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全てが他人事になる前に 「チョコレートドーナツ」

作家や映画人、音楽家、画家、詩人、あらゆる芸術家は長い歴史の中で、社会に対して、作品を通じて自分の考えを表してきた。時には血を流し、時には地下で、そして時にはそれによって殺された。今では、多くの国で守られている表現の自由でさえ、本当の意味では、まだ100年も続いていない概念であると思う。私にとっては、今日も多くの人々がSNSを通じて、誰かの真似をして考えを発信しているように見える。目に飛び込んでくる多くが、責任を免れ、ハッシュタグというブランドを着て雰囲気を醸し出したいだけのものに見えるからだ。身を削って、言葉の責任を取るものではない。そもそも、相手に届く言葉で説明するものですらないように見える。だから、残念ながら響かない。

映画「チョコレートドーナツ(原題 Any Day Now)」は、ベースの話はあるものの、映画の為に作られたフィクションである。しかし、実話であるかのように、非常に刺さる。シノプシスには、社会的なメッセージ要素を多く含んでいる作品であるように見えるのに、映画の中ではドラマが語られ、何がベストだったのか、YES/NOを説教くさく強要してこない。ただ、社会の片隅で生きる大人と、苦しい環境で生きる子供が出会い、お互いに引かれあい、必要とした。そして、人間の失敗は謝るだけでは許されない場合があり、法律を味方につけるには、愛だけでは不十分だったということで終わる。ドラマである分、衝撃的だ。エンドクレジットの頃は、悔しさと、自然に込み上げるものがあった。別の方法があったなら、と。

主演のアラン・カミングの芝居が、最初から最後まで力強く映画を引っ張っていく。なんでこう行動してしまうかなぁ、という嫌悪感を持つような主人公の芝居も、何も語らず全てを表現する歌声も、彼ならではの魅力と言える。

人間は、知恵や経験で強くなることは出来るが、本来とても弱いものだ。もし、過半数が自分の根底を否定するような環境では、なおさらだと思う。この作品は世界中で多くの賞を受賞したが、何か社会に具体的な問いかけをしたのか?いや、違うと思う。この作品は、どう思うかを、言葉で問いかけずに、視聴者に完全に預けた。だから捉え方が無限に広がったのだと思う。監督、脚本、プロデューサー、俳優、など、映画を作った人々が、それぞれの立場を全うして、一つの衝撃的なフィクションを作った。この作品を通じて表現した強い思いは、無言で視聴者のそれぞれに響いていくのだと思う。映画の力を信じたからこそ、できる技なのではないかと思っている。

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