フィクションノンフィクション
四日目です。わたしにしては長く続いています。嫌にもなっていません。きっと書くことは人を楽にするんですね、だから続けられます。みんなも書いたらいい、ここをみている人はそもそも書く人がほとんどですねきっと。すぐに手が止まりました。思ってもないことを書いたからです。みんなも書いたらいいなんてわたしは思っていません、書きたい人が勝手に書いたらいい、こう思っています。流れに任せるのではなく、流れに流されようとして書くとすぐに嘘が混じります。そこで止まってくれるわたしは優秀です。わたし個人ではなく、皆がそんな機能を持っています。鬱で動けない、わたしがわたしを止めようとする動きの最大出力が鬱です。動いてはいけないから鬱になるのです。冬眠のように床に伏せます、それが必要だから。この話はもういいですね。
午前中は創造的な仕事にあてるといいと聞いた。何が創造的で何がそうでないか私には分からないが、身体より頭を使うことを創造的とするなら書くことは午前中に済ます方がいい。だからといってパソコンの前に座っても進まないものは仕方がない、しばらく粘ったのが上の文章だ。語り口調でないことに今気づいた。こだわりはないからこのままでいい、好きなようにやるのが一番だ。一日だって好きなように過ごせば良い、となると一日寝転んで終わってしまう、私は怠惰な人間だ。時々怠惰だと自分で決めるから怠惰になるのではと考えるが、自分を勤勉だとはどうしても思えない。活発な同級生を見て、よく動くなあと小学生の私は思っていた。その頃から何十年経っても変わらないものだ、すべてが変わっていくこの世界で変わらないものは珍しい、大事にすべきかもしれない。何か書くネタを、と考える時点で書こうとしているわけで、途端につまらなくなるから大変だ。そうだ、この部屋にやってくる鳥がいる、カラスより一回り小さい大きさの黒に黄色い嘴の鳥が、窓の前の柵に毎日留まる。青い空を背景に木の柵を小躍りするように飛び跳ねて動く。いらないパンを千切って撒いていたからここを巡回ポイントの一つにしたのかもしれない。パンを撒かない日が続いても律儀に毎日やってくる。あまりにパンが無いものだから窓越しにこちらを覗いて催促している気がする。お尻を向けたりこっちを向いたりを繰り返し、しばらくして飛び立っていく。黒に黄色が映えて可愛らしい。近所の猫も同じ柵を伝って辺りを巡回している。柵から隣家の屋根に飛び移り昼過ぎになると同じ道を引き返してくる。柵の上に留まって地面の何かを狙うように目を凝らし身構えるが、結局何かに飛び掛かることはない、10分もすると帰っていく。もしかして何も狙ってなどいなくてその姿を私に見せているのではと訝ったが、猫はそんな面倒なことはしないと猫と暮らしていた人に言われた。彼らには彼らにしか見えない縄張りがあり、私たちは家、敷地で区切られた空間に住む。猫たちは区切りの上をマーカーで塗りつぶすように自由に移動する。
急に気持ちが沈み込む。これは良くあることです。
なぜ事実を元にしたドラマの方がフィクションより見たくなるのか、映画ならフィクションだろうが気にしないし、むしろ史実を元にしたものよりも映画として作られたものが好きだ、結果的に。映画は一つの世界としてその中に入り込めるが、ドラマはこれはドラマだとどこかで意識してしまうからかもしれない。4000には満たないが今日はやめだ。量においては数字こそが大事だが、目的は継続して書くこと、なんだか頭がいっぱいだ、なんでかは分からない。
語り口調の方がやっぱり読みやすい気がします、なぜだろう、フィクション感が薄れるからか、はたまたその逆か。