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播磨国風土記

風土記(ふどき)とは、奈良時代に地方の文化風土や地勢などを国ごとに記録・編纂して、天皇に献上させた報告書です。日本最古の地理書とも呼ばれます。

風土記は、和銅6年(713年)に元明天皇の詔(みことのり=命令)により、諸国の産物・地形・古伝説や地名の由来などを記して撰進させたものです。
この上申書は、のちに『風土記』と呼ばれた。

現存するのは、完本の出雲と、省略欠損のある常陸・播磨・肥前・豊後(ぶんご)の5か国のものです。出雲はほぼ完全な形で、ほか4カ国は部分的に残っている状態です。
中でも播磨国風土記は忠実に当時の地理や地名が記されているといいます。

それ以外の国の風土記は、さまざまな書物に一部分が引用されていることから、その存在が推測されます。これを「風土記逸文」と呼び、現在は約30カ国が確認されています。

風土記は、奈良時代の政府が地方を支配・徴税するために、色々な情報を集める必要があったことから作成されました。どんな山や川があるのか、どんな動物がいるのか、名物は何か、なぜある地名がついたのかなど、各地の情報が詰まったガイドブックです。

『風土記』からは、恋愛・怨恨・争奪・侵略など人々のたくましい生活ぶりや願望を数多く読みとることができる。

『播磨国風土記』の原本ははるか昔に失われ、現存するのは三条西家に伝来した古写本である。平安中期ごろのものかといわれ、現在は国宝で天理大学附属天理図書館が所蔵する。原本が下書き状態だったのか完本だったのかは学者により諸説ある。

播磨国(はりまのくに)は、日本の地方行政区分だった国の一つで、現在の兵庫県南西部にあたる地域です。播州(ばんしゅう)とも呼ばれます。

播磨国は7世紀に成立し、針間国・明石国・針間鴨国が編入されたと推定されています。
国府と国分寺は現在の姫路市にあり、律令制下では山陽道に属していました。「延喜式」では大国に分類され、京からは近国とされました。

また、播磨国という場合、兵庫県に統合されるまでの飾磨県があった旧播磨国の地域を指す場合と、西播磨・中播磨・東播磨・北播磨の4つの県民局を合わせた地域を指す場合があります。

播磨国(ハリマノクニ)の地名の由来は明らかではありませんが、地名「ハリマ」に「針間」の字をあてているのは、大和政権からみて吉備に対する前線地点であったことを示唆していると言われています。

播磨国は、大宝律令(701年)の制定によって国郡里制が導入され、それ以前の「明石国造」「針間国造」「針間鴨国造」という3地域の国造(地域有力者)が統合された地域と考えられています。

風土記
令規定の郡・里となっており、霊亀ニ年(715年)の郡郷里制への移行前に成立したようにみえる。したがって編集者は官命のあった和銅六年(713年)から霊亀ニ年の国司が候補となる。国守の巨勢邑治(こせのおおち)・大石王・石川君子が編纂のトップで、実務は和銅五年七月に播磨大目だった楽浪(ささなみ)[高丘]河内かと推測される。しかし郡里制の記載があるからといってもそれが成立時点を意味するとはかぎらず、また郡郷里制への転換を霊亀三年とみる説もあり、成立年代と編集者は定説をえていない。

現在の姫路市中心部にあった十四丘の古い地名の由来を説明している。
子神の火明(ほあかり)命が粗暴なので、大汝命は置き去りにして船出しようとした。それに気づいた子神は風波をおこし、船を破壊した。このとき船の積載物などが落ち、その落ちたものが丘の名の由来になったという。

『播磨国風土記』には、伊和大神(いわのおおかみ)や佐用都比売命(さよつひめのみこと)などの神が登場します。
伊和大神は、兄の伊和大神と国の占有をめぐって争ったという神です。伊和大神は「大汝命(おおなむちのみこと)」や「葦原志許乎命(あしはらしこおのみこと)」とも呼ばれ、記紀では「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と同じ神とされています。

佐用都比売命は農業の女神とされており、兄の伊和大神と国の占有をめぐって争った際に、鹿の血をもちいて稲の苗を一夜で育て、兄神に勝ったという伝承があります。播磨(兵庫県)佐用郡の名はこの神に由来すると言われています。
また、オオナムチノミコトが、乱暴者の息子ホアカリノミコトを捨てようとしたことで怒りをまねき、現在の姫路で船が難破してしまったという伝承も登場します。

父の神の船、振興す能(あた)はずて、ついに打ち破らえき。所以に、其処(そこ)を船丘お号け、波丘と号く。琴落ちし処は、すなはち琴神丘と号け、箱落ちし処は、すなはち箱丘と号け、梳匣(くしげ)落ちし処は、すなはち匣(くしげ)丘と号け、箕(み)落ちし処は、すなはち箕形丘と号け、甕(みか)落ちし処は、すなはち甕丘と号け、稲落ちし処は、すなはち稲牟礼(いなむれ)の丘と号け、冑(かぶと)落ちし処は、すなはち冑丘と号け、沈石(いかり)落ちし処は、すなはち沈石丘と号け、綱落ちし処は、すなはち藤丘と号け、鹿落ちし処は、すなはち鹿丘と号け、犬落ちし処は、すなはち犬丘と号け、蚕子(ひめこ)落ちし処は、すなはち日女道(ひめぢ)丘と号く。

