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生き物を飼うことは、「祈り」に似ている――柳美里『飼う人』から第一話「イボタガ」全文公開!

全米図書賞翻訳部門(『JR上野駅公園口』)受賞作家・柳美里の文庫最新刊『飼う人』より、第一話「イボタガ」全文公開!

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◇ ◇ ◇

イボタガ【水蝋蛾】鱗翅目イボタガ科の大型のガ。翅は黒褐色の虎斑を有する。開帳9~11センチ。成虫は四月頃出現。

 額を滑る汗の感覚で目を覚ました。枕の上にある目覚まし時計の秒針の音で、時が過ぎているのがわかる。それを聞いていると、耳から意識がはっきりしてくる。でも、まだ目は開けたくない。まだ起きる時間じゃないから。目を開けたら、一日が始まってしまうから。喉が渇いた。夏場は、凍らせたペットボトルを一本枕元に置いて寝るべきかもしれない。何がいいかな? ミネラルウォーター、スポーツドリンク、アイスティー、あぁ、アイスティーがいいな、ミルクティーよりレモンティー。目を閉じたまま唾を呑むと、唾が気管に入りかけてむせる。隣に寝ている夫を起こさないよう喉に力を入れると、余計にむせて、苦しくて、目を開けてしまった。

 夫の頭が見える。

 部屋はもう明るい。

 カーテンを閉めて寝ると朝起きづらいから、平日はカーテンを閉めないようにしよう、と言い出したのは、夫だ。

 窓ガラスの向こうは、青空。

 青という色の感覚に浸りながら、雨も風も寝ている間に過ぎてしまったんだな、と思う。

 昨夜夫と二人で見たテレビのニュースでは、「これまで経験したことのないような暴風、波浪、高潮、大雨となる恐れがあります」と気象予報士が言い、天気図を見ると、午前三時には風速二十五メートル以上の暴風域の予報円の中に入るはずだったのに――。

 わたしは起き上がり、夫の体をまたいで窓を開けた。

 網戸に水滴が少し残っているから、降ったことは降ったのか。

 寝室をそっと出て、トイレを済ませてから洗面台で顔を洗い、リビングルームに行って、ベランダに通じるガラス戸を開け放って網戸にした。

 六月頭からベランダに出してあるオリーブの鉢植えの葉は一枚も落ちていなかったし、鉢皿の雨水も半分ぐらいしか溜まっていなかった。

 やっぱり、たいして降らなかったんだ。

 冷蔵庫を開けて、ペットボトルを取り出し、ミネラルウォーターをコップに注ぐ。

 立ったまま喉を鳴らして水を飲む。

 パジャマの上からエプロンをしめて、冷蔵庫からお弁当と朝ごはんの食材を取り出す。

 休みの日は、お弁当がない分余裕があるから、きちんとした朝ごはんを作るようにしてるけど、平日は、だいたいパンと卵料理とサラダ。でも、毎日目玉焼きとグリーンサラダだと飽きるから、ひと手間はかけることにしている。

 今日は、トマトとにらのスクランブルエッグと、焼き油揚げとルッコラとグリーンアスパラガスのサラダ。

 お湯を張った小鍋を火に掛けてから、油揚げ二枚を網に並べて炙っていると、背後でトイレの水を流す音が聞こえた。

 まな板の上で焼き上がった油揚げをざっくりひと口大に切っていく。

 顔を洗う音がする。

 茹で上がったアスパラガスとルッコラを食べやすい大きさに切り、ボウルの中で油揚げと混ぜて、醤油3:酢2:胡麻油1の割合でドレッシングを作る。

 歯を磨く音がする。

 わたしは朝ごはん食べてから歯を磨く派だけど、夫は朝起きたらすぐに歯を磨く派、わたしは朝ごはん食べてから着替える派だけど、夫は顔を洗ったら、すぐに着替える派――、十年間いっしょに暮らしても、それまでの生活習慣は変わらない。よく長く連れ添った夫婦は顔が似てくるっていうけれど、あれは生活が融け合った夫婦なんだと思う。わたしと夫は、融け合うほど生活を共有してはいない。お互いのやり方に馴染んではいる、とは思うけど……

 夫がダイニングテーブルに座る前に、布巾でテーブルを拭き、ランチョンマットを敷いて箸を並べておく。

 できたてを食べてほしいから、できた順に次々出していく。

 夫はいつも座ると同時にテレビをつける。

 夫の前にサラダを出して、オーブントースターに食パンを入れる。先月八百ワットのが壊れて、千ワットのに買い替えてから、パンが焦げやすくなった。トーストは2~2.5、ピザは4.5~5.5と目安が書いてあるけれど、タイマーの目盛りをその分数にセットして目を離すと、チンと鳴った時には既に焦げている。何度、ナイフで焦げをこそげ落としたかわからない。だから、パンをトーストする時は、焦げないように見張ってないといけない。

 残り一分ぐらいで、ヒーターをつけたまま扉を開けてパンの表面にバターを塗る。「バターやジャムを塗ったパンは焼かないでください」と書いてあるけど、じゃあ、なんでピザはいいの? ピザの上のチーズやサラミやトマトケチャップがだいじょうぶで、パンの上のバターやジャムがだいじょうぶじゃない道理がわからない。

 溶けたバターがたっぷり染みたトーストを夫の前に出す。

 牛乳パックに指を入れて開けるのは、ちょっと苦手。たまに変なところを破って、コップに注ぐ時にこぼしてしまう。

 でも、今日はうまくいった。

 牛乳パックを傾け、嘴みたいな注ぎ口から静かに白い液体が流れ出る、その視線の先に意識を集中する作業が気に入っている。グラスが牛乳で満たされていき、コップの上部に細かい白い泡が浮かぶ。朝の家事は、頭が空っぽのまま流れ作業みたいにやるものが多いけれど、この牛乳をコップに注ぎ入れる作業は毎朝、印象に残る。タイトルを付けてもいいくらい――。

 牛乳のコップをランチョンマットの左側の端に置く。右側に置くと、テレビに意識を取られて、箸を伸ばした拍子にコップを倒される可能性がある。実際、何度か倒されたことがある、選りに選ってお弁当のコロッケを揚げている最中に――。

 夫が一枚目のトーストを食べ終わり、二枚目を食べる前に、トマトとにらのスクランブルエッグを出さないといけない。トマトを切って、にら半束を二~三センチに切ったら、ボウルの中に卵三個を割り入れて溶きほぐし、トマトとにらを加える。薄口醤油で味をつけ、白胡麻を小さじ一杯振りかけて、フライパンで炒める。半熟でやめるのがポイント。

 パン皿を下げて、スクランブルエッグの皿を置き、二枚目のトーストを焼いてから、お弁当作りになだれ込む。

 今日は、簡単。

 ボーナスが出たから奮発して黒毛和牛の切り落とし百グラムを買った。それをしめじとえのきと小ねぎといっしょに炒めて、焼肉弁当にすればいいだけ。

 炒めた牛肉とご飯を皿にのせて冷ましている間に、汚れた調理器具や器を片付けていく。

 洗い物をしながら、キッチンカウンターの小窓からテレビを見る。

 テレビでは、土石流によって破壊された家屋の様子が映し出され、死者四人というテロップが流れる。

 避難勧告に従って学校の体育館で一夜を明かしたという女が、「雨が怖かった。五十年生きて、台風で避難したのは初めてです。早く家に帰りたい」と語っていた。

 夫はもぐもぐと何か言ったが、トーストに齧りついた直後だったので、よく聞き取れなかった。咀嚼の中から言葉の先が出てくるのを待ったが、トーストと共に呑み込まれてしまった。今日初めての夫の言葉――、でもたぶん、大変だなとか、雨ひどかったんだなとか、その程度の言葉だったに違いない。

 画面が、政治活動費の使途不明金が発覚した地方議員の顔に移ったので、「今夜、何がいい?」とわたしは訊ねた。

「え?」夫は訊き返した。

 夫に言葉を訊き返されると、最初のうちは大きな声でゆっくり言い直していたのだが、そうすると、会話しようという自分の気持ちが急速に萎えるので、何年か前から訊き返されたら黙ることにしている。

 黙ったまま、ステンレスのお弁当箱にご飯と牛肉炒めを詰める。彩りを鮮やかにするために間仕切りにリーフレタスを使い、紅生姜をひと摘まみ添える。お弁当箱の蓋を閉めて、ナプキンで包む。冷蔵庫から麦茶を取り出し、水筒に注ぎ入れる。

 夫はコップの底に少しだけ残った牛乳を飲み干して立ち上がり、朝ごはんの食器を重ねて台所に下げにくる。

 そして、「夕飯、なんでもいいよ」と言って、お弁当と水筒を通勤鞄の中に入れた。

 聞こえているのに、とりあえず訊き返すのは夫の嫌な癖だが、市役所で同僚や市民に対しては、「え?」とか「何が?」を連発したりはしていないだろう。実家のお義母さんやお義父さんや妹さんにも、言わないと思う。この人は、わたしにだけ、嫌な面を見せる。それって、気を許している証拠なんだろうか?

