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子供部屋をでた日 [棗芽清乃の事件手帖-外伝SS]

こちらの小説は2023年1月20日発売の小説「吉祥寺うつわ処 漆芸家・棗芽清乃の事件手帖」(ことのは文庫・マイクロマガジン社)の前日譚にあたるエピソードです。
物語が始まるおよそ一年半前、主人公・花岬麻冬(はなさき・まふゆ)が吉祥寺に引っ越してきた当日のお話になります。



 浅い眠りはいつも、だれかの寝息を聴いてから訪れる。

 わたしには妹と弟がひとりずついる。妹の夏織とは、生まれてこのかたずっと同じ部屋で寝起きをしていた。わたしたちはニ段ベットの上下で眠り、毎朝はじめにお互いの顔をみていた。
 花岬家唯一の男きょうだいである弟は、中学生になる前に個室をもらっていた。押入れのない四畳半のプライベート空間だ。正直、羨ましかったけど、わたしも個室がほしいなんてわがままを両親に言えるはずはなかった。

 だって、お姉ちゃんだもの。

 妹に二段ベットの上を譲り、弟に個室を譲るのはあたりまえだ。
 もし、わたしが男の子として生まれていたとしても、きっと間取りは変わらず、妹ではなく弟とひとつの部屋をパーテーションで仕切って暮らしていたのだろう。

 我慢は三きょうだいの一番上に生まれた者の宿命だ。あたりまえだから、それを苦しいと思ったことはない。

 いや、なかった。十九歳の春までは、一度もなかったんだ。


 岐阜から名古屋を経由しての長旅を経て、東京。JRに乗り込んで吉祥寺まで足を伸ばし、迷うことなく目的地にたどり着いた。
 吉祥寺東分寮。ここが、これから大学生になるわたし――花岬麻冬(はなさきまふゆ)の新たな住まいだ。
「はい、鍵はこれ。失くさないように」
 初日の挨拶もほどほどに、管理人さんから個室の鍵を受けとる。
 簡単な事務手続きを終えてから、玄関先をぐるりと見渡す。
 一階のロビーには椅子と机がまばらに置かれている。十脚ほどのテーブルセットが並ぶ薄暗い空間は、まるで小洒落たカフェのようだ。ここは、住民たちの共用ロビーだという。
 門限はなし。アルバイトは自由。食事は共用キッチンでの自炊を推奨。寮内に管理人さんが駐在してはいるものの、ほとんどは学生たちの自治により管理運営している。そんな独立独歩の気風を気に入り、入寮を決めた。
 ちょうど、ロビーには学生のいない時間帯だったようだ。足早に階段を上り、故郷から持ちこんだ荷物を手に持ち運搬する。

 これから四年間を過ごす予定の部屋は、二階にある。
 ひとつ前の住人は三月初旬に大学を去ったばかりだそうだ。直前まで入居者がいたとは信じられないほど、部屋は小綺麗に整っていた。

「わあ……。ここが、わたしの部屋」

 鍵を開けて部屋に入った瞬間に、おもわず歓声が漏れる。
 六畳だけのワンルーム。南向きの大きな掃き出し窓にカーテンはついていなかった。ペイルホワイトに塗られた壁の付近には、使い込まれた木目調の家具がいくつか並んいる。ベッドと机とクローゼットの三点セット。どれも寮に備えつきだ。そこはシングルステイのホテルのようだけど、チェックアウト時間に焦る必要はないと思うと、なんだか嬉しい。

 きょうからここで、暮らしていくんだ。

 窓辺に立つ。ベランダの向こうには、吉祥寺の街並みが広がっていた。
 大学の裏手に立地する学生寮からは、商店街の喧騒は遠い。狭い道路を埋め尽くすように立つ家屋には、二階建ての一軒家が多く、落ち着いた住宅街といった雰囲気だ。牧歌的だけれども、やっぱり東京だ。見渡すうちに、パステルカラーの屋根をもつ新築住宅が目に飛び込んでくる。
 時刻は夕方。じきに地平線の果てへと夕陽が沈む。
 お腹が空く前に、荷解きをしなきゃいけないのに、なぜだか手も足も動かない。
 さみしいような、うれしいような、名前のつかない気持ちが急にせりあがって、目頭を熱くしたからだ。

「……ああ、もう。なんでこんな、ほっとしてるのかなあ」

 そう、ひとりごちる。
 だれの相槌も返らない部屋で、なぜだかひどく安心していた。
 妹と寝起きしていた小さな部屋を出て、知らない街で生活を送る。人生ではじめての経験だ。胸騒ぎがするし、まだ、なにも知らない吉祥寺の街を好きになれるかも自信がない。
 それなのに心はこれでよかったんだ、と呟く。

 わたしはたぶん、ようやく子供部屋を出たのだ。
 大学進学にあたり、最後まで渋い顔をしていたのは4歳年下の妹の夏織だった。夏織はわたしが、家を離れることを最後まで嫌がった。

 ――麻冬ねえ、なんで?
 ――なんで。東京なんか行っちゃうの。

 そう言って、服の裾を掴んだまま泣かれてしまった。
 生まれてからずっと「妹」である彼女にとって「姉」は一番ちかしい他人だったから。きっと、夏織にとっては、からだの一部が勝手に分離するような痛みをともなう出来事だったのだろう。

 でも――。わたしにとってはそうじゃなかった。
 ほんとうはずっと、夏織のそばから離れたかった。家にいる限り、姉としての役割に徹しなきゃいけないから。専業アーティストの母に似て画才に恵まれ、両親から深く愛されて、なににおいても優先される夏織といると、自分がみじめに思えるから。劣等感に苛まれて、損をしている気がしてしまうから。
 大切だけれども、嫌いとは言えなくて。
 だから、東京に進学した。
 我ながら、後ろ向きな進学動機だ。
 ベッドサイドに置いた書類を視界に入れる。入寮規則と、新入生向けの大学案内。どちらも今日中にもう一度目を通す予定だった。

 センチメンタルになるのは今日限りにしよう。
 愛情深い家族も、中学高校で仲良くなった友達も、東京にはない。

 だからこそ、期待をする。
 わたしはこれから誰と出会うだろう。なにを知っていくのだろう。大きすぎる未知を、当たり前の毎日に変えていくこととができるだろうか。
 胸に去来した不安をバネにして、荷解きを始めた。

 そしてその日の夜は、だれの寝息も聞こえない部屋で、ひとりこんこんと眠りについた。静かな夜は優しく緊張をほぐしてくれて、この街に歓迎されているような気がした。
 それがわたしの、引越し当日の思い出ともいえない記憶だ。




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