道長の娘
『光る君へ』の43話「輝きののちに」では、双寿丸(伊藤健太郎)と藤原賢子(南沙良)の恋が・・・?
ラブストーリーのネタバレになるので詳細は書かないでおきましょう。
平安時代の治安
豪族達が開拓した農地を荘園と言います。
荘園が増え、朝廷が戸籍や土地を管理できなくなっていったことから、10世紀頃には、朝廷が年貢を集められなくなっていきました。
地方の治安を朝廷の力では安定させられなくなっていき、国司や豪族が武者を使うようになります。
後一条天皇が石清水八幡宮へと行幸した1017年(寛仁元年)3月、清原元輔の息子であり、清少納言の実兄である前大宰少監(しょうげん)清原致信(むねのぶ)が騎馬武者の一団の襲撃を受けて射殺される。
道長の『御堂関白記』に記されている。
検非違使(平安京の警察)の調べでは、秦氏元(はたのうじもと)という者の息子が致信を殺した騎馬武者たちの中にいたとのことです。(秦氏は、283年(応神14年)に百済から日本に帰化した氏族。法然の母は泰氏系)
源頼親の命を受けた騎馬武者の犯行で、以前に殺害された大和国の当麻為頼の仇討指示ちだという。原因と結果、罪と罰でしょうかね。
頼親は首謀者として淡路守および右馬頭の官職を剥奪された。
1024年(万寿元年)には、伊勢守を拝命して国司に復職していたのである。
貴族でも減刑特権が無い八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)は適用されず。
和泉式部の夫・藤原保昌は、汚い受領(ずりょう)国司の一人だった。殺された致信は保昌の郎党であった。
貴族でも殺害される治安の悪い時代を無事に生き抜いた紫式部親子
中流貴族から上流貴族へ 紫式部は今回は省略して娘の賢子
藤原賢子(ふじわらのけんし/かたこ/かたいこ)は母・紫式部の跡を継いで女房として出仕。
大河ドラマでは紫式部の不倫による道長の娘という設定。(道長は知らない)
歌人となり「越後の弁」を名乗る。
その後、親仁親王の乳母に選ばれたことで、大出世した。
80歳を超える長寿であったと伝わる。
紫式部と出仕期間は重ならない
1017年(寛仁元年)頃、亡き母のあとを継いで上東門院彰子(じょうとうもんいんしょうし)に出仕し、
母方の祖父・為時(ためとき)の官位から、「越後の弁」と呼ばれました。
のちに藤原兼隆(かねたか。正二位・中納言)と結婚し、娘をもうけます
兼隆の妻
正室:源扶義の娘
藤原賢子(藤原宣孝と紫式部の娘)
1024年(治安4年)夫・兼隆は正二位に叙位。
1025年(万寿2年)には親仁親王(ちかひと/のちの後冷泉天皇)の誕生とともに乳母に任じられます。
兼隆とは離婚します。
歌人であった賢子は貴族にモテモテ
道長の次男・頼宗(よりむね)、藤原公任(きんとう)の長男・定頼(さだより)も賢子を愛したといわれています。
中納言・定頼
見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなんのちの なぐさめぞなき
大弐三位(賢子)
春ごとに 心をしむる 花の枝(え)に たがなほざりの 袖かふれつる
有馬山 ゐなの笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
1037年(長暦元年)頃に高階成章(たかしなのなりあき/なりあきら)と再婚します。
賢子はアゲマン
賢子の夫となった成章は、1037年(長暦元年)今度は春宮・親仁親王(のち後冷泉天皇)の春宮権大進に任ぜられ、このころ近江守を兼ねるが、1042年(長久3年)従四位下・主殿頭に叙任され、親仁親王の即位を見ないまま春宮権大進を去っている。その後は、1044年(長久5年)阿波守、1049年(永承4年)伊予守と四国地方の国司を歴任。
後冷泉朝にて1050年(永承5年)従四位上、1051年(永承6年)正四位下と昇進を続けた。
妻・賢子は後冷泉天皇の乳母であった。
1054年(天喜2年)大宰大弐に任ぜられて再び九州に下向すると、1055年(翌天喜3年)赴任を賞して従三位に叙せられた。地方官を歴任して蓄財し欲大弐と呼ばれた。
成章が大宰大弐(だざいのだいに)から従三位に上がると、
賢子も女房の最高位である従三位典侍(じゅさんみてんじ)へ昇進した。
賢子は、歌人として「大弐三位」を名乗るようになる。
夫の官職「大宰大弐」と賢子自身の位階「三位」を合わせたものである。
高階氏の氏人としては大伯父の高階成忠以来約70年ぶりに公卿に昇進した。
1058年(天喜6年)正月に常寧殿造営の功労により正三位に至る。
同年2月6日薨去。享年69。
賢子との子女
男子:高階為家(1038-1106)
女子:藤原通宗室
為家(官位は正四位下・備中守)は、のちに後冷泉天皇の落胤を養子(為行)としている。
高階為行は、今上天皇につながる。
一流歌人 藤原賢子
歌人名として、最初は越後の弁を名乗っていた。
1032年(長元5年)「上東門院菊合」
1049年(永承4年)「内裏歌合(うたあわせ)」
1050年(永承5年)「祐子(ゆうし)内親王歌合」
1055年から大弐三位を名乗る。
1096年(嘉保3年)「権大納言師房(もろふさ)歌合」
など、多くの歌合に出席し、一流の歌人として母・紫式部を超えるほどに
名を馳せていきました。
摂関政治の全盛期で、その頂点に藤原道長がいた。
道長は、世界最古の直筆日記とされる『御堂関白記』(世界記憶遺産)を残している
道長の三女、 威子(いし)が後一条天皇の皇后になったことを祝う 宴が開かれ
