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お江戸は大混乱

小判10両で首が飛ぶ
10両盗むと打ち首獄門という意味だそうな。
江戸初期の価値で100万円程度の盗みで死刑だったわけですね。

江戸時代の貨幣は、徳川幕府が独占して発行していました。
金座(きんざ)・銀座(ぎんざ)を設置
1601年には、様式・品位(金銀の含有率)・形態などを統一した慶長金銀を発行しました。

江戸時代の貨幣制度は、金・銀・銅の3種からなる「三貨制度」と呼ばれます。
金貨(小判・一分金など)は、額面を記した計数貨幣、銀貨(丁銀・豆板銀)は重さで取引する秤量貨幣、銭貨は1枚1文の計数貨幣でした。

江戸時代の貨幣 金銀銅の価値
金1両=4分=16朱=銀60匁(もんめ)=銭(銅)4000文
銅貨1匁=10分≒3.75g
1朱4枚と1分が同じ価値、1分4枚と1両が同じ価値
一文無しという言葉がありますが、一文は約25円程度の価値でした。

西の銀遣い、東の金遣い
一分銀、一朱銀は主に西日本で使われ、一分金、一朱金・二朱金は東日本(主に江戸)で使われたそうです。

価値が下がり続けた1両
1両の価値は、米価から換算すると、初期の頃で10万円、中~後期で3~7万円、幕末頃は3~4千円になります。

江戸時代の中期以降では、お米1石(約150キログラム)が1両だったといわれています。
幕末には物価が高騰し、1863年(文久3)には江戸で金1両=約0.4石(約4斗)、
大政奉還が起こった1867年(慶応3年)末には、大坂で金1両=約0.086石(当時の相場の1石=銀700匁=金11両3分から計算)と購買能力は10分の1以下になっていました。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)とは、近世の百姓(農民)が過酷な年貢の取り立てや物価の暴騰、領主や代官の非法などに反発して起こした一揆です。江戸時代中期ごろから激化しました。百姓一揆は、村単位で広範囲に結ばれ、領主や代官に対して年貢の減免などを要求しました。

百姓一揆には、暴動、逃散、越訴、強訴、打ちこわしなどの形態がありました。
一揆が起こると、代官は責任を問われました。

18世紀前半の享保の改革のころから増加し、大規模な飢饉が発生しても幕府は変わらず年貢を徴収したため、飢えるよりはマシということで百姓一揆が起こり、無宿人や浪人も合流した。

原因を作ったのは江戸幕府
江戸幕府の失政により、インフレが起こった
江戸幕府はインフレの責任を商人になすりつけた。

行きあたりばったり、一時しのぎの政策を乱発
享保の改革では、幕府創立の時代を理想に、綱紀の粛正、質素倹約、旗本・御家人の救済、農村対策などをはかる改革。

享保の改革は、徳川吉宗が第8代将軍として幕府の財政を立て直すために行った改革です。享保年間(1716年~1735年)に実施され、幕府創立の時代を理想として、綱紀の粛正、質素倹約、旗本・御家人の救済、農村対策などをはかりました。

徳川吉宗の経済政策は、上米の制、定免法、新田開発など、伝統的な農業を中心とした幕府に年貢米をより多く集める政策です。
当時の財政収入のほとんどが農民からの年貢米だったため、米の取り方を工夫した吉宗は「米将軍」とも呼ばれています。

江戸時代の米は、税金や給料を支払う通貨としての役割も果たしていました。諸藩の領主は税金として年貢米を徴収し、その米は自分達の食糧とするほか、武士への給料も米で支払われていました。それ以外は蔵などに保管して、貨幣が必要になると市場で売ってお金に換えました。
貿易などで貨幣が必要になると大量に集めた米を放出するので、当然ながら米価は下落しました。

人口のおよそ85%が農業・漁業・林業などに従事していました。
奨励された「換金作物」とは、農家が自分で消費するのではなく、主に売ることを目的として農閑期に栽培する作物です。
代表的な商品作物は「四木三草」と呼ばれ、四木は桑・漆・茶・楮、三草は麻・藍・紅花です。材木、綿花、菜種、たばこ、い草も人気商品となりました。
特産品も人気が高かった。
駿河・山城宇治の茶、阿波の藍、最上地方の紅花、薩摩(琉球)の黒砂糖、越前の奉書紙などが有名でした。
北前船は地域で違う特産品を運んで売るだけで莫大な利益を得ました。
北前船はニシンを運び、質の良いニシンは乾燥させて身欠きニシンに加工され、日本各地にニシン料理が広まりました。売って空荷になれば、その地の特産品を安く仕入れて、他の土地に言って高く転売します。