 わたしは夫がトイレに入っている間に、革靴の中から新聞紙を取り出す。念のために手のひらを靴の中に入れてみる。湿ってはいるが、濡れてはいない。昨夜は靴下が革の色で染まるほど濡れていたのに、新聞紙が吸い取ってくれたようだ。

 靴墨を使い古しのハンカチに取って、靴の表面に薄く伸ばし、ハンカチで磨く。ブラシで軽く擦った後、破れたストッキングで磨いて革の艶を出す。

 鞄を持って玄関に出てきた夫は、黒光りした革靴を当たり前のように履いて、玄関のドアを開ける。

 行ってきます、とは言わないから、行ってらっしゃい、とも言わない。

「今日も、暑くなりそうだな」

「二十八度ぐらいまで上がるみたいね」

 と、わたしはさっきテレビの天気予報で見たばかりの最高気温を口にした。

 自転車で駅前のスーパーマーケットに買い物に行く時は、表通りの商店街ではなく、線路沿いの裏道を通ることにしている。裏道には信号がない。自転車を漕ぎ出す時、わたしは子どもじみた験を担ぐことが多い。たとえば今日は、一度もブレーキをかけずにスーパーマーケットの駐輪場に到着できたら、何かいいことが起きる――。

 電車がすぐ脇を通り過ぎ、風の波を起こして湿った夏草の匂いを巻き上げていく。

 麦藁帽子のつばがめくれて、わたしは顔いっぱいに台風一過の陽射しを浴びる。

 眩しい。

 陽射しが強い日は、駅前のバスターミナルまで一人の人にも出会わないことがある。この町は年々人口が減って、年寄りが目立つようになっている。年寄りは、夏の暑い日は熱中症を警戒して外出しない。でも、冷房をかけずに暑さを我慢しがちだから、家の中でも熱中症になり、梅雨時から夏休みが終わる頃までは救急車の音が頻繁に聞こえる。

 何歳から年寄りの部類に入るんだろう? 六十歳ぐらいから? だとしたら、あと二十年か――。

 ブレーキをかけずに右に曲がり、用水路を見るともなしに見ながら道なりに自転車を走らせる。ノウゼンカズラの緋色が目に飛び込んでくる。古家を取り壊した跡地にぽつんと残った門扉に這い登っているノウゼンカズラだ。ペダルを漕ぐ力を弛めて、見る。開いている花は二つだけ。他の花はもう散ってしまったのか、それとも、これから咲くところなのかな――。

 水路は暗渠に入り、小さな踏切前の弁当屋を過ぎると、線路沿いの細道になる。

 ここは、未舗装の砂利道だから、大雨が降ると大きな水溜まりがいくつもできて、泥水が撥ねないよう注意しながら水溜まりの中に入らなければならないのだが、今日の水溜まりはたいしたことはない。ハンドルを動かしタイヤをジグザグに進めれば余裕で避けられる程度だ。

 雨はあんまり降らなかったんだ――、そのことに、わたしは朝からがっかりしている。空の底が抜けるほどザーザー降って、川という川を氾濫させて、家の中まで水浸しにする――、そんな雨をわたしは待ち望んでいたのだ。

 道幅が広くなった辺りでギアを2から5にチェンジしてスピードを上げると、タイヤが砂利を弾き上げる音がする。背後のどこかから舞い降りてきたアオスジアゲハが右腕に止まって、くすぐるように羽ばたいて二の腕まで上がり、視界の後ろへ吹き飛んでいった。

 また夏か……

 そう、わたしは、また夏か……としか思えない。夏だ、とか、夏が来た、とか新鮮な気持ちは微塵もない。風景から感情が失せてしまったのは、いつからなんだろう。いつも、何かに気持ちが引き留められているような感じがする。誰か別の、わたしではない見ず知らずの他人の風景の中を生きている気がする。

 駅のホームの端が見えてくる。踏切がカンカン鳴って、遮断機が下りるのにつられて、思わずブレーキをかけてしまった、踏切を渡るわけではないのに。これで、今日も、何もいいことが起きない、と思いながら、スーパーマーケットに向かってペダルを漕いだ。

 駅に近づくと、さすがに人通りがある。車も自転車も走っている。郵便局の方から近づいてくる自転車は真新しい電動自転車で、ハンドルの前に取り付けてあるチャイルドシートに朝顔の鉢をのせていた。濃い紫の朝顔。擦れ違う時に、自転車の女の顔を見る。二十代後半ぐらいか。子どもが幼稚園で育てていた朝顔を持ち帰るのだろうか、まだ夏休みは一ヶ月も先なのに。

 両足をアスファルトに下ろして振り返ると、後ろの荷台にもチャイルドシートが取り付けてあったが、子どもは乗っていなかった。子どもは歩いて帰らなければならない決まりなのか、それとも習い事の場所に送っていった帰りなのか……この辺りだと、薬局の二階のモダンバレエ教室か、警察署の裏のスイミングスクールか……

 何故か、子どもというと、わたしは女の子の姿しか想像できない。

 新婚旅行で上高地に行った時も、女の子の名前ばかり考えた、二人でしりとりをするみたいに――。

 夫には「女か男かなんて臨月が近づくまで判らないんだから」と言われたけれど、「わたしは女の子が欲しい。女の子が生まれるまで、何人だって産む」と言って笑った。

 すぐに子どもができると思い込んでいたから、仕事を辞めた。子どもが居ない人生なんて想像したこともなかった。だから、結婚してから毎月三万円ずつ子どものために貯金をした。今もそれは続けているし、これからも続けていくんだろう、と思う。わたしも夫も、そのことにはお互い触れたくないし、触れられたくないから――。

 夫と出会ったのは、小学校の体育館だった。

 十一年前の市長選挙の投票日、わたしは当日受付のバイトに登録していた。

 朝六時集合、夜八時解散で日給一万五千円、拘束時間は長いけれど、報酬としては悪くなかった。

 わたしは、市役所の嘱託として市の広報紙の編集をしていた。交通費別途支給で日給九千円、勤務日数は月十二日と決められていたが、仕事量と人員から割り出した日数ではなく、月十三日になると社会保険に加入させないといけない、という台所事情からだった。

 月額にすると十万八千円しかもらえないので、夫がそこそこの給料をもらっているとか、持ち家で家賃を払う必要がないという恵まれた環境にない限り、厳しい条件ではあった。実際、四人のうち二人は五十代の主婦で、経済的には働く必要はないけれど、子育てを終えて時間に余裕ができたから、夫が定年を迎えるまでの間は働きたい、というのが動機だった。

 わたしは、前の仕事で体を壊したので、四、五年は休み休み仕事をして、その間に次の身の振り方を決めようと思いながら、六年目に入っていた。銀行預金の残高にも余裕がなくなってきていた。このままではいけないという焦りから求人情報を見るようになり、手始めに登録したのが選挙受付のバイトだったのだ。

 朝六時に投票所となる小学校の体育館に到着すると、既に市役所の職員によって会場のセッティングは終わっていた。

 わたしは、投票に訪れた有権者から投票所入場券の葉書を受け取って、選挙人名簿と照合して投票用紙を手渡す係に割り振られた。

 バイトと職員が二人一組となるのだが、わたしとペアになったのが、夫だった。

 彼は、ネズミ色の市役所職員の上着ではなくて、仕立ての良さそうな紺のスーツを着ていた。体育館に暖房がないということを知らなかったわたしは、膝丈の黒のウールのプリーツスカートと、黒と白のチェックのモヘアセーターで、明らかに薄着だった。

 二月の半ばだった。

 前日の夜からぱらつきはじめた雨は、降ったりやんだりを繰り返し、明け方雪まじりになったらしいが、朝には雨が上がり、灰色の靄のような雲の後ろに青白い太陽が隠れているのが見えた。

 日陰の水溜まりには氷が張っていたから、朝は氷点下だったのだろう。

 有権者が出入りしやすいように開け放してある体育館の扉からひゅうひゅうと寒風が吹き込み、ブーツの底から冷たい湿気が這い上がってきた。

「寒いですね」と彼が声を掛けてくれたのが、始まりだった。

「わたし、こんなに寒いと思わなかった。真冬に投票に行ったこともあると思うんですけど、投票する方は二、三分で済みますもんね。コートもマフラーも脱がないし」

「コート着てもいいと思いますよ」

「いえいえ、さすがに受付係がコート着るわけにはいきませんよ」

 有権者には波があって、十人ほど列ができる時間帯もあれば、一時間以上誰も来ない時間帯もあった。そういう時は何もすることがなく退屈なので、小声で話をする。

「いくつですか?」わたしが最初に訊ねたのは年齢だった。

「二十八です」

「え? もっと下だと思ったけど、ほぼ同世代ですね。わたしは三十歳」

「え? 三十歳には見えない!」

「またまたぁ。市役所では何課?」

「資産税課です」

「わたしは秘書広報課」

「え? 市役所?」

「嘱託だけどね。資産税課って、すごく忙しいんでしょ?」

 わたしは、歳下だと知って敬語を使うのをやめた。

 彼は敬語を崩さなかったが、穏やかで親しげな声だった。

「固定資産税の書類の準備が始まる一月から、納税が始まる六月までは、忙しいですよ。夜十時までの残業はザラですからね」

「土日は何してるの?」

「固定資産税の時期は、基本寝てますけど、それ以外の時は、レコード屋に行くかな?」

「どんな音楽が好きなの?」

 と訊いたところで、有権者が入ってきて、わたしたちは口を噤んだ。投票用紙を渡し、有権者が投票ブースで候補者の名前を記入している間に、彼は膝の上でメモ帳に走り書きをして、紙を渡してくれた。流れるような筆跡で、それがそのロックバンドの名前とよく合っていた。わたしは、そのバンドのCDを何枚か持っていたので、いちばん好きな歌のタイトルを膝の上で書いて、彼に渡した。凍えそうなほど寒い体育館で、市長選挙の真っ最中に、いい歳をした男女が、授業中の高校生みたいに他愛のない内容の筆談をしている、その行為と状況がおかしかった。