餝摩郡伊和里

日女道丘の神は、大汝少日子根(おおなむちすくなひこね)命の求愛をうけ、筥(はこ)丘に食物などを供えたという。
現在「男山」となっている「筥丘=箱丘」は「姫山」と並ぶ山で西側から姫路城を眺められる絶景スポットです(日ノ出と城を写真に収められるフォトスポットでもある=男山配水池公園)。
ここは神々の集い憩う楽園であった。

日女道丘は後に「姫山」と改名され姫路城が建つ。
姫路城の天守からは播磨国風土記に登場する丘(山)が見渡せる。

現在「琴丘(ことがおか)」となっている「琴神丘」は、薬師山に比定されている。

大雀(おほさざき)の天皇の御世に、人を遣りて、意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の五の国の造等を喚(め)したまひき。是の時に、五の国の造、すなはち召しの使もて水手(かこ)と為て、京に向かひき。これをもちて罪と為したまひ、すなはち播磨の国に退ひて、田を作らしめたまふ。

餝摩郡餝摩御宅

「餝磨郡餝磨御宅」は、兵庫県姫路市飾磨区三宅にある「三宅遺跡」の遺称地とされています。三宅遺跡には、地方では珍しい僧坊跡も確認されており、餝磨郡で最も有力な寺院であったとされています。

昭和45年の姫路バイパス工事で、大量の古瓦や土器類が出土しています。
三宅遺跡は、現在の三宅字貝柄塚にある三宅天満神社です。

三宅遺跡より市川を挟んだ東側にあるのは国道2号線・姫路バイパス東ランプで、国道312号の終点です。
北側が四郷町で、古墳が点在します。
南側が「継」で「登リ田(のぼりた)遺跡」は、古代~中世の集落跡です。
登リ田遺跡は古代の官衙関連遺跡とされています。
2021年1月上旬に調査が終了し、井戸枠内から100個体以上の遺物が出土しました。遺物には、瓦、器、椀、須恵器、土師皿などが含まれ、11世紀後半~12世紀前半頃に作られた井戸と考えられています。また、平安時代の井戸や、土器・瓦を大量に廃棄した溝(河道)なども発見されています。
継の集落には現在、岸本家と辰巳家の両一族が住んでいます。

飾磨区
飾磨区は姫路市の南部側の中央にあります
飾磨津は飾磨港です。
昔は飾磨県の県庁所在地、飾磨市の庁舎がありました。

飾磨郡
飾磨郡は、古代には播磨国南部中央に位置し、東は印南郡、南は瀬戸内海、北は神崎郡、西は宍粟郡・揖保郡に囲まれていました。
明治29年(1896年)4月1日に飾東郡と飾西郡が合併して成立しました。
郡役所は姫路市に設置され、全域が現・姫路市となっています。
昭和初期まで国鉄播但線が南北に走っており、県立飾磨工業高校の南(イオンモールリバーシティの西側)に国鉄の飾磨駅がありました。
飾工の敷地内を線路が走り、運動場へは陸橋を渡って行く。(現在は遊歩道)
現在は東に離れた位置に山陽電鉄の飾磨駅が残る。

飾磨の名の由来
飾磨(しかま)は、古くからある地名で、播磨国風土記にも登場します。
由来は「鹿がいて啼いた」とされています。
飾磨工業高校OB会は鹿津会(ろくしんかい)といいます。
由来は、昔、印南野(いなみの)に住む鹿が和歌などで「夢野の鹿」と詠まれていた。
そ の夢野で仁徳天皇が狩をされた時、雌雄の鹿が逃げのび、二ヶ所に別れて住みつき、牡鹿が住みついた処を男鹿島(たんがじま)、牝鹿が住みついた処を妻鹿 (めが)といい、海中の州(しま)を行き来したという。本校のある飾磨は、この男鹿島と妻鹿の間にあたるところから、「鹿間津」といわれるようになった。
以上のことが江戸中期の「播磨鑑」にかかれており、同窓会もそれに因んで「鹿津会」という。

飾磨の東隣には、「妻鹿」があり播磨灘には「男鹿島」があり、夫婦鹿であったとされる。妻鹿の山には黒田官兵衛孝高の居城跡がある。羽柴秀吉に姫路城を譲った後の居城でしたが主に親が住んでおり、勘兵衛は出陣が多かったようです。
夢前は夢前町ではない
山陽電鉄支線(網干線)西飾磨駅の西には夢前駅がある。(姫路市南部、日鉄東門)
夢前町は姫路市の北西にありますので遠く離れた似た地名です。

ちなみに現在、飾磨には鹿はいない。

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