たった今視界に映ったものだけをテーマに日常エッセイを書く
視界に映るもの全てがnoteのネタになる、みたいなことを漠然と考えて、じゃあ実際にやってみるかと思い立った回。書きたいことリストが溜まると、内容を厳選しがちになって良くない。もっと気楽に、浮かんだままの思考を垂れ流すような文章を書きたいのだ。拘りって大切だけど、凡人にとっては腰を重くする毒であるとも思う。軽率さを取り戻すような儀式を意識的にすることは、だから案外重要だったりする。
・LANケーブル
デスクのケーブル穴から未接続のものがちょこんと顔を覗かせている。これは在宅勤務時の社用PCに繋ぐ用だ。明らかに無線接続をした方が楽なんだけど、私用のも含めてPCは有線接続したい派なのだ。実用性による理由というより、どちらかというと印象論的な側面が強い。有線だと安心感があるといいますか。
LANケーブルは両端にコネクタとなる透明なツメが備わっているのが一般的だが、このツメは単体でも販売されていたりする。袋詰めでジャラジャラと。つまりLANケーブルって既製品のみならず、実は自作も可能なのだ。ちなみに僕は職業柄これができる。
LANケーブルを作るのはかなり面倒臭い。まずケーブルを切って、外皮を少し剥がして、中の複数の銅線を適切な順に並び替えて、長さを揃えて、同時にツメに差し込んで……。本当に人力でやることか? 思い出すだけで発狂しそうになるチマチマした作業だ。任意の長さに調整できるので大規模な敷設の際に活用できるのだけど、にしたって労力に見合ったメリットがあるとは思えない所業だった。あんな職人技術はこの世から絶えてしまえと思う。
人間が丹精込めて作ったケーブルだからといって、工場生産のものと比べて特別に接続が良くなったりはしない。当然だ。けれど同じテンションで「料理は愛情を込めたって美味しくはならない、結局は技術次第だ」とか言うと途端に反感を買ってしまうから人間の印象論は面白い。
・note
noteを書いているので自分のnoteが見えている。ズルというかメタっぽいお題。
人間は自分の体臭に関して、臭いと思いつつも不快にはならないみたいな言説を聞いたことがある。実体験としても心当たりのある話だ。同様に、それは文章にも似たようなことが言える気がしている。
自分の過去記事を読み返すと、内容にしろ表現にしろ、直したい所はまあ沢山見つけられる。かなり臭う。けれども一方で、ノリとか温度感とか、根本的な周波数みたいな部分の調子が合うなとしみじみ感じることも多い。当然のように思えて、当然であることがちょっと不思議だ。もし僕が記憶喪失になったら、自分の文章は結構好みになるんじゃないかと思う。なんだかナルシストみたいな発想で声高に主張はできないけど、文章書いてる人なら共感できるんじゃないだろうか。
・水
店売りの、2Lペットボトル水。特にブランドの拘りはない。
透明感のある容器は見た目にも涼しげで綺麗だ。けれどおかしなことに、ラベルを剥がすと途端にチープさが際立ってしまう。こう「水道水入れて使い回してます」みたいな。丸裸のペットボトルって生活感が出過ぎるというか、工作の素材感があるというか、ゴミとしてのイメージが強いというか……。だからSUNTORYの天然水ラベルはそのままにしてある。隣に鎮座している本来の役割を失いつつあるラー油と違って、日々ちゃんと消費され、定期的に世代交代している。
卓上のペットボトル水は春夏秋冬を問わず常設している生活必需品だ。これは万人におすすめしたい即効性のあるQOL向上手段である。冷蔵庫まで赴くほどではないけれど、目の前にあるなら一口水を飲むかという機会は結構多い。思ってた以上に多過ぎる。それこそ置き始めた当初は、今までいかに無自覚なまま水分補給を怠っていたのかと強く実感したものだ。
雑菌が繁殖するので、コップが手元に無い時は戦場飲みを常としている。口をつけるのは飲み切ってしまう最後の一瞬だけだ。ペットボトルに口をつけると、水の味というものはかなり変化する。これは素朴な発見で、意識したことのない人はぜひ試してみて欲しい。僕の中で「飲み終わりごろ味」としてインプットされているくらいだ。ペットボトル内の空気の味が水に加わるのだ。
思えばどんな些細なことにだって、終わり際には何かしら兆候が表れるものだ。無くなりかけのレシートは蛍光に塗られ、秋になると枯れる葉は紅く染まり、猫は死期が近づくと姿を消す。水の味だって変わる。こんな一貫性の無いnoteにしたって、ほら、何となく擱筆っぽい雰囲気が俄かに出始めて、今回の記事はこれでおしまい。