 有権者が途絶えると、またひそひそ話をする。

「趣味はあんまりないんですけど、レコード屋でインディーズのロックバンドのCDを試聴するのが趣味といえば趣味ですね」

「え? カノジョともレコード屋でデートするの?」

 二十八歳ならば既婚者の可能性もあると思ったけれど、左手の薬指に指輪をしていないことを確認して、「カノジョ」と言ってみた。

「カノジョいません。ぼくの場合、女より音楽ですよ。同僚でもカノジョいない歴長いヤツ多いですよ。みんな食べ歩きとかランニングとか車とか趣味の世界にハマっちゃってますよ。飲み会ひらくと、カノジョほしいな、そろそろ嫁さんほしいな、とか言うには言うんですけど、本心は、いないならいないでいいかな、と。それより、おれバンドやりたいんですよ。やりたいやりたいって言って、もう十年経つんですけどね」

「ボーカル?」

「まさか。ベースですよ。高校時代、軽音楽部だったんですよ」

「やりなよ。三十前にやった方がいいよ」

「ライブやる時は、連絡しますね」

 このとき自然に、お互いの携帯電話の番号とメールアドレスをメモ帳に書いて交換したが、この人とはきっと付き合うようになるなという予感で、彼の側の腕が張り詰め、彼の側の首の動脈がぴくぴく動くのさえ感じ取れた。

 正午を告げるチャイムが校内に鳴り響き、体育館のキャットウォークの上にある格子の嵌まった窓から空の切れ端が見えた。

「あ、陽が出てきた。午後から人が増えるかもしれませんね」と、わたしは敬語に戻して、彼の顔を見た。

「ちょっと出てきますね」と彼は席を立ち、体育館から出て行った。

 わたしは、駅前のコンビニエンスストアで買ったミックスサンドイッチと牛乳で昼食を済ませた。

 三十分後に戻ってきた彼は、腕にミッフィーのブランケットを抱えていた。

「これ、使ってください」

 わざわざ自宅に行って取ってきてくれたのだ。

「妹のなんですけど、小さい毛布、これしかなかったんで……」

 その時、わたしは彼の顔を初めてまともに見た。完璧な弧を描いた眉毛の上の額は、この寒さの中で汗ばんでいた。きっと坂道を駆け上ってきたのだろう。

 彼の問い掛けるような深い眼差しに捉えられ、わたしは動揺した。

「え? いいの? ありがとう」とブランケットを受け取って膝に掛けたものの、しばらくは話の接ぎ穂が見つからず、どうでもいいようなことを訊ねてしまった。

「前から不思議に思ってたんだけど、昼休み、わたしは市役所の名札をはずしてランチに出掛けるのね。職員の人って、名札したまま出る人多い気がするけど……」

「あぁ、あれ下げてくと、お店側に市役所の人だと認識してもらえるじゃないですか。みんな役所は一時に席に戻らないといけないって知ってるから、他の客より早く出してくれたり、カレーだと早いですよとか言ってくれたり、気を使ってくれるんですよ」

 出会った頃は、「え?」とか「何が?」を連発したりはしなかった。普通の恋人同士みたいに目を見て笑い掛けたりもしていた。今みたいに視線を避け合うというようなことはなかった。いずれ、何かのきっかけでまた距離が縮まるのではないかと微かな期待を抱いた時期もあったけれど、たぶん、それは、もう、ない。

 わたしが彼の顔の中でいちばん好きなパーツは眉だった。結婚したばかりの頃は、その眉を指でなぞったり唇でなぞったりしながら、わたしが上になって交わるところから夜の営みを始めた。わたしの名を囁く声が、耳の中で荒い吐息となって、互いの息が縺れ合ったまま叫び声へと高まり――、いっしょにシャワーを浴びて、ベッドに戻って、汗で濡れたシーツを敷き替えて、裸で寝そべり話をしながら互いの体にまた触れて、また息が乱れて、互いの息が緩やかになるのを全身で感じながら眠りに落ちて――。

 今では、たまに性的欲求をおぼえることもあるけれど、夫との具体的な行為を想像すると、途端に嫌悪感に掏り替わる。

 何かあったわけではない。何もない日々を重ねたことで全く別のものに変質してしまったのだ。

「本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます。エスカレーターご利用の際は黄色い線の内側にお乗りになり、ベルトにおつかまりくださいませ。ご高齢の方や小さいお子さまは同伴の方が手をつないでご利用ください。また、ベビーカート、ショッピングカートでのご利用は危険ですのでご遠慮ください。エスカレーターやその周りでは遊んだり、走ったり、ふざけたり、エスカレーターから身を乗り出したりしないでください」

 どうしてエスカレーターの壁面って鏡張りが多いんだろう? お洒落をして出掛けるデパートだったらいいかもしれないけど、近所のスーパーマーケットで見る自分の姿ほど幻滅するものはないよね? 自分に幻滅したら購買意欲がアップするって統計でもあるのかな? でも、いったい、幻滅した自分のために何を買えばいいんだろう? 美白効果のある化粧水? コラーゲン入りの栄養ドリンク? 歯茎を引き締める歯磨き粉? バナナ? ブルーベリー? アボカド? きな粉? こんにゃく? 納豆? 豆乳?

 夫がいなかったら、わたしは三食シリアルでもいい。献立を考える、食材を買う、料理を作る、食べる、食器を片付ける、その一つ一つの限りなく細分化された家事の中に、わたしが選んだ生活は正体を現し、四方八方からわたしを追い詰める。家のどこに立とうが座ろうが寝ようが、たちどころに生活に嵌まってしまう。生活から逃れて身を隠す場所は、もうどこにも残されていない。

 何故、こんなことになってしまったのか?

 何故、こんなことを始めてしまったのか?

「こちら二千七百六円のお買い上げになります」

「配送お願いしまーす」

「ありがとうございます」

「いらっしゃいませー」

「一万と二百円お預かりします、五千と十八円のお返しです、お先大きい方五千円のお返しです、お後十八円です、ありがとうございます」

 八台あるレジのどれもに三人以上並んでいる。

 みんな、老人。

 自分が買ったものを自力で自宅まで持ち帰れない老人たちの列だ。

 このスーパーマーケットでは、三百円支払うと当日配送のサービスをしてくれる。受付締切は十二時、時計を見ると十一時四十五分だった。

 わたしの前に並んでいるのは八十歳は超えていそうな老夫婦だった。二人ともよく似ていた、タンポポの綿帽子のような白髪頭も、背中の曲がった小さな体も――。

「紙の袋の方が持ちやすい?」と、おばあさんが後ろにいるおじいさんに訊ねた。

「いいよ」と、おじいさんが犬の吠え声みたいな声で答えた。

「じゃあ紙の袋で」と、おばあさんがレジ係に伝えた。

 この老夫婦は、当日配送組じゃないんだ。おじいさんは炎天下、この大きな紙袋を持って歩くんだな、と感心していると、おじいさんは紙袋を右手に持ち、おばあさんはおじいさんの左腕につかまって、他人を避け、他人の間を擦り抜けて、下りエスカレーターに向かって歩いて行った。わたしは二人の姿がエスカレーターに消えるまで見送った。長い歳月をかけて二人が共有した、肉体、老い、意志を目の当たりにして、その風圧のような威厳に圧倒された。

「お支払いは現金とカード、どちらにいたしますか?」

「カードで」と口を動かしたが、誰か他人の声を聞いているみたいだ。

「袋は紙とビニール、どちらにいたしましょうか?」

「あ、今日はいいです」自分の声が、発した途端にどこか遠いところに置き去りにされた気がする。

「あの、自分の袋に入れるので結構です」

「ご協力ありがとうございます、エコポイントお付けしておきます」

 エスカレーターを降りる時に、ちょうど時計の長針と短針が重なり、正午になった。

「本日の当日配送はただいま正午をもちまして受付を終了させていただきました。ただいまよりの受付分は明日の配送となりますのでご了承いただきますようご案内申し上げます。本日もご来店いただきまして誠にありがとうございます」

