姫路城

この記事は仮UPです、手直しする予定があります。

姫路城
その美的完成度が我が国の木造建築の最高の位置にあり、世界的にも他に類のない優れたものである
特徴的な白い城壁は、白漆喰総塗籠造りによるものです。

普段は非公開の大天守の東側に位置する(城の裏口に当たる)「搦手」周辺が特別公開されています。(裏門:昔は詰め所もあり公開されていました)
この場所は、敵の侵攻を防ぐため急勾配の階段や高低差といった自然の地形を生かして造られ高い防御機能を備えています。

城の裏門(天守正面から見ると右下になります)
「搦手」は、城の裏門を意味し、野戦で敵の背後にまわりこんで逃げる敵兵を捕らえる場所を指します。また、転じて、相手の弱点や注意が向いていない場所をつく、という意味もあります。正しい読み方は「からめて」です。

この他、格子窓から外をのぞき敵を迎え撃つための工夫が施された「トの櫓」なども公開。

池田一族の揚羽蝶が逆さまに?
500近くある家紋をつけた瓦の内 1枚が上下逆さまに設置されていた
逆さまになった家紋は、邪悪な魂に対する監視役として意図的に設置されたものだと言う。わざと未完成にする日本建築の哲学でも有る。

菱の門(冠木に剣花菱の紋がついている門)
姫路城最大の門 城郭への入口
三の丸から二の丸へと通じる門の上に櫓を設けた、二階建ての櫓門(やぐらもん)
片側のみ石垣にかかっている(外から見ると左側)
二階に柱の形が見えている格式が高いつくり
上枠を火炎形(火灯曲線)に造った特殊な「火灯窓(かとう窓)」がある。
柱は数本を一組にしており、継ぎ手隠しの鉄板が貼られている構造は日本初。

三国堀(日本最大の場内溜池)
石垣には水汲み階段が2箇所有るが、一箇所は石垣の中に埋められた。
城に籠城するときの非常用水でもある。

対面所
殿様が家臣と対面するところ
明治初期に火災で消失

門はいろはにほへと
櫓はイロハニホヘト

いの門
日本初の高麗門(朝鮮から伝わったものではなく、日本が発明した門)
門扉の上を雨から守る屋根が最小限で済む構造
内側から見ると、柱の継ぎが見える。

ろの門
高麗門 書きかけ・・・

はの門
通称将軍坂(暴れん坊将軍ロケ地)
右側の壁は日本初のブロック構造(中はレンガ積み)
二階建ての櫓門
秀吉時代の門 はの門・との一門は柱を継いでないので鉄板が貼られていない。

にの門
一部が石垣の上から飛び出している

秀吉時代の石垣
鈍角
耐火仕様の鉄門(くろがねもん)
L型の門で向こうが見通せない暗い門

ロの櫓
秀吉時代の櫓
鈍角

二の櫓
西小天守と繋がる
にの門手前の通路は集中砲火ポイント

ほの門
埋門(うずみもん)
日本最大級の土塀は版築(はんちく)つくりの築地塀(ついじべい)

水一門(みずのいちもん)~水四門
4つの小さい門が続く 敵兵の足止めをする門
棟門(むねもん)
滴水瓦(てきすいがわら)
明で発明されて姫路城に伝わる
上の天守には、乾小天守(いぬいのこてんしゅ)とロの渡櫓(ろのわたりやぐら)があり、水門・ほの門を攻撃できる構造
水三門は、埋門で壁からも、乾小天守からも西小天守、ハの渡櫓からも集中攻撃を受ける。

水五門
三階建ての門
右に大天守、左に西小天守、その間に二の渡櫓(二階建ての渡櫓)
からの撃ち降ろし攻撃をうける。

水六門
西小天守の真下にある門
地下には非常用?の厠(和式トイレ)と大きな備前焼の瓶が嵌め込まれていますが、使用された形跡はないので籠城するときのトイレかも?

大天守
出入口が4つある大天守は姫路城のみ
入口の耐火性の門扉は籠城のときには外す。
内側にも鉄板貼りの扉が有る二重扉。

天守の地下、広い畳敷きで侍が寝ることが出来た。
大きな流しの左側扉を開けて二階建ての台所櫓
ロの渡櫓と大天守の間に台所があった。
渡櫓と各天守の連結部には厳重な扉が有る。

地階から階段を上がると大天守1階
五重六階+地階という構造
54畳敷+広い武者走り。
武者走りの内側には板場には畳が敷き詰めてあった。
柱の間隔は一間半もある

石落としの正式名称は足駄狭間(あしださま)・袋狭間(ふくろさま)
石落としから攻撃する兵は1段高いところに上がって攻撃するので
武者走りの床にも鉄砲隊が入れて、上下二段で攻撃可能。
上には煙出し窓(排煙窓)が有る。黒色火薬は亜硫酸ガス・煙が多いので排煙設備がないと戦えない。他の城では宇和島城にも見られる。
壁には鉄砲・火縄・火薬袋を掛けられる。

天守は大きな窓が数多く並ぶので明るい天守である
天守二階の出格子窓は日本最大
格子は八角形で、史上最大の太さ
出格子窓の内側の窓は少し前に出ており、出格子窓の直下を攻撃できる

