三島賞候補作家にしてアイドル評論の第一人者・中森明夫による長篇小説『キャッシー』より、第一章を全文公開!
のんが、初めて書籍の装画を担当して話題。三島賞候補作家にしてアイドル評論の第一人者・中森明夫による長篇小説『キャッシー』より、第一章を全文公開!
◇ ◇ ◇
第一章 黄色い目覚め
キャッシー。
おまえは、そう呼ばれている。
本名は、木屋橋莉奈。
幼い頃のおまえは「木屋橋」とうまく発音できず、「キャアシ」と舌たらずに口にしていた。たちまち、まわりの子供たちは「キャッシー」「キャッシー」とはやしたてた。
「またキャッシーが変なこと言ってる~」
「キャッシーって、変!」
「うえーっ、キャッシー鼻血、出した~」
「きったね~、キャッシー」
「やーい、やーい、バカキャッシー」
「ブスキャッシー!」
さんざんだった。
ものごころつくときには、もう、おまえはいじめられていた。いじめられ、仲間はずれにされた。
理由は?
わからない。
のぼせ性で、すぐに鼻血を出した。緊張すると、顔が赤くなり、のぼせる。で、鼻血が出る。だらだらと。うえーっ、とまわりの子供たちは大騒ぎした。
でもね、キャッシー、不思議だね。
血は赤いはずなのに。鼻血を出すと、いつも目の前が真っ黄色になったんだ。頭がポーッとして、世界全体が黄色く見える。なんだこれ? なんだこれ? って、首をひねった。
おまえは黄色が嫌いになった。
黄色を見ると、また鼻血が出るんじゃないかって不安になる。
なるほど黄色は、信号機の「注意」の色だ。信号機が黄色くともっている時間は、ごく短い。ほんのわずかだ。
でも、おまえは黄色に目を止めてしまう。ずっと黄色いままの信号機が見える。まるで時間が止まったみたいに。
横断歩道の歩行者用信号には黄色がない。青と赤だけだ。けれど、おまえには黄色が見えた。突然、視界が真っ黄色になった。横断歩道の途中でふと足が止まる。次の瞬間、暴走車が突っこんできて、目の前の女の子をはねたのだ。悲鳴があがる。人々が群がる。道路に倒れた女の子の姿。視界の黄色が消えると、目の前が真っ赤だ。路上に流れた大量の血だった。赤いランプを点燈させて救急車が走ってきた。
自分には特別な何かがあるんじゃないか?
世界が黄色く見えるなんて。
幼いおまえは、ぼんやりとそう思う。
だけど、すぐに首を横に振って、打ち消した。自分が特別だなんて、とんでもない。わたしは普通だ。普通でいい。いや、ずっとずっと普通でいたいんだ。
実際、おまえは普通だった。
東京から何百キロも離れた、ごく普通の地方の街で生まれ育った。父親は普通の会社員、母親は普通の主婦で、おまえは普通の一人娘だ。出自も、家系も、生い立ちも、なんら変わったところはない。みかん箱の中のみかんが、どれか一つと他の一つが区別がつかないように、おまえと他の女の子らともまったく見分けがつかない——それほど普通だった。
なのに、なぜ自分はいじめられてしまうんだろう? 幼いおまえは首をひねった。すぐにのぼせるから? 鼻血を出すから? 世界が黄色く見えるから? うーん。どれだけ考えても、よくわからない。
今の時代には、いじめっ子も、ガキ大将もいない。だけど、いじめはある。いじめられっ子はいる。不思議だね、キャッシー。
〽キャッシーのキは?
〽キモイのキ!
〽キショイのキ!
〽キッタナイのキ!
〽キャッシー、キモイ、キショイ、キッタナイ、マッキッキのキ!
誰が唄いはじめたか知らないが、まわりの子供たちがそんな歌を唄って、はやしたてた。おまえはますます黄色が嫌いになった。
黄色いクレヨンでおまえの机に「バカキャッシー」と殴り書きされている。遠足の時の写真が教室の後ろの壁にずらりと貼り出され、おまえの顔の上だけすべてに画びょうが突き刺さっていた。トイレから帰ってくると、教科書もノートもなくなっている。泣きながら探しまわると、ゴミ箱に捨てられていた。
いじめっ子はいない。だけど、いじめはある。おまえは、いじめられていた。見えない悪意にずっと取り囲まれている。息が苦しかった。存在を消したい。ああ、透明人間になりたい。
小学校三年生の時だった。
午後の授業中、急に目の前が黄色くなった。あ、来た、と思ったおまえは、鼻に手をやる。あれ? 鼻血は出ていない。なのに目の前の黄色はどんどん濃度を増してゆく。黄色く、黄色く、黄色くなって、視界はもう真っ黄色だ。これほど黄色い景色は、はじめて見た。そうして、ふるえがきた。悪寒がした。全身がガタガタとふるえた。
「わーっ、キャッシーがもらした~っ!」
「うえーっ、おしっこだ~!?」
「先生、先生、大変! 木屋橋さんがおもらししてます!!」
クラスメートが騒ぎ出した。おまえは失禁して、下着を濡らして、おしっこの水たまりが教室の床に広がってゆく。まわりの子供たちが、わっと立ち上がって飛びのいた。
「きったね~、キャッシー」
「やだ~、濡れる~」
「おもらし、おもらしキャッシー」
「おしっこ、おしっこ!」
「おしっこキャッシー