 今、夫が働く市役所では、オルゴールの市歌が流れ、職員が各部署の電気を消している。

 今朝わたしが作った焼肉弁当を、夫はどこで食べるだろう? 自分のデスクで一人で食べるのか? 同僚と共に四階の飲食スペースに行って食べるのか? 四階のテーブルは十五台、椅子は五十六脚しかないから、競争率が高い。

 結婚してから、夫は学校施設課、下水道河川課と異動し、今年の春、次長として資産税課に戻った。資産税課は一階正面玄関から入って、市民課と納税課の間を抜けた突き当たりにある。階段でフロアを一つ上がるのに普通に歩いて十五秒はかかるから、四階までは四十五秒、二階や三階や四階の課の人を出し抜くことは至難の業だ。

「鮭もみんな長いのね、気にして見てみると」

「あぁ、長い長い」

 と、二人のおばあさんが棚に立て掛けられた焼鮭のハラスを眺めながらおしゃべりをしている。

 エスカレーターを降りた辺りはお惣菜とお弁当コーナーになっていて、その前にある黒い長椅子は老人たちの溜まり場と化している。

「あ、どうもお待たせしました。電車も駅も混んでて歩くのに手間取っちゃってね」と自動ドアから入ってきたおばあさんに気付いて、「あ、ちょうど良かった」と、長椅子で待っていたおばあさんが席取りするために隣に置いていたバッグを膝にのせた。

 夫の本心は、どうなんだろう? ほんとうは、お弁当なんて持って行きたくないのかもしれない。職員や嘱託やバイトの若い女の子から、「ランチ食べに行きませんか?」と誘われることもあるだろうし、誘いたいこともあるだろうから。ヤキモチ焼きの妻に愛妻弁当攻撃をされている、と同僚から同情の眼差しを注がれているのかもしれない。

 勤め先の市役所から電車で十分ほど離れたこの町に引っ越そう、と言い出したのは夫だった。

「市役所では市民の目を常に意識しないといけないでしょう。市内で暮らしたら、買い物や図書館に行けば知り合いに会うだろうし、医者や歯医者だって知り合いだからね。気が休まらない。窮屈だよ。将来、子どもの幼稚園や小学校の行事で付き合う保護者と、市役所で会わなきゃいけないっていうのはぞっとするな。そうじゃなくても、この町は子どもが少なくて、小学校は一クラス、中学校は二クラスしかないから、子どももきっと息苦しいよ」

 夫の職場であり、わたしの元の職場でもある市役所から離れて良かったとは思う。

 お昼時に銀行や郵便局に出掛けなければならない時に、若い女の子と肩を並べてランチに向かう夫の姿を目撃しなくても済むから。彼は女の子に好かれると思う。よく気が付くし、マメだから。十一年前、体育館で寒がっていたわたしのために、ミッフィーのブランケットを家に取りに行ってくれたみたいなことを、夫は今でもやっているだろう。彼は特別な感情がなくても、女性に優しくできる人だ。あの時はまだ彼の性格をよく知らなかったから、特別な感情を抱いてくれたのだと、わたしは勘違いした。今になって思うと、彼にとっては普通の行為だったのだ。「女の人には親切にしなさい、優しくしなさい、と母親には口を酸っぱくして教えられたよ」と言ってたし――。

 もしかしたら、今まさに、若くてかわいい女の子と二人で向かい合ってランチを食べているかもしれない。だとしたら、あの焼肉弁当は、レジ袋に入れて給湯室の青いポリバケツに捨てられる運命にある。夫の性格からして、お弁当を捨てる前に箸で焼肉をつついて汚すなんていう偽装工作はできないだろうから、箸に使った形跡があるかどうか調べればわかる――。

 洗濯機は一回目はワイシャツや下着やパジャマなど色移りしない白物を回し、二回目は色移りする可能性のある色柄物を回すと決めている。

 洗濯機に入れる前に、夫のワイシャツは襟と袖の内側の皮脂汚れを落とすためにポイント洗い洗剤を直付けしておかなければならないし、わたしのブラウスや下着は洗濯ネットに入れておかなければならないから、けっこう作業工程が多い。

 朝干した一回目の洗濯物を取り込み、買い物に行く前に回しておいた二回目の洗濯物を干していく。

 バスタオルは四つ折りにし、強く叩いて皺を伸ばし、ハンカチは上下左右に軽く引っ張ってから洗濯ばさみに吊るしていく。

 空は青く、風は全く吹いていない。

 バスタオルだけではなく、ハンカチさえも、干したそばから幕のように重たげに垂れ下がる。

 でも、陽射しがこれだけ強ければ、晩ごはんの支度をする前には全部乾いて取り込むことができるだろう。

 晩ごはんは、韓国料理。夏野菜のチャプチェと、ゴーヤのチヂミと、焼き茄子とプチトマトのナムルと、ワカメスープ。

 洗濯物籠を持って部屋に入り、網戸にしていた窓を閉め切り、クーラーのリモコンで二十三度に設定して運転ボタンを押す。

 夫のワイシャツにアイロンをかけないといけない。昨日は雨で洗濯できなかったから、二枚ある。アイロンコードのプラグをコンセントに差し込み、アイロン台の折り畳み式の脚を起こし、台の上に夫のワイシャツを広げ、スプレー糊を全体に噴霧する。

 こういう時、音楽を聴きたいな、と思う。いつからだろう、音楽を聴かなくなったのは。音楽を聴きたいと思っても、実際聴いてみると、音楽を聴くのが苦しくなる。

 わたしにとって、音楽を聴くことは心の秘密を沈黙のうちに打ち明けるような行為だった。

 たぶん、わたしは、大切にすべき秘密を失くしてしまったんだと思う。

 夫も、結婚前によく通っていたレコード店から足が遠退いて久しい。iPodにお気に入りの曲を入れて、行き帰りの電車の中では聴いてるみたいだけど、最近夫が何を聴いているのかは知らない。関心が無い。じゃあ、夫の何に関心を持っているのかと問われれば、何も無いのかもしれない、と思う。

 でも、わたしは自分に対しても関心を持つことができない。

 どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 何がいけなかったんだろう?

 市長選の翌日の午後、彼は一階の資産税課から二階の秘書広報課に上がってきて、「これ、例の資料です。返却しますね」と茶色い事務用封筒を手渡してくれた。

 中身がCDだということは手触りでわかった。市役所の中では市民が目を光らせている。職員が勤務中にCDを持って歩くなんてことをした日には、市民からのクレームが来る可能性が高い。

 事務用封筒で市民の目は誤魔化せたが、隣の席の新人の目は誤魔化せなかった。

 彼女は秘書広報課には珍しい二十代だった。

 あの編集部は手書きで原稿作成や割付や校正をやっていた時代が長く、以前の応募資格は「編集業務経験がある人」という条件のみだった。わたしが採用される数年前から「編集ソフト インデザインを使える人はなお可」という条件が増えた。編集部員は全ての作業をパソコンでやらなければならなくなったので、フリーで編集をしているような若い女性も面接を受けるようになったのだが、実際に採用されるのは、やはり身元がしっかりしている地元の主婦が多かった。

 彼女は、フリーペーパーや企業マニュアルを請け負っている編集プロダクションを退職したばかりだということで、仕事は文句なくできたのだが、とめどなく無駄口を叩く人だった。

 占いにハマっているらしく、「わたしの前世はオーストラリアのコアラなんですよ」とか、「背後霊が見える人に会ったんですよ。背の高い痩せた男性だって言われました。何も語らないから誰だかわからないって、わたしの背後霊って何者!みたいな」などと勤務中に話し掛けてきて、「ふぅん、すごいね」とか「そうなんだぁ」と生返事でいなしても、しつこく話を続けてきた。

 あの日わたしは、資源循環課が広報紙に掲載してほしいと持ってきたゴミ有料化の原稿をリライトしていた。専門用語の多い職員の原稿を市民目線で噛み砕かなければならなかった。

 彼女は、わたしのデスクトップの編集画面を覗いて甲高い声を上げた。

「四十リットルゴミ袋一枚八十円って、高くないですか? 週二回ゴミ出すと百六十円、一ヶ月だと六百四十円! ランチ一回分パーじゃないですか! この前、うちのアパートの大家さんと話したんですけど、大家さんち子どもいないんですよ。わたしは独身でしょ? 子育て世帯は、子ども一人当たり一万円の児童手当と、一人親家庭は四万円の児童扶養手当を受けられますよね? あと、要介護の老人がいる世帯は、紙おむつの無料支給がありますよね? しかも、育児と介護の紙おむつゴミは、有料化の減免予定なんですよね? それって不公平じゃないですか? わたしたちみたいになんの支援も補助も受けられない世帯からは、平気でなけなしのお金をむしり取るくせに!」

「子育て世帯は学費がかかるし、高齢者を抱える世帯は介護費がかかる。わたしたちだって、子どもを持つかもしれないし、親の介護をしなくちゃならなくなるかもしれないでしょう」とやんわりたしなめたつもりだったのだが、「わたしだってがんばってるんだから市にも認めてほしい!」と、横に束ねた長い髪を指で梳いたり引っ張ったりしていじけた素振りを見せた。

