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お稲荷さんに日本の神はいない
八幡さんの記事でもかきましたが、お稲荷さんで記事を残します。
『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)
『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
稲に宿る神秘な霊・神
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである。
伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。
八幡神社と稲荷神社は半島からの渡来人である秦氏が作ったものであり、元々は日本の神とは無関係でした。
室町時代に日本の神に入れ替えた感じですかね。
稲荷神社は願い事が叶うと見返りを求めるとも言われる。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)系
「イナリ」の縁起としては『山城国風土記』にあったとされる秦伊侶具のもの「伊奈利」
稲荷神は元来、五穀豊穣を司る渡来神であった。
秦氏と賀茂神社との関連
秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅四年二月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年八月八日卒
— 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』
渡来人であった秦氏の氏神的稲神信仰をもとに、秦氏の勢力拡大に伴って八幡神社と伏見稲荷の信仰圏も拡大されていった。『日本民俗大辞典』
秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となった。
伏見稲荷の眷属とされる狐に関する伝承
時は平安初期の弘仁年間(810年 - 824年)のこと、平安京の北郊、船岡山の麓に、全身に銀の針を並べ立てたような年老いた白狐の夫婦が棲んだ。夫婦は心根が善良で、常々世のため人のために尽くしたいと願っていたが、狐という畜生の身であっては、願いを果たすべくもない。そこで、夫婦は意を決し、五匹の子狐を伴って稲荷山に参拝し祈った。「今日より当社の御眷属(山の神の使い(眷属)動物の姿である)となりて神威をかり、この願いを果たさん」
すると、たちまち神壇が鳴動し、稲荷神の厳かな託宣がくだった。「そなたたちの願いを聞き許す。されば、今より長く当社の仕者となりて、参詣の人、信仰の輩を扶け憐むべし」明神からは男狐はオススキ、女狐はアコマチという名を授けられたという。
— 真雅『稲荷流記』他
説話は講を通して武士や作人といった民衆にも広まり、祖霊の塚に稲荷社を建てたり眷属である狐を併せていくことになる。
「イナリ」が「伊奈利」から「稲荷」に変わる
『類聚国史』にある淳和天皇の天長四年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。
伏見稲荷大社の神宮寺の役割を果たしていた東寺(空海が創建)
天長四年、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。
以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。
類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)は編年体である六国史の記事を、中国の類書にならい分類再編集した歴史書である。
菅原道真の編纂により、892年(寛平4年)に完成した。
延喜八年(908年)には藤原時平の寄進により社殿が造営され、延長五年(927年)の『延喜式神名帳』には名神大社、また二十二社の上七社に列し、天慶五年(942年)に正一位が授けられた。
延久四年(1072年)には、初の行幸として、後三条天皇が訪れ、この後鎌倉時代まで、祇園社とあわせての両社行幸が恒例となった。
鎌倉時代の成立とみられる『年中行事秘抄』では、「くだんの社、立ち初めの由、たしかなる所見無し」とあり、確かな由緒は不確かだとしている。
江戸時代、徳川宗家は浄土宗に帰依し、幕僚として仕えた天海は天台宗の僧であり、稲荷神の崇敬は朝廷の他、専ら町人や商人によって行われた。
明治政府は稲荷社から領地をすべて召し上げ、境内地も4分の1に減らされた。
1871年(明治4年)には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに正式社名を「稲荷神社」とし「官幣大社稲荷神社」となった。
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お礼参りの寄付で立てられる赤い鳥居の列を見るからに醜悪と感じる人がいることも自然なことである。