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彼方の日々は湯けむりのように
色鮮やかな雨傘もすっかりモノクロの日傘に姿を変えた頃。
2024年7月20日~7月28日の期間で、OWVの中川勝就くんが主演を務めた「銭湯来人」が上演していました。
場所は東京都港区・赤坂の草月ホール。
どことなく品性を感じる場所に佇み、深い歴史を持つ特別な空間でした。
私は機会に恵まれ、全部で6回ほど観劇することができました。
とにかく笑って泣いて、また笑って、また泣いて。
あんなに自分の感情が揺さぶられる2時間はこれから先、そう何度もないと思います。
毎公演泣きました。
余談ですが、私実は映画やドラマ、アニメや漫画で笑ったり泣いたりしない人間です。
(唯一めっちゃ泣いたのはワンピースでチョッパーがドラム王国を去るときの桜のシーン。あれは全人類泣くと思う。)
なのでこんなに自分が泣ける人間だとは知りませんでした。
しかも、「あ〜…これは泣いちゃうよ…」とじわじわ涙が出るのではなく、いきなりブワーッと感情が高まり思わず泣いてしまうという感じでした。
普段あまり作品を通して涙することがない私が、何故こんなに激しく心を動かされたのか。
それは「銭湯来人」に出てくる人達が自分に重なっていたからだと思います。
これだけ書くとなんて烏滸がましい奴だ恥を知れ!とお思いになるでしょう。
でもこれこそこの作品の肝なのではないだろうかと私は考えたのです。
「銭湯来人」に出てくるのは、物語のスーパーヒーローみたいな人達ではありません。
自分、もしくは自分の周りに居そうな人達ばっかりなのです。
まず主人公の山田来人(演:中川勝就)は、28歳になるのに定職に就いていません。
妹にお金借りてるし、お母さんから生活費を貰ってる。それでお父さんとは年単位でギクシャクしてるみたいだし。
やりたいことも特に無い、だけど人からあれやれこれやれって言われるのも嫌。素直になれない性格ゆえに損を被ってることも多いのでしょう。
もう本当に主人公なの?って感じですよね。
でもこれって誰にでも有り得ることだと思います。自分じゃなくても、もしかしたら友だちの友だちとかが来人と同じ状況だったかもしれない。
そんな人物設定が「銭湯来人」の良さなのです。
そしてその設定に、等身大で自然な勝就くんの演技ががっちりハマっていました。
真っ黒なスーツを着て、自分の苛立ちをわざと表すように足音を立てながら歩くところ。サッポロ一番のラーメンをちょっと得意げに母に振る舞うところ。近い年頃の男子と一緒にワイワイとはしゃぐところ。大きなこと言っても、やっぱり母には敵わないところ。自分の頑固さが邪魔して素直になれず、ポツンと一人で佇むところ。図星を突かれて逆ギレし、思わず他の人にも当たってしまうところ。
全部私自身にも重なって、来人の気持ちが痛いほどわかりました。
来人だけではありません、妹の千ちゃんの気持ちも、幼馴染みの翔音の気持ちも、山田親子を見守る梅澤さんの気持ちも、苦しくなるほどわかります。
私にはまだ永遠を誓った相手も、いくつになっても可愛いと思えるらしい子供も居ないので、お父さんお母さんの気持ちは測りかねる部分もありますが、きっと観劇した方の中はわかるという方も大勢いらっしゃると思います。
「銭湯来人」は観客と共鳴する舞台なのです。
みんな、登場人物の誰かに成ってしまう舞台なのです。
それは来人かもしれないし、お父さんかもしれないし、カフェの気のいいおばちゃんかもしれない。
すごく自分自身と近いところにある物語なのです。
そして、そんな舞台を作り上げるのに欠かせないのはキャストさん達の演技力です。
素人の私が言うのはたいへん失礼なことかもしれませんが、演技を生業にしている方も多く出演なさっていたのですごくレベルの高い舞台だったと思っております。
物語のひとつのターニングポイントである、お父さんの病気が発症し倒れてしまうシーン。
言葉が詰まり足元が覚束無くなる様子に、私は、亡くなる2日前の身内を思い出しました。
急に言葉が、会話がプツンと途切れる。
山田湯隆(お父さん)役・石橋保さんの演技は、本当にあの日の身内と重なって見えたのです。
私は知らぬ間に立っていた鳥肌を、掌で必死に押さえつけました。
そして妹の千ちゃんがお父さんに秘密を打ち明けるシーン。
自分の夢を誰よりも応援してくれている父に、「わたしね、クビになったの。」と伝えるのは、身が裂けるほど辛いことでしょう。
山田千役・あやかんぬさんの「大きいステージでなんか歌えないの。」という台詞。
たったひと言ではありますが、そこに父への申し訳なさや自分の中の悔しさ、そして秘密を打ち明けるための覚悟が含まれていました。
ボロボロ泣きながら絞り出すように言葉を紡ぐ千ちゃんの姿と優しく彼女を抱き締めるお父さんの姿が、いつかの私に、いつかの父に重なり、堰が外れたように涙が流れました。
最後のお父さんが来人への愛を語るシーン。
自分のことなんて疎ましく感じているのだろうと思っていた父が、生年月日はもちろん、生まれた時間や体重まで事細かに覚えている。
小さく生まれてきた息子が、薪を抱えて後ろをついてきていた息子が、いつの間にか自分を遥かに超えるほど大きくなっている。
似たもの同士であるがゆえに伝わりきっていなかった親子の愛が、しっかりと形にできた。
互いの深い愛をやっと確かめ合えたと思いきや、場面が一気に変わり、病院でのシーン。
静かな空間に流れる心電図の音。
先程の暖かな空間から打って変わって、一刻を争う冷たい雰囲気に変わります。
その病院での様子も、身内の時と重なりました。
重苦しい息遣いと、どこか疲れたような表情、諦めにも似た会話が、あの日を鮮明に思い出させました。
しかし、私と違っていたのは、来人が大きな声でお父さんに激励を送ったところ。
来人が大声を出したことで、お母さんも千ちゃんもみんながグッと気持ちを持ち上げたのが見てわかりました。
その声は梅雨の雲間を切り裂く、鮮烈な日差しのようでした。
カーテンコール前の全員で歌うシーン。
大団円というに相応しいあの幸せな時間を、一生私は忘れることはできないでしょう。
「銭湯来人」のおかげで、私の中で止まっていた時間はゆっくりと動き出しました。
病院のベッドの上で管に繋がっている、目を閉じた姿じゃない。
いつか私に真っ直ぐ愛を伝えてくれた、しゃんと背筋を伸ばした笑顔を思い出せました。
辛くて悲しい記憶も、暖かな優しい記憶も、銭湯の湯けむりのようにいつかは私の中から薄れて消えてしまうのでしょう。
でも、湯けむりは消えても湯の温かさは肌が覚えているように、石鹸や入浴剤が混じりあった特有の匂いは鼻が覚えているように、何かのきっかけがあれば直ぐに思い出せる。
当たり前といえばそれまでですが、みんな忘れがちな大切なことを改めて教えてくれる、身も心も穏やかになる舞台でした。
中川勝就くん。
山田来人として生きてくれて、ありがとう。
「銭湯来人」に出逢わせてくれて、ありがとう。
以前のnoteでも書いた身内の不幸から一年が経ちます。
あの日の私は来人ではなかったし、私の身内は湯隆さんのようにはならなかった。
でも今はもう泣いてばかりじゃないし、お風呂場で鼻歌だって歌えるほどになったよ。
勝手ながら追慕の意も込めて、このnoteを書かせていただきました。