては煩悩は素材の宝庫だ。いや煩悩に塗れて煩悩を舐めて舐められてばかりでもしょうがない。リズムが大事だ。興味がない方になぜか話が進む、つまらないからやめよう。便秘の話だ。毎日快便のわたしでも排便の快感は毎回味わえる。便秘の人はその快感を何回分もため込んで発射するわけだからとんでもなく気持ちいいのだろうか。こっちが花火ならロケットの火力は比較にさえならない。寝不足の頭はほとんど止まっている。書いていてつまらないものは読んだらひどい。料理と同じだ。便の話の後にすぐ料理の話か。トイレの目の前で飯を食うみたいだ。美味いわけがない。で、料理もイライラする人が作ったら、自分で作っていてもわかるが、やっぱり不味くなるのだ。あれは不思議だ。不機嫌そうな中華屋のチャーハンがうまいのは、汗をかいて鍋を振る親父も内心「うまいもん作れて嬉しい!」と無意識にでも思っているのだ。無愛想でもそれが透けて見えるから汚い厨房も気にならない。トイレはピカピカにしていて欲しい。食べる側のメンタルも関係するだろうか。トイレの目の前では食いたくないけど腹ぺこだったら多分うまい。もはやトイレどころか目の前のごはんしか目に入らない。上がる湯気と艶々に光る米粒を認識するやいなや口に放り込んでいく。腹が減ってきた。それ以上にシャットアウトしてくれと眠りたい頭が言っている。毎日眠るように書くことを決めて、寝る。

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