その二次会で道長が詠んだとされる「望月の歌」が有名です。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば
道長の『御堂関白記』には「望月の歌」に関する記述がない。
当日は、天文暦法上は「十六夜(いざよい)の月」であった。
三条天皇に味方した時は、反目していた藤原 実資(さねすけ)
実資の日記『 小右記』の寛仁2年(1018年)10月16日の条に書き留められている。
「ひとつの家から三人の后(皇后、皇太后、 太皇太后)が誕生するという未曽有のこと」
道長が当時右大将だった実資に「今から座興で歌を詠むので返歌せよ」と命じて「望月の歌」を詠んだ。
実資は「優美な歌で、返歌のしようがない。皆でただこの歌を詠じてはどうか」と出席者に呼びかけて、一同がこの歌を数回吟詠した。
天皇と道長の娘たちの入内
一条天皇と彰子
三条天皇と妍子
後一条天皇と威子
後朱雀天皇と嬉子
代表的な掛詞 韻を踏む
あき=秋、飽き
「あき風に 山のこの葉の 移ろへば 人の心も いかがとぞ思ふ」(素性法師)
あふさか=逢坂、逢ふ
「かつ越えて 別れもゆくか あふ坂は 人だのめなる 名にこそありけれ」(紀貫之)
いなば=因幡、往なば
「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」(納言行平)
うき=浮き、憂き
「水の泡の 消えてうき身と いひながら 流れて猶も 頼まるるかな」(紀友則)
うじ=宇治、憂し
「わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり」(喜撰法師)
うらみ=浦見、恨み
「逢ふ事の なきさにしよる 浪なれば うらみてのみぞ 立帰りける」(在原元方)
おく=置く、起く
「音にのみ きくの白露 夜はおきて 昼は思ひに あへず消ぬべし」(素性法師)
かり=刈り、仮、雁
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき」(皇嘉門院)
かる=枯る、離る、借る
「山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば」(源宗于)
きく=菊、聞く
「音にのみ きくの白露 夜はおきて 昼は思ひに あへず消ぬべし」(素性法師)
きぬぎぬ=衣衣、後朝
「東雲の ほがらほがらと 明けゆけば おのがきぬぎぬ なるぞ悲しき」(よみ人しらず)
しのぶ=しのぶ草、忍ぶ
「君しのぶ 草にやつるる 古里は まつ虫の音ぞ 悲しかりける」(よみ人しらず)
しみ=染み、凍み
「笹の葉に おく初霜の 夜をさむみ しみはつくとも 色にいでめや」(凡河内躬恒)
すみ=澄み、住み
「白河の 知らずともいはじ そこ清み 流れて世世に すまむと思へば」(平貞文)
たより=便り、頼り
「たよりにも あらぬ思ひの あやしきは 心を人に つくるなりけり」(在原元方)
つき=月、(酒)盃、尽き
「めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ 千代もめぐらめ」(紫式部)
「みな月の なごしの祓い する人は 千歳の命の ぶるといふなり」(和泉式部)
つつみ=堤、包み
「思へども 人めつつみの 高ければ 河と見なから えこそ渡らね」(よみ人しらず)
つま=褄、妻
「唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」(在原業平)
ながめ=長雨、眺め
「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」(小野小町)
なかれ=流れ、泣かれ
「山高み した行く水の したにのみ なかれてこひむ こひはしぬとも」(よみ人しらず)
ね=根、音、子、寝
「風ふけば 浪打つ岸の 松なれや ねにあらはれて なきぬべらなり」(よみひ)
はる=春、張る、晴る
「霞たち このめもはるの 雪ふれば 花なき里も 花ぞちりける」(紀貫之)
ひ=火、思ひ、恋ひ
「人知れぬ 思ひをつねに するがなる 富士の山こそ わが身なりけれ」(よみ人しらず)
ひも=紐、日も
「唐衣 ひもゆふぐれに なる時は 返す返すぞ 人は恋しき」(よみ人しらず)
ふみ=踏み、文
「大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(小式部内侍)
ふる=降る、経る、振る、古る
「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」(小野小町)
まつ=松、待つ
「立ち別れ いなばの山の 嶺におふる まつとし聞かば 今かへりこむ」(中納言行平)
みおつくし=澪標、身を尽くし
「わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても あはむとぞ思ふ」(元良親王)
みるめ=海松布、見る目
「しきたへの 枕の下に 海はあれど 人をみるめは 生ひずぞ有りける」(紀友則)
ゆふ=結ふ、夕、木綿襷
「唐衣 ひもゆふぐれに なる時は 返す返すぞ 人はこひしき」(よみ人しらず)
よ=節、夜、世、代
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき」(皇嘉門院)
道長の望月の歌
「このよ」は、「この世」と「この夜」をかける 掛詞
「我が世」は、天皇や皇太子以外が「わが支配の世」の意味で使うことはない。
紫式部(生没年不詳)の『源氏物語』にも天皇を「日」、皇后を「月」に例えている
三后すべてを達成した喜びを表現して、望月の歌を詠んだのかも知れない。