幕府は、米に立脚する石高制・知行制・税制を維持するために、1643年以降たびたび発せられた「田畑勝手作禁止令」は有名無実と化し廃止されました。

上米の制は1730年(享保15年)に廃止されました。

享保の改革の目的は、幕府に入るお米の量を増やすことで、代表的な政策が「上米(あげまい)の制」です。大名に1万石あたり100石の米を幕府に差し出すことを定めた制度で、大名に負担を強いる代わり、参勤交代で江戸にいる期間を短縮するという内容でした。また、農村には新田開発を奨励して年貢収納を増大させました。

町奉行の大岡越前も武士であり経済を理解していませんでした
商売で利益を得る行為を卑しいことと見做して商人を批判した。

享保の改革は、先例格式に捉われない政策が行われ、文教政策の変更、法典の整備による司法改革、江戸市中の行政改革など、内容は多岐に渡ります。

年貢が「五公五民」に引き上げられたことで農民の負担が大きくなり、農民による一揆が増えました。
この改革以降、日本中が荒れるようになっていきました。
一度決めた改革を一部取り下げたりと、社会は混乱に陥りました。

打ちこわしとは、生活に苦しむ都市の下層民が集団で起こした暴動です。江戸時代中期以降、主に江戸や大阪などで発生しました。

打ちこわしでは、民衆が米屋や酒屋、質屋などの富豪を襲撃し、家屋を破壊したり、家財を略奪したりします。その原因としては、凶作やききんによる米の不足、商人が米を買いしめて値段をつりあげたことなどが挙げられます。

打ちこわしは「米よこせ」運動とも呼ばれ、18世紀以降、大きなききんの後に特に多発しました。百姓一揆と比べて組織力に欠けますが、幕府に与えたショックが大きかったと言われています。

幕末~明治初年には、封建的土地制度の改革を目的とした農民一揆が起こりました。特に明治4年(1871年)頃まで、東北や関東で広く起きた打ちこわしは、年貢の減免や藩の専売制撤廃、村役人リコール制確立などを要求していました。

江戸時代の町奉行所の役人は仕事をしたがらなかった
人が殺されない限り動かない、傷害沙汰くらいでは奉行所は動かなかった。
喧嘩と火事は江戸の花、日常茶飯事だった為、いちいち捕縛していたら牢屋が溢れる。

商店の打ちこわしが有っても役人は知らん顔でした。
奉行所は警察と裁判所を兼ねる役所と思われるが、重大事件のみ対応したわけです。

おまけ
江戸後期~幕末には換金により日本は金を外国に搾取されます。金の大量流出。

1962年から京都を制圧し朝意を左右していた尊攘派は、63年8月13日、天皇に強要して攘夷親征のための大和行幸の勅を出させた。
同年8月18日、孝明天皇と中川宮(朝彦親王)が画策し、薩摩・会津両藩が加わって
京都から攘夷派の中心であった長州藩と、それと結ぶ急進派公卿とを追放した。

王政復古政変
アメリカ、イギリス、オランダ、フランスなど、薩長同盟などが絡み、1867年(慶応3年)10月14日に江戸幕府15代将軍であった徳川慶喜が、朝廷に「統治権を返上する」旨を記した書面を提出したことを指します。翌日、明治天皇から許可が下り、大政奉還は実現しました。

1867年12月9日に薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らによって「王政復古の大号令」が出されました。この大号令は、鎌倉幕府以来約700年続いた武家政権が終わり、天皇による政治に戻ることを宣言したもの。
日本は立憲君主国として国際社会に羽ばたきました。

日本は先進国の技術を盗むのではなく買うことにした
明治時代にもお雇い外国人に法外な報酬と待遇を与えました。
そうしないと貿易(国産品の輸出)できませんからね。

無知無学な欧米人は日本が技術を盗んだ、猿真似したと批判しますが、頭悪いですね。

将軍吉宗や大岡越前の名声を下げる意図はありません。

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