春風良好 [青春小説/短編]
春先の美術室で、いもしない誰かを待っている。
先週の部活動紹介、体育館の中央にひとりで立って、新入生たちに自己紹介をした。部長としての初仕事だった。原稿は前部長がつくった台本をそのまま流用したから、没個性的で無難な発表になっていたことだろう。
下手なことをして印象に残るわけにはいかない。
人前に出て話すのは得意なほうだから、スピーチ自体は苦ではないものの、なにごとにも良い塩梅ってのがある。
四書五経にも『中庸』だなんて謳われるのだ。
過不足なく、偏りなく、ほどほどに。
最小限の努力で成し遂げられる成果しか求めていない。
というかまあ、正直なところ、ろくに部員が集まらず美術部が潰れようがおれにはどうでもよかったのだ。それで部長を頼まれるんだから、人生ってのは他人の無茶ぶりに応えているうちに浪費されていくのだろう。
そう、物思いに耽っていた矢先のことだった。
――美術室の扉が開いた。
現れたのは、見覚えのない女子生徒だ。
胸の徽章は一年の学年色である青。新入生にしてはずいぶんと堂が入った態度で、真新しい制服をはやくも着崩している。
ただし、それが下品なかんじではない。セーラー服の襟元から覗く、縹色のタートルネックは、無個性な学生服に凛とした色彩を添えていて、垢抜けた印象を与えていた。さらに観察すると足もとは花紺青のカラータイツだ。
この手の女子に対して想うことはひとつ。
こいつ、入学早々、悪目立ちしそうな格好してるな――だった。
述懐が態度に出てしまったのか。視線をかわすと、ガンをつけられた。
おお、おっかないな。
しかし、女生徒はこちらにはいっさいかまわず、美術室の重鎮たる石膏ボーイズにも挨拶せず、我が物顔で東の窓辺へと歩み寄っていく。
そして、アルミサッシに手をかけて。階下の運動場をみおろして。
「よし。春風良好。採光もじゅうぶんね」
開いた窓から、吹き込む風を浴びていた。
麗らかな陽光のなかで彼女の髪がふわっと浚われるのをみて、頭に浮かんできた感想といえば、女子ってのは髪が長いな――そのくらいだった。
「この窓からの景色、気に入った。入部する」
髪の長い女生徒はそう言って、学生鞄をごそごそやっていた。これがラノベなら印象的な出会いになりそうだが、おれはそこまでロマンチストではない上に、そもそも印象派ではなく写実派である。
クリアファイルから出てきた入部届にはすでに『花岬夏織』と署名されていた。
「どうも。えーっと、はな……みさきさん?」
「ハナサキ。あんただれなの?」
「部長の乙戸辺な。二年だ。今日から先輩らしいから、顔は覚えてくれ」
それとできれば言葉遣いも。年長者には丁寧で慎みをもった態度をとるように――とまではさすがに言わない。性格がドキツイ女子の相手は、どちらかというと慣れてる。
ひとまず新入部員、一名確保。できればあともうひとりくらいは欲しい。この花岬とかいう一年女子が、クラスメイトを引っぱってくるのを期待するか? でも、絶妙に協調性なさそうなんだよなあ。
だれか都合のいい新入生がいたら、労せず儲けたものだけど。
ふと、昨年の春を思い出す。新一年生にとって春は慌ただしくせわしない季節で、あのときおれもそれなりに浮き足立っていた。
入学式にクラス発表にオリエンテーションに友達づくり。そのさきに、口を開けて待っている数々の選択肢。
まるで桜吹雪のようにぐいぐい視界にとびこんでくる情報の洪水のなか、冴えない二年男子にピントが合っている奴なんて、そうそういないだろう。期待はずれってほどでもない。予想の範疇だ。
だから、顔をあげたとき、美術室の出入口にひとり、見知らぬ少女が立つのをみつけて驚いた。
「すみません。体験入部させてください」
そいつの第一印象といえば、髪が長いな――だった。長髪黒髪女子はクラスに余るほどいるので、さして魅力は感じない。
「仮入部届出してくれるか? 最低二枚はないと潰れるんだ」
「潰れる?」
「あー。紹介のとき説明しなかったな……ここの部、半数以上が幽霊部員。たいした実績もないし廃部になる」
正直に教えてしまってから、これはまずったなと悟る。
女生徒はさっと目を逸らしたのだ。うつむいた拍子にしなだれがかった黒髪を耳にかける。そっけなく応じられてしまえば、こちらとしても苦い屈託を抱かずにはいられない。
部活動は健全な学生生活の要だろう。有意義な高校生活をいとなむにあたって、廃部寸前の弱小文化部に席をおく選択は、ぼくわたしは地味な生徒なので放っておいてください、と宣言するようなものだ。
ほかにいくらでも魅力的な選択肢がある。
この一年生が入部せず、おれたち美術部が活動継続の危機から逃れられずとも、学園のその他大勢にとってはこのくらい瑣事なのだ。
むろん、一目散に入部を決めてくれた花岬には悪いとはおもうが。
「入部します」
「え?」
意外性に富んだ返事に、面を食らった。
いまの会話のどのあたりに決定打があったんだか。むしろ、離れていくだろうと予期していたのに。彼女は――これから後輩になる一年女子は、澄んだ黒目でこちらへと向きなおる。
目が合ったな、と思った次の瞬間には、長い前髪が遮光カーテンみたいにだらりと下がっていた。お辞儀の角度が深い。こいつは丁寧を通り越して、なんというか、武者っぽいな。
「美波あきらです。よろしくお願いします、乙戸辺先輩」
名前を呼ばれたことに気づいて尋ねると、女生徒は「部活動紹介で」とだけ、言葉少なに語ってくれた。
ともかく、あの広大な体育館のなかで、おれにピントが合ってる相手がひとりでもいたのは助かった。この春、美術部の部長に就任したおかげで、変な後輩と硬い後輩ができた。
卒業までながいつきあいになる、平凡でありきたりで、どこにでもあるような出会いだった。