 そこに、彼がCDを持って現れたのだった。

 彼が秘書広報課を出ていった後、わたしは彼女の質問責めに遭った。

「何課の職員ですか?」

 市役所内では首から名札をぶら下げることが義務付けられている。その名札には真ん中に一本横ラインが入っていて、職員は緑、嘱託は青、バイトは赤、とひと目で身分が判るようになっているのだ。

「資産税課の人だけど」

「若いですよね」

「二十八だったかな」

「どこで知り合ったんですか?」

「昨日の市長選の投票所でね、わたし、受付のバイトに登録してたから」

「あぁ、その手があったかぁ」

「はぁ?」

「職員、紹介してもらえませんか? 職員の合コンとかでもいいんで」

「え? だって、昨日会ったばっかだよ」

 彼女がわたしの机の上の茶封筒に羨ましげな視線を投げて寄越したので、わたしはさりげなくファイルの間に差し込んで、編集画面に目を戻した。

 市役所では、職員同士が結婚するパターンが多い。独身の職員は一馬力、夫婦の職員は二馬力と呼ばれ、二馬力の職員は「おまえんちいいよな二馬力で」と、独身の職員や専業主婦の妻を持つ男性職員に羨ましがられる。職員が、嘱託やバイトと結婚したという話は聞いたことがなかった。

 正式なアイロンのかけ方は襟や肩など細かい部分を先にかけるということは知っている。その方が皺にならないとは思うんだけれど、気分的に、わたしはいちばん広い面積を有する後ろ身頃から皺を伸ばし、右身頃、左身頃、右袖、左袖の順にかけていく。ボタンの部分は裏からかける。カフは生地が厚いから表裏かける。襟も表裏。襟は洗って縮んでいるから、左手で布を引っ張りながら襟先から襟山に向かってかけていく。最大の難所である肩ヨークはいつも最後に残しておく。縫い目を折り返して、左手で縫い目を押さえながらアイロンの先を使って、火傷と焦げ付きに細心の注意を払いながら縫い目の小皺を伸ばしていく。

 初デートは、市長選から三ヶ月が経った月曜日の夜だった。

 市役所にはスクーターで通勤してたけれど、あの日は徒歩で行った。

 彼と二人で飲む約束をしてたから。

 服は、白い花柄のスミレ色のワンピースを選んだ。

 嘱託は五時で仕事が終わる。職員は五時十五分。その十五分の間にトイレで髪を梳かして化粧を整えた。

 青いイチジクの香りがする香水を耳たぶの裏に付けた時、職員に業務終了を告げるオルゴールの市歌が流れた。

 夫のワイシャツをハンガーに掛けて立ち上がる。アイロンのコードを抜いて、アイロン台を畳んで、ふと外を見ると、ベランダのオリーブが揺れていた。風が出てきたのかな、と思って物干竿を見たが、洗濯物はだらんと垂れ下がったままだった。

 サンダルを履いてベランダに出てみると、室外機の吹き出し口がちょうどオリーブの鉢の前にあった。

 枯れてしまうかもしれないから夫に鉢をずらしてもらおう、と思って、サンダルを脱ぎかけると、足元にBB弾のような黒い玉が散らばっているのに気付いた。

「あれ?」夫が出勤してから家の中で初めて聞く声だった。

 しゃがんで、一つ摘まんでみると、親指と人差し指の間で潰れた。

 BB弾じゃない……朝顔の種でもない……じゃあ、なに?

 ベランダを見回し、何気なしにオリーブの枝を見た。

「毛虫!」口から叫び声が迸った。

 部屋に飛び込み、ガラス戸を閉めた。

 ガラス越しに、もう一度見てみる。

 大きいな……

 十センチぐらいある。

 こんなに大きい毛虫に、どうして今まで気付かなかったんだろう?

 昨日の台風でどこかから吹き飛んできた、とか?

 体から黒く縮れた長いアンテナが一、二、三、四、五、六、七本も飛び出している。

 見るからに毒がありそうだ。

 あのアンテナに刺されたら痛い、かもしれない。

 でも、放っておいて、洗濯物に張り付かれでもしたら――。

 台所洗剤をかけて下に落とすという手もあるけど、ベランダでのたうちまわる姿は見たくないな……

 軍手で摘まみ取って、ビニール袋に入れる?

 割り箸で挟んで、ベランダから投げ捨てちゃう?

 どちらにせよ、毒があるかないかで対策が違ってくるよね?

 夫のノートパソコンを開き、「イモムシ 頭 アンテナ」のキーワードでGoogleの画像検索をかけてみた。

 いた!

 イボタガ……

 Wikipediaで調べてみる。

「イボタガは、チョウ目イボタガ科のガ。開帳は約100ミリ。翅には無数の波状線がある。春先に羽化し、幼虫はイボタノキ、モクセイ、トネリコ、ネズミモチの葉などを食べて成長する」

 わたしは、その蛾の翅色の美しさと模様の複雑さに目を奪われた。ひと言でいうと、毛足の長い茶色い絨毯のような翅なのだが、クリーム色から焦げ茶までの濃淡があり、後ろ翅の縁は木目調なのに、前翅の中心には豹柄のような黒紋があるのだ。

 いろいろ調べて、今の姿は四齢幼虫で、あと一回脱皮して終齢幼虫となること、そのあと土に潜ってサナギになること、羽化するのは来年の春であることが判った。

 いちばん重要なのは、あのアンテナのような突起は毒針ではなく、ただの飾りだということだった。

 でも、イボタガの食草はイボタノキ、モクセイ、トネリコ、ネズミモチと書いてあるのに、オリーブに付いているのは、何故なんだろう?

 齧った形跡のある葉もあるし、糞もたくさん落ちている。

「オリーブ イボタガ」で検索してみる。

 オリーブ畑を持っている農家の人のブログがヒットした。「このファンキーなイモムシはオリーブ害虫の新種イボタガです。憎らしいので鋏で真っ二つにしてやりました」と書いてあった。

 大丈夫、わたしは、ちょん切ったりなんかしないよ。

 剪定鋏でイボタガの枝を切って、そうっと揺らさないように部屋の中に入れ、一輪挿しに水を入れて挿した。

 イボタガの子は、頭を内側に丸めてのけ反り、上体を左右に揺らして威嚇した。

 あんたは今日からうちの子だからね。

 どこで飼おうかな?

 寝ているうちにどこかに潜り込んだら、探し出すのにひと苦労だから、トイレしかないか……

 便器の水に落ちたら溺死するから、蓋は必ず閉めておくことにしよう。

 便器の蓋に座り、イボタガに顔を近づける。

 赤ちゃんの手のように張り詰めた体は洋辛子色で、背面は高麗青磁のような青、側面には誤って墨汁を垂らしたような黒紋が散らされている。

 イボタガは、わたしの視線に馴れたのか、威嚇のポーズを解いて、オリーブの葉を齧りはじめた。速い。音がする。フライパンで油が爆ぜるような勢いのある音だ。

 イボタガは目の前で糞をした。鉢皿に新聞紙を敷いて、その上に一輪挿しをのせれば、手入れが楽だ。

 名前、なんにしようかな……

 テレビ画面には、台風の被害の様子が映し出されている。

 午前十一時頃田んぼの様子を見に行った六十四歳の男性が夜になっても帰らないと家族から警察に連絡があり、警察と消防で行方を捜しています。

「どうして川なんて見に行くんだろうな」と言って、夫は最後の一枚となったチヂミに箸を伸ばした。

 ビールのツマミになるように、チヂミの中にキムチを細切れにして入れたのだ。キムチと合わせて胡麻油でこんがり焼いたら、ゴーヤの苦味がおさえられて、我ながら美味しくできたと思う。

 夫は、出したものは残さず食べるが、料理の感想は言わない。

 夫がビールを飲み干しトイレに立ったので、わたしも席を立って食器をお盆にのせて台所に下げた。

 皿に付いた食べかすを三角コーナーに流し、洗剤を付けたスポンジで皿を擦りながら、聞き耳を立てる。

 トイレから叫び声が聞こえた。

 でも、飛び出してはこない。

 きっとまだ途中なんだろう。

 わたしは、聞くことで全身の筋肉を緊張させながら、いつもよりゆっくりと皿を洗った。

 トイレットペーパーの軸が回る音。

 水を流す音。

 カチッと内鍵が縦になる音。

 ドアが閉まる音。

 夫はいつもは真っ直ぐリビングに戻るのに、台所の入口で立ち止まった。

「何あれ?」夫はまるで怒ってでもいるように顔を赤らめていた。

 答えるより先に口から笑みがこぼれた。

「トーマス」

「トーマス?」

「機関車トーマス」

「機関車トーマス?」

 眉を顰めた夫の顔がおかしくて、わたしはとうとう笑い声を上げた。笑い過ぎて涙が流れたので、スポンジを持っていない方の手、泡だらけの左手首の背で涙を拭った。

「トーマスはわたしが付けた名前。あの子はイボタガの四齢幼虫なの」

 涙でぼやけた視界に、夫の顔があった。

 目も耳も曇っている。

 二人の間にはガラスの壁があるようだった。

「イボタガ?」

「蛾よ。大きくて綺麗な蛾」笑いと涙が収まってきたので、スポンジをシンクに置いて、両手の泡をエプロンで拭いた。

「あれ、どうするの?」

「どうするって?」

「あそこに置いといて、どうするの?」

「どうするって、飼うんだけど」

「飼う?」

「飼う」

「トイレで?」

「うちのベランダのオリーブに付いてたから、餌の心配はしなくて大丈夫」

「…………」

「あぁ、あの黒いアンテナはただの飾りだから。触っても大丈夫だよ」

 夫は、リビングテーブルに戻り、リモコンを手に取ってチャンネルを替えた。

 夫もわたしも興味がないプロ野球のナイトゲームだった。

 台所の小窓から見えるのは、夫の後頭部だけだった。顔は見えないが、暗い目をしているのはわかる。不機嫌、それを何がなんでも保持しようと、夫は背筋を伸ばして0対0の投手戦を見ていた。

 いつものように夫を送り出して、洗い物をして、洗濯物を干して、トイレに入ったら、トーマスはもう脱皮を終えていた。

 終齢幼虫に変身したトーマスは、チャームポイントの七本のアンテナを四齢時代の皮と共に脱いでしまっていた。

 アンテナのないトーマスは別人だった。

 配色は変わらないが、地色の辛子色の濁りが消えて、真新しいプラスティックのオモチャのような光沢のある黄色に変わっていた。

 太く、長くもなった。

 定規をかざしてみると、十三センチもあった。

 驚いたことに、トーマスは破裂した風船の残骸のような自分の脱け殻を食べはじめた。

 黒い六本脚で器用にアンテナを手繰って、ポッキーを食べる要領で先端から齧っていく。

 脱け殻を完食すると、食休みもせずに、オリーブの葉に取り掛かった。一枚一枚葉先からていねいに食べて、その枝を裸にすると、次の枝に移って食べ、食べながら糞をした。

 糞も大きくなった。

 糞の形も四齢時代とは違う。

 白粉花の種によく似た手榴弾のような形をしている。

 食べるのも速くなった。

 トーマスの一回の咀嚼の速度は一秒よりもずっと速い。

 早食い競争をしてるみたいだ。

 冷房の風が流れ込まないようにトイレのドアはいつも閉め切り、中の小窓は網戸にしている。

 梅雨時特有の生暖かく湿った風が入ってくる。

 規則正しい動きで葉を食べるトーマスを見ているうちに、眠くなってきた。

 目を閉じると、このマンションの壁という壁が取り払われ、誰もいない草原でトーマスの食べる音をただ聴いているような――。

「疲れた」という声が口から漏れる。

 その声を聞いた途端、自分がどれだけ疲れているかということに気付いて、身動きが取れなくなった。

 疲れた……

 この結婚生活にも疲れたけれど、夫と出会う前からずっと疲れていた。

 自分が辿ってきた人生に後悔や悲しみを感じないのは、疲労が余りにも大きいからなのかもしれない。

 疲労に威圧されて、後悔や悲しみを感じ取れないのかも……

 これまでの人生を振り返っても、疲れた、としか思えない。

 他の感想はない。

 これからの人生を想像しても、期待や希望を持つことはできない。

 こういう時、人は自殺するんじゃないかな……

 疲れた……

 ほんとうに疲れた……

 わたしは、短大を卒業して、小さな出版社に就職した。

 地方誌を編集・発行し、自費出版を含めて年間四十冊ぐらいの本を出している社員十人の出版社だった。

 給料は手取りで二十七万円、社会保険、厚生年金もきちんと付いていたけれど、大手出版社のような編集部、営業部、広告部というような区分けはなく、全員が全ての業務をこなさなければならなかった。

 朝八時半に出社して、ゴミ出し、掃除、事務連絡を済ませると、社長と副社長以外の全員が営業に出掛ける。

 広告の新規開拓は、三、四十店訪ねて一店取れるかどうかという確率だったから、とにかく当たって砕けろで、「こんにちは」と店に飛び込み、見本誌と企画書を手に取ってもらえたら、「三万円で単発広告をいただけませんか?」「十万円出していただければ、五号連続で広告を掲載いたします」「『名店美味いもの 春の特集』という企画に五万円でお付き合いいただけませんか?」と話を持ち掛ける。「会社の予算は限られてるけど、三万円でいいなら、ぼくのポケットマネーで出してあげる」と言ってくれた精肉店の社長もいたけれど、「まぁお茶でも飲んでいきなさい」と奥の部屋に通されて、説明を始めると、資料を覗き込むフリをして体を密着させてきた和菓子屋の社長もいた。

 最もハードだったのは最新号が出る毎月二十日だった。トラックが会社の前に停まると、全員総出でバケツリレーみたいにしてトラックから本を降ろして会社の二階に運び、検品を終えると、本を詰めたリュックサックを背負ってスクーターに乗り、配本に出掛けなければならなかった。

 昼休みは、いったん会社に戻る決まりになっていた。一時間休憩のはずなのだが、電話に出たり、社長と副社長のお弁当を電子レンジで温めたり、お茶をいれたりしているうちに時間が過ぎて、実質三十分も休めなかった。

 昼休みを終えると、またスクーターで街へ出る。

 冬場は五時頃、夏場は六時頃、日没までは確実に営業しなければならなかった。

 帰社したらすぐに営業報告書を書いて提出することが義務付けられていた。何時にどこどこでだれだれと話をした、検討して後日返事をくれるとのこととか、全く脈なしとか、ご主人は話を聞いてくれるけれど、奥さんは冷たいとか、それぞれの店の反応を事細かに記入しなければならなかった。

 編集長は専門学校卒の四十代女性で、大卒ではないことに強烈なコンプレックスを抱いていた。飲みに行くと、学歴社会の弊害を語りながら、定年退職したら絶対に通信制の大学に行ってやる、とクダを巻くのが常だった。

 真夏の営業を終えて帰社した時のことだった。一日中ヘルメットで蒸された頭がガンガンして、これは熱射病だ、と思って、流し台の水道から水をザーッと出して頭を突っ込んだ。

「どうしたの? なに頭から水かぶってんの?」と、みんなが心配して集まってきた。「頭が痛くて爆発しそうです」と、濡れた髪のままソファに横になると、社長が「今日は早く帰って休みなさい」と言ってくれたので、早退することができた。

 翌朝八時半に出社すると、編集長に「BD、なんで報告書を出さなかったの? 報告書で情報を共有するということの重要性を、いくら言ったら解ってくれるの? 営業は個人プレーじゃないの。チームでパスをつないでいかないと勝てないのよ」とヒステリックにお説教をされた。「すいません、昨日は調子が悪くて帰りました。一応社長の許可も取りました」と事情を説明すると、「BD、問題を掏り替えないで! 社長は早退してもいいと言ったかもしれないけれど、報告書を書かないでいいとは言わなかったはずよ。報告書は、横になってたって書けるでしょ?」とまくしたてられた。

 わたしは、あの職場ではBDと呼ばれていた。Black Diamondの略。「真っ黒に日焼けして、広告をよく取ってくる。我が社の黒いダイヤだ。これからは、みんなでBDと呼ぼう」と言ったのは社長だったから、社長には期待されていたのだと思う。

 営業報告書タイムの後は、発送タイムだった。夜七時までに郵便局に荷物を持って行けば、翌日には到着するので、急いで郵便物や本を梱包しなければならなかった。

 夕食は、会社の大テーブルで社員全員で食べるのが慣わしだった。外に食べに出ることは稀で、下っ端のわたしが全員から注文を取ってスクーターでファストフード店やコンビニエンスストアに買い出しに行かなければならなかった。

 食事の後に、ようやく編集作業に入る。十一時になったら、「なにかお手伝いすることはありませんか?」と編集長に訊ねる。「帰っていいよ」と言われたら帰宅できるのだが、そこで用事を頼まれたら、午前二時過ぎまで働くことになる。

 十一時帰宅の翌朝は、「BDはバイク通勤なのに、終電の時間に帰ったのか」と社長に嫌味を言われた。

「時給に換算したら、死にたくなるからやめた方がいいよ」と先輩たちに言われて、電卓で計算してみたら、時給六百七十円だった。

 入社して一日で辞めた男性もいたし、三日で雲隠れした女性もいた。一年持ったらおめでとう、三年持ったら奇跡、と言われる中で、わたしは四年間働き通し、五年目に吐血して倒れた。出血性胃炎と十二指腸潰瘍を併発しているということだった。

 BDの時代は、終焉を迎えた。

 市役所は別世界だった。

 初日は、掃除をするために三十分前に出勤した。すると、「三十分間違えてるよ」と課長に注意され、「でも、わたし、掃除しますから」と言うと、「そんなことしなくていいよ」と言われた。二日目は十五分前に出勤してみたが、「早い、早い」と再び咎められてしまったので、三日目は勤務開始時間の五分前に着席した。