天守三階の唐破風の狭間(二階出格子窓の上の部分)の下にも入れる
武者隠しも別にある。
これも二階建てになっており、上下から武者走り方向の敵を撃てる。

入り母屋の破風上に窓

天守四階
石打棚の上段に窓がある。石打棚にも畳を敷いていた。
下段は屋根があるので窓はない。
屋根裏部屋には収納スペース(日本初のロフト)があった。
石打棚の左右には小さい屋根があり、その中に指揮官用の低い窓がある
指揮官の指揮により鉄砲の一斉斉射を浴びせる。

天守五階は屋根裏部屋構造となっているので本来は暗いが、
上下二段の窓により明かり取りするので明るい。
その為に唐破風を屋根につけて窓からの明かりを取り込みやすく作った
窓の明かり取り目的で唐破風を付けた城は姫路城のみ
姫路城の天守は東大柱、西大柱として知られる2本の巨大な柱で支えられている。 25 メートルの 高さに根元部分は1メートル近い幅の柱が城の複雑な格子構造をしっかりと支え、1本が 100 トン もの木材、粘土、漆喰の重量に耐えている。

天守六階
姫路城の守り神「刑部神社(長壁神社、おさかべじんじゃ)」のある大天守最上階天井の「廻縁」の下には蟻壁がある書院造り
「蟻壁」とは、天井の縁の部分である天井長押と、小壁の上端である上長押との間の部分のこと。 建築において蟻とは、構造的に繋ぐと言う意味で良く使われている。
高砂出身で、姫路藩の剣術指南役だった宮本武蔵が妖怪退治をしたと伝わる

南側の廊下は広く、北側の廊下は少し狭い
窓の下には隠し狭間、窓の上には隠し窓があり排煙できる。
四隅には防弾壁があり、敵からの大砲攻撃時には隅に隠れられる。

備前丸
大天守とその石垣が見渡せる
姫路城の天守は山形

破風は大きく分けると次の4種類
入母屋破風
千鳥破風(ちどりはふ)
切妻破風(きりづまはふ)
唐破風(からはふ)
姫路城や名古屋城(愛知県名古屋市)のように特別に大きな天守は、入母屋破風や千鳥破風を横に2つ並(なら)べることがありました。入母屋破風を横に2つ並べると比翼(ひよく)入母屋破風、千鳥破風を2つ並べると比翼千鳥破風と言います。

窓の内側には厚さ12センチのスライド式の板戸がついている。
その内側には格子戸がついている。
天守には無数の鉄砲狭間があり、これは日本の城では最多である。
ところどころ縦長の狭間が造られているが、板戸を閉めると狭間が使える状態となり、縦長の狭間からは外を観察できる。
縦長の狭間は鑓り槍窓(やりやりまど)だが、監視用。

大天守は左右非対称
出格子(10X3メートル)は窓のズレを隠している。
柱の間隔は六尺五寸、1階は14間の柱が有る。
2階は西小天守とのデザイン上の見栄えを優先して東に寄っている
2回は13間の柱が有る。東側2つの窓は1間分東に寄っている。
西側2つの窓は1階の窓と同じ位置。要するに2階は左右非対称。
出格子の上には日本最大の唐破風が付けられている。
姫路城の唐破風は前向きに雨水が流れる日本唯一の形状。

大天守最上階のみ真壁(しんかべ)になっている。
菱の門の真壁と2箇所。

姫路城は鯱の数が多い

帯の櫓
備前丸から門を出て正面には最大の土塀があり、右に曲がると帯の櫓が見える。
帯のようにぐるりと廻る櫓構造になっている。
帯の櫓の下には抜け道があり、埋門を抜けると井戸丸へ抜ける。

りの門
慶弔四年(1599年)に造られた高麗門で現存する最古のもの
日本初の寄木柱(よせぎばしら:接柱)が使用されている。
ハリボテのように中が空洞になっている柱。
りの門横の太鼓櫓は歪んでいるが、軟弱地盤で石垣が沈んだと考えられる。武家諸法度により石垣の修理が出来なかった可能性がある。
その為、太鼓櫓の床は東西に約4度傾いて西が上がっている。
鉄砲狭間も歪んでいることがわかる。
リの門の外には巨大な人面に見える石積がある。

二の丸を守るチの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓がぬの門に繋がる
ぬの門が通常の天守への入口であった。総鉄板ばりの門扉
三階建ての城門は、日本にはぬの門と水五門しかない。

櫓は内側に窓を造らない。
チの櫓は重箱構造で、一階と二階の床面積が同じ
リの一渡櫓には下屋(げや)庇(ひさし)
リの二渡櫓は外からは一階建てに見えるが、内側から見ると二階になっており、一階の外側は石垣である。(現在、一階には鯱を展示してある)
安土城で使われた技術で現存唯一。
チの櫓の狭間から、ろの門の手前にいる敵兵を長距離狙撃できる。

るの門
階段を下ってトンネル状の埋門になっていた。
現在は石垣の門に見えるが、元は鏡柱があったので、狭い門でした。

この記事は書きかけですが、三連休のためUPしました。


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