三日坊主
三日も書かなければ元の木阿弥だ。元の木阿弥なんて口に出したこともないのに、書いているとふと浮かんでくるから不思議だ。どこかで読んだ言葉がわたしの中の引き出しに残っている、というのでもない。スッと取り出してみるほど整理もされていないし、出そうと思って出したわけでもない。海に浮かんだペットボトルが波の合間に見えたり隠れたりするのを、興味に惹かれて近づいてただのゴミだと気づく。見つけた瞬間に昂りが一気に萎んでしまう。喩えようとして、喩えようとしたのか、書こうとすると失敗する、失敗か、何を失敗とするのか、わたしが決めていいのか。思い出すでもなく、注意散漫なままに文字にしていると、内容がつまらなくなる、つまらないとは詰まらないということで、内容が詰まっていない、何か言っているようで何も言っていない。初めから何も言おうとしなければ、それでいいのかもしれない、つまらないことも無くなる、詰めようとしていないのだから。三日も書かなければの話だった。少々のお酒や怠惰や人付き合いに押し込められて書かなきゃが押し除けられ追いやられ隅に行って小さくなる。小さくなってもそこにはある座りの悪さを感じつつ眠っても気持ちが良くない。目覚めも悪い。目覚めの良かった日はここ数ヶ月はない、何年もないかもしれない、良かった朝を思い出せないからわからない。思い出せないはないのと一緒か、いやあっただろうという確信はあるから違う、しかしその感触、感覚は思い出せない、確信は根拠のないところから来ている、希望にも似ている、なんの希望も、これだと言える希望もないのに希望という言葉を使う使っている。つくづく書くことは無責任だ、わたしが無責任なだけか、でもなんだって書いていい、書いているとも言えないか、そりゃめちゃくちゃだだと言われればその通りだ、しかし書いている場ぐらいではめちゃくちゃ¥でなきゃどうするのだ、現実でめちゃくちゃになっちゃいけない、いけないこともないがそれはつまらない、つまらない?現実でわたしは詰めようとしているのか、何を、何か前に進んだと錯覚できるものを、時間を、安心するためにか。でも安心したいわけじゃない。どうしたってぐらつくわたしを倒れ込まないよう支えるために、現実が揺れても揺らしても倒れないように、メチャクチャにならないためにメチャクチャにしていない、しない。どっかから見ればめちゃくちゃか、倒れそうで、もう倒れているとも見える。でも屋根があるとそこで暮らすものがいえば屋根があるのだ。実際に屋根はある。昨日は春の始まりか、嵐だった。風が吹き雨が殴りつけしかし家は軋まなかった。雨上がりにはカタツムリが小さな小指の先ほどのが何匹も家の内壁にへばりついていた。雨が止んでは床に飛び散った絵の具のように水色の空が曇天の中に覗きまた激しく雨が降った。落ち着かずに何度もそれを繰り返して晴れ間の隙を見てセカンドショップに出かけたがどこも閉まっていてすぐ帰路に着いたがもう雨が降り出しはじめていた。何も特別なことはしていない、けれど少しの外出で気持ちは軽くなる。帰ると家がある、屋根がある。道すがら買い込んだ食料品を冷蔵庫に詰める。黄色い水仙を瓶に差して大福とバナナを置くとお供えされた仏壇に見えた。じいちゃんとばあちゃんの顔ではなく全体をなんとなく思い浮かべて手を合わせる。なんの言葉も思いもなくただ手を合わせた。生けた水仙は、とじていた蕾を翌朝には開きはじめて、ぱかーんと言うように満開になった黄色をいまわたしは見ている。