ドライブ to 雨中ステーション
雨を全身で体感したい場合はどうすばいいか、と考えていた。雨天時に何も持たず外に出て、濡れ鼠にでもなるのが手っ取り早そうだ。では雨ではなく「雨音」なら? 生身で水滴を浴びても音が際立つイメージはない。傘を差すのが妥当な案だろうが、いささか無難が過ぎる。
その日の夜、私は社用車の助手席で、雨粒が車のルーフ(屋根)をコツコツ叩く音を聞いていた。ビニール傘が鳴らす音より、響き方が少しだけ硬かった。「雨音」という単語はまるで水の粒が主体のようだが、音の階調は受け側の材質に依存して変化するのだ。考えてみれば当然だが、雨そのものは楽器ではない。
トヨタのパッソという車種は小型車の名に恥じぬコンパクトっぷりを極めており、正直言って窮屈だった。長身の私は叱られた子供のように体を窄め、それでもつむじが車内の天井にくっついてしまう有様だった。乗り込む際、運転席に座る同僚が苦笑していた。
最小限の空間に人体が格納されている。それは宇宙ステーションから射出される脱出ポッドを連想させた。周囲は水だらけだし、さながら地球に帰還できたものの、故障によって海面に浮かべずそのまま沈んでしまった最中といった所だろうか。私は普通に出歩いている時も「いま生ぬるい空気の海の底にいるなあ」と感じる変な癖がある。だから空間の水分含有量が増している雨天時であれば、世界がそのまま本物の海底に置き換わってしまうのは自然な話だ(?)。
私と雨音との距離は、意外なくらい近かった。何せ頭が天井に接しており、数センチ隔てたすぐ上が音の発生源なのだ。なんなら雨粒の断続的で微弱な振動すら伝わってくる気がした。
自動車という固くて頑丈な人工物の中に居る時の方が、傘を差すよりよほど雨音を間近に感じる。これは素朴な発見だった。
雨中の運転が始まってからずっと、車内では沈黙が続いていた。
私も同僚も業務中は割と軽率に意見を述べるタイプの人間であり、間柄だった。だから、こうした目的的ではない時間にお互いが黙ってしまうのは、少し意外だった。
私としては雨音が存外に心地良く、思わぬ考え事日和にかまけてしまっただけなのだが。インスピレーションの促進剤が「ちょっと非日常的な環境」で「暇すること」であるならば、今の状況はまさに合致したりだ。助手席に座って良いご身分である。
もしかしたら同僚は、上品な美容師さんが無理に会話を押し付けることがないように、空気読みや心遣いを発揮してくれていたのかもしれない。私よろしく、気まずさや苦痛と無縁であってくれれば幸いである。
宇宙船搭乗の適性テストなんかでは、身体能力はもちろんのこと、乗組員同士のコミュニケーション能力・相性も判断基準になるのは有名な話だ。長期間同じ閉鎖空間で共同生活をするからだ。些細な軋轢が生死に関わってしまう場合もあるだろう。
ならば会話の波長が合うに越したことはないが、互いに沈黙が苦痛でない関係もまた大事だったりするんだろうか。社用による移動など宇宙航行と比べて遥かに短い時間だけど、一つ通ずるものはあるかもしれない。
静かな運転はその後もずっと続いた。
考え事が捗るとはいえ、手持無沙汰ではあった。私は時折訪れる微睡みを跳ね除け、少し意識的に瞼を開いていた。流石に寝てしまうのは失礼かと思われたのだ。
それからは思索の方向性が夢幻に偏らないよう注意していた。雑多に色々なことを浮かべては、車のワイパーが深海の強大な水圧を掻き分け、道を切り開いていく様をじっと見つめていた。振り子のように単調な往復が行われるたび、フロントガラスを伝う雫は泡沫のように消え、また流れ、また消える。その繰り返しは、太古から今日まで連綿と続く生命の営みを象っていた。無常だ。
深海と宇宙、どちらも冷たくて暗黒な未知の世界。二つにどれほどの差があるというのだろうか。生命の起源は海にあるが、更に元を辿ればやっぱり宇宙だ。瞬きの間に流れ消える雨粒は星の数ほどあれど、それぞれが唯一無二の模様であることなど、何の慰めにもならなさそうだった……。
ふと気付くと、車はとある小さな駅の近くに停まっていた。…………ええと、そう、諸々の都合で、私だけ道すがらの駅で降りる運びとなっていたのだ。私は何でもない素振りで、同僚と定型的な挨拶だけ交わして下車した。その簡素なやり取りの最中、乗車時とは異なる意趣の苦笑いを向けられた。気まずさは感じない筈だったのになあ。
こぢんまりとしている駅は無人で、しとしとという雨音ばかりがずっと周囲を取り巻いていた。
複線であるホームの片側には回送電車が一台停まっていた。窓から中を覗いてみる。どうやら無点灯のようで、天候も相まって内部の薄暗さが際立っていた。そのシンとした様相からは欠片も活動性を見出せなくて、なんだか世界の最果てまで辿り着いてしまったような、奇妙で唐突な寂寥感を覚えた。
宇宙ステーションに一人で滞在する時ってこんな気分なのかな、と益体のないことを考える。いささか突飛が過ぎる発想だ。
それでも空の遥か彼方を見上げれば、私を置き去りにしてなお稼動し続ける青い地球の姿を望めるような気がした。おそるおそる視線を上に向けてみた。あいにくの空模様で何も見えなかった。
不意に駅内アナウンスが飛び込んできて、私は我に返った。相変わらず停まっている回送電車を傍目に、普通に営業している方の電車に乗り込む。車内は思いの外混雑していたけれど、不思議と窮屈さは感じなかった。扉が閉まり、発進する。ガタンゴトンという日常の喧騒に紛れてしまえば、もう雨音は聞こえなかった。