 職員にはタイムカードがあるけれど、嘱託は出勤簿に自分で判子を捺すだけなので、多少遅れても構わないということも、先輩から教えてもらった。

 委嘱期間は原則として一年なのだが、「実績により最長五年継続する場合あり」という但し書きがあった。毎年十二月頭に、「来年もやってくれますか?」と課長から声が掛かる。「はい」と答えると委嘱期間が一年延長されるのだが、課長との口約束で延長できるのは五年までで、さらに延長したい場合は、他の一般応募者と共に職員採用試験を受けなければならない。そこで勝ち抜けば、また一年一年と延長して五年間は働くことができるという仕組みだった。

 わたしは一回勝ち抜いて、六年目に入ったところだった。

 わたしが入った時の課長は、都市景観課に四年いて、秘書広報課に課長として入ってきて、まちづくり景観部の次長になって、今年の春、部長にまで上り詰めた。次の課長は、台風による土砂崩れで死者が出て、市の広報カーが避難を呼び掛けなかったから避難できなかったのだという遺族からの抗議を受けて、図書館管理という閑職に左遷されてしまった。

 市役所は配置換えが頻繁に行われ、最長で四年、一、二年で異動になる人も少なくない。嘱託はだいたい一年から五年で辞めていくから、いつの間にか秘書広報課ではわたしがいちばんの古株になっていた。

 職員の仕事であるはずのクレイマーへの対応も、わたしが一手に引き受けていた。

 クレイマーというと中年女性をイメージする人が多いと思うが、実際は七十歳前後の老紳士が多かった。「市の広報紙が届くのが、親戚の家より三日も遅かったんですよ。情報の格差が生まれるから、一律早くするか、一律遅くするか、どちらかにしてください」とか、「広報紙の字が小さ過ぎて読めない。老人が多い町なんだから、老眼のことを考えて、もっと大きな活字にしてもいいんじゃないかしら?」など、秘書広報課が受けるべき苦情や意見もあるにはあったが、午前中三十分以上話し続けて、昼食時にいったん引き揚げて、午後からまた押し掛けてくるという時間感覚が欠如したクレイマーもいた。彼らには、背が低い、痩せているのに骨太、身なりがきちんとしている、という共通点があった。

「毎日、門の前に犬の糞が落ちてるんですよ。最初のうちは黙って拾ってたんですがね、もう我慢の限界です。犬の糞を持ち帰るのは飼い主のマナーですという看板を立ててみたんですが、全く効果はありません。あと、公園の砂場が猫のトイレと化していることも大問題だ。うちの三歳の孫が、女の子なんですがね、猫の糞をチョコレートと間違えて口の中に入れてしまったんですよ。幸い、検便の結果、回虫も鉤虫も条虫もいなかったんですがね、ペットの糞の始末を怠る飼い主からは罰金を取る、という条例を作ってほしいんですよ。あとは、カラスの糞。カラスがうちの屋根やベランダに好き勝手に糞をして行くんですよ。市の方にはひとつ、カラスの駆除をお願いしたいんですけどね」

「市役所の一階ロビーにテレビあるでしょ? 市民に必要な情報だけ流すんならいざ知らず、なんで特定の歯医者の宣伝をするの? あの歯医者はヤブなんだよ。長男が奥歯を被せた時に、一週間ではずれてさ、キャラメルや餅がくっついてはずれたんじゃないよ、うちのばあさんが剥いたリンゴを食べただけではずれたんだから、正真正銘のヤブでしょ? 市役所がヤブ医者商売の片棒担ぐなんておかしかないかね?」

 気が済むまで話してもらい、こちらは黙って聞くしかないのだと頭では解っていても、何時間も聞かされていると、声が皮膚から浸透し、身体中にじわじわと拡がっていき、自分の内側にうっすらと霜が降りるような気がして寒気が止まらなくなった。

 自分に穴が開き、時間が漏れ出しているようで、わたしは焦っていた。とにかく、穴を塞げるものを求めていた。穴を塞ぐことができれば、なんでもよかった。その焦りがなければ、夫とは結婚していなかったと思う。

 わたしが求めていたのは、結婚生活ではなく、子どもがいる家庭だった。

 それは、たぶん、夫も同じだ。

 トイレでずいぶん時間を過ごした。

 少し寝ていたのかもしれない。

 目を閉じたまま耳を澄ますと、線香花火みたいな微かな音が聴こえた。

 トーマスは食べている。

 目を開けると、葉を齧る時の上下運動で、オリーブの枝がまるで会釈でもしているかのように揺れていた。

 日曜日の朝、トーマスはトイレの床に転がっていた。昨夜まで青磁色だった背面がオレンジ色に変わり、クリスマスツリーに吊るされるジンジャーブレッドマンの糖衣みたいな質感の背中になっていた。

 これは、間違いなく、前蛹状態だ。

 トーマスがサナギになる。

 わたしは、ティッシュペーパーを一枚一枚丸めて、ガラス製のサラダボウルに敷き詰め、その中にトーマスをそうっと入れた。

 トーマスは探し物をしているかのように頭を左右に動かしながら、ガラスボウルの底を這ってみたり、丸めたティッシュペーパーの中に潜り込んでみたり――、とにかく落ち着かない様子だった。

 本来であれば、土の中で蛹化するわけだから、暗くて落ち着ける場所を探しているのだろう。

 サナギ時代はトーマスでもいいけれど、来年の春、羽化して、もしメスだったら、改名しないといけないな……なんて名前にしよう……姿を見て、決めるか……

 夫は、ウインナーソーセージとスライスチーズとトマトのホットサンドを食べ終えると、ちょっと散歩してくる、と言って外に出て行った。

 サナギになったら、動いているトーマスを見ることはできなくなる。ほんとうは蛹化が無事に完了するまで付き添ってやりたいんだけれど、夫が帰ってくるまでに家事を終わらせないといけない。

 洗い物をして、掃除機をかけて、洗濯物を干して、トイレ掃除を終えて、壁掛け時計を見ると、午前十時を回っていた。

 買い物に行かないと、お昼ごはんが間に合わない。昼は冷やし中華にしよう。夜は? 茄子とズッキーニとベーコンのペペロンチーノにする? あ、昼も麺、夜も麺になっちゃうか……最近、茄子料理も続いてるしな……じゃあ、今夜はあっさり純和風にしよう。モロヘイヤ納豆と、レンコンの梅和えと、なめこと豆腐のお味噌汁と、主菜は、鯖の味噌煮とか鰤の照り焼きとかそのあたりで……

 エプロンをはずして、お財布をバッグに入れる。

 出掛けにトーマスの様子を確かめに行く。

 トーマスは、ティッシュペーパーの下にドーナツみたいな格好で丸くなっていた。

 ティッシュペーパーを噛んだような痕があり、その周りのペーパーが赤く染まっていた。

 何この赤いの……

 口から?

 肛門から?

 気になるけど、ネットで調べている時間はない。

 でも、不思議。

 イモムシの体液は緑色だとばかり思っていた。

 イモムシが人間の血みたいな赤い液体を出すなんて……

 あのイボタガの幼虫を鋏で真っ二つにしたというオリーブ農家の人は、イボタガの体液が飛び散る様を見たはずだ。

 赤かったのかな?

 あぁ、もっと見てたいけど、もう時間がない。

 こういう時、スクーターがあれば便利なのにな……

 スクーターは市役所を退職した後に、バイクディーラーに売った。「スクーターには子どもを乗せられないし、妊娠中に乗って転倒でもしたら一大事でしょ?」と夫が売るように勧めたのだった。わたしも、幼稚園の送り迎えなどで使うだろうから自転車の運転に慣れておいた方がいいだろうと思って、自転車を買って乗るようになった。

 わたしは、子どもの父親に適した人だと思ったから、彼と結婚したのだ。大金を使うような遊びを知らないし、これ以上ないほど安定した仕事に就いているから。子どもが居ない結婚生活を想像したことは一度もなかった。子どもは女の子が二人で、娘たちが大学を卒業したら、夫のような固い仕事に就いて、職場で良い人を見つけて結婚し、孫が生まれる。老後は孫の成長を楽しみに生きていく――、そんな一生を思い描いていた。それは単調な日々かもしれないと思った。けれども、自分はその単調さを飽きることなく慈しんで生きていける自信があった。子どもさえ生まれれば――。

 買い物を終えて、駐輪場に停めてある自転車の前籠にレジ袋を入れる。自転車を押して横断歩道の前の日向に立つ。日焼け止めも塗らず帽子も被らずに飛び出してきてしまった。自転車を少し下げて木陰に入る。同じ木陰で、信号が青に変わるのを待っている主婦の手には同じスーパーマーケットのレジ袋があり、わたしが買ったのと同じ冷やし中華の麺のパッケージが透けて見えていた、きゅうりとハムも――。

 玄関のドアを開けると、夫のサンダルが脱いであった。

 バスルームからシャワーの水が撥ね散る音が聞こえた。

 散歩で汗だくになったんだな。

 あぁ、また着替え出してない……

 食材を冷蔵庫にしまい、バスタオルと着替えを脱衣籠に入れておいた。

 トーマスは、もうサナギになったかな?

 わたしはトイレに行ってガラスボウルを覗いてみた。

 ん?……ティッシュペーパーの底にいるのかな……

 ボウルを目の高さまで持ち上げて底を見てみた。

 いない……そんなはずはない……

 でも、ティッシュペーパーを一枚一枚広げて調べてみても、トーマスは見つからなかった。

 わたしは四つん這いになって、便器の周りを捜索した。

 いない……いない……トーマスがいない……

 もう一度、ティッシュペーパーを確かめてみた。

 いない……

 わたしはトイレの天井を見上げた。

 冷静になろう。

 蝶は体を糸で枝に固定して蛹化するけれど、イボタガは土の中で蛹化する。

 天井にぶら下がっているわけがない。

 朝の段階で、トーマスはもう蛹化を始めていて、体が少し縮んでいた。

 あの体で、そんなに速く移動することはできないはずだ。

 わたしが、買い物に出掛けていたのは三十分――。

 どこかにいるはずだ……土みたいに潜れるとこ……暗いとこに……

 トイレの洗面台の後ろに手を入れると、配水管のスペースがあった。コンパクトカメラで動画撮影することを思い付き、洗面台の後ろにカメラを持った右手を差し入れて、エレベーターのようにゆっくりと上げて、上げ切ったところでゆっくり床まで下げて――、撮影した動画に目を凝らしてみたが、トーマスらしき姿は映っていなかった。

 トイレの壁に張ってあるカレンダーを剥がしてみた。トイレットペーパーや生理用品が入っている戸棚の中も調べてみた。トイレットペーパーの中心部の空洞を一つ一つ覗き込んでみた。

 トーマスは見つからなかった。

 夫は先に帰っていたのだから、何か手がかりになるようなことを知っているかもしれない。

 夫はリビングでテレビを見ていた。

 製薬会社のCMが流れている。

「いい薬を、自分たちの手で作りたい。いい薬だから、自分たちの足でお届けしたい。元気、いっしょに!」

 わたしは、夫の後頭部に向かって訊ねた。

「トーマスいないんだけど、知らない?」

「え?」夫は寝惚けたような声で訊き返してきた。

「胃がチクチクとか胸焼け。そこで、この胃腸薬。精力アップで、胃すっきり! いい調子! 元気、いっしょに!」

「イボタガのトーマスが行方不明になりました!」

 CMのテニスプレーヤーよりも大きな声で言ってみたが、夫は振り返りもしなかった。

 何故、そんなに夢中になって胃腸薬のCMを見なくちゃならないの?

 リモコンでテレビの電源を切って、わたしは画面の前に立ちはだかった。

「何時に帰ってきたの?」

「さっきじゃない?」

「帰ってきてトイレ行った?」

「行ったけど、何?」

「トイレに落ちてたトーマスを間違えて流しちゃったなんてことない?」

「ないんじゃない?」

「トイレって大と小どっちした?」

「なんでそんなこと答えなきゃならないの?」

「トイレ済ませて、水を流した後に便器の蓋を閉めたかどうかを知りたいんだけど」

「さっきトイレに入って、閉まってなかったんなら、閉めてなかったってことなんじゃないの?」

「トーマスがさ、落ちて溺死するかもしれないから、便器の蓋は必ず閉めてくださいって何度もお願いしたよね? あ、便器、便器の中まだ見てない」

 トイレに戻って、便器の中の水溜まりを覗いてみる。いない、いない、浮いてもいないし、沈んでもいない。リビングから憎らしいテレビの音が聞こえてきた。

「お父さん、タイヤ変えたいって言ってたよね?

 お、タイヤ安いね

 タイヤ変えるなら低燃費タイヤがいいな

 え!?

 タイヤ一本二千四百円

 低燃費タイヤ最大二万円還元

 これだ!」

 車なんて持ってないのに、タイヤのCMなんか見て、バッカじゃないの!

 トイレに流されたんじゃないとしたら、トーマスはどこかにいるはずだ。

 トーマス……トーマス……どこにいるの?……トーマス! トーマース!

 ふと、床を見ると、タイルの目地に赤く染まった部分があることに気付いた。

 顔を近づけてみると、タイルの表面にも拭き取ったような痕があった。

 それは、ちょうどトーマスぐらいの大きさだった。

 わたしは、朝、トーマスがその辺りに転がっていたことを思い出した。

 買い物に出掛ける前に、ティッシュペーパーが赤い液体で染まっていたことも――。

 夫は、買い物から帰った時に、シャワーを浴びていた。

 状況証拠は揃っている。

 わたしが買い物に出掛けている間に、トーマスがボウルから這い出し床に降りた。散歩から帰ってきた夫が、床を見ずにトイレに入って、トーマスを踏み潰した。夫はトーマスの遺体をトイレットペーパーで摘まんで便器の中に捨てた。トーマスの体液で汚れた床のタイルと自分の足の裏をトイレットペーパーで拭いて、それも便器の中に捨てた。夫はトイレの水を流した。気持ち悪いからバスルームに行って足を洗った。

 証拠隠滅、完全犯罪。

 わたしはリビングに戻って、夫の顔を思い切り睨み付けた。

「踏んだでしょ!」

「何?」

「何じゃないでしょ? トイレの床のタイルにトーマスの体液を拭き取った痕があったんですけど」

「あぁ、あれ? 生理の血かと思ったけど」

「なわけないよね? 生理は二週間前に終わってるし、わたし毎日、トイレ掃除してるんだからね! トーマスを踏んだんだよね? それで、足を洗ってたんでしょ?」

「は? 散歩して汗かいたからシャワー浴びただけだけど」

「散歩してもさ、わたしが背中汗びっしょりだからシャワー浴びた方がいいよって言って、しぶしぶ浴びることはあっても、自発的にシャワー浴びたことなんて一度もなかったよね?」

「シャワー浴びちゃいけないの?」

「トーマスはさ、わたしがこの一週間、大事に飼ってたんだよ。毎朝、新鮮なオリーブの枝を切って、糞を片付けて、観察してさ、ずっと世話してきて、それが今日やっと、オレンジ色になって蛹化して、蛾になるのを楽しみにしてたのに、なんで踏んじゃったの? いま思い返すと、朝も床に落ちてたわけだから、外出する前に魚の焼網かなんかを被せておけば良かったと思います。わたしにも落ち度はありました。だから、正直に言ってくれれば、悲しみこそすれ、怒りはしないと思う。踏んだんだよね?」

「…………」

「どうして、踏んじゃいました、ごめんなさいって謝れないの? この期に及んで、なんで嘘つくの?」

「…………」

 夫の目はぼんやりして、唇は少し開いている。

 怒っているというよりは、驚いているような表情だった。

 この顔は、演技?

 テレビでは薄毛に悩む女性のためのカツラのCMをやっていた。

「もう去年は大変だったんですよ、髪がちっともまとまらなくて。でも今年は、片手でウィッグを付けて、こんな風に手櫛だけなんですよ。

 簡単ですねぇ。なのにこんなに素敵なヘアスタイル。夏は汗など気になりませんか?

 それがね。

 はい。

 サラッとしてるもんですから、付けてるのも忘れちゃうぐらいなんですよ。

 しかもお湯で洗えて、ドライヤーで乾かすと、ほら!

 うわぁ! 元に戻りましたね、ウィッグが自分のヘアスタイルを憶えているんですね」

 わたしは夫の顔を見ていたが、怒りの感情を込めて睨み付けているのではなかった。

 演技かどうかを見破ろうとして、まじまじと見ているのでもなかった。

 わたしは、疲れていた。

 これ以上ないほど消耗していた。

 疲労と消耗で目が据わっていた。

「嘘ばっかり」

「…………」

「十年間、毎日毎日嘘ばかりついて……」

「嘘って、何?」

「こんな生活、嘘以外の何ものでもないでしょう?」

「…………」

 突然、自分の呼吸が乱れるのを感じた。

「踏んだんだよね?」

 声が震え、崩れた。

「踏んでません」

「じゃあアレだ、来年の春、朝起きたら、イボタガが羽化して、トイレの壁に張り付いてるんだね?」

 唇に涙と鼻水が同時に流れ落ちてきた。

「なんで来年なの?」

「イボタガは土の中で蛹化して、春になったら羽化する蛾なんだよ」

 テレビ画面の老いた二人の女の顔が、水溜まりに映った自分の顔のように歪んで見えた。

「だから夏でもずっとふんわり簡単、長持ち、手間いらず、夏のふんわりヘアー素敵ですね。

 うっふっふふ……

 お電話お気軽に、ご試着ももちろん無料です」

 夫はリモコンを手に取り、チャンネルを替えた。

 正午に始まるニュース番組だった。

 わたしは、昼ごはんを作らなければならない。

 台所に行って、冷蔵庫から冷やし中華の麺と卵ときゅうりとハムとトマトを取り出す。

 大鍋に水を張って、火をつける。

 きゅうりを洗って、ピーラーで皮を剥く。

「お天気です。今日も蒸し蒸ししますね。湿度が高いんですよね。気温も真夏日一歩手前まで上がっています。気温も湿度も高い場合は熱中症にかかりやすいので水分を補給しながら注意をしてください」

 夫が嘘を吐いたかどうかはっきりするのは、来年の春だ。

 イボタガが羽化しなかったら、別れる。

 イボタガが羽化したら――。

◇ ◇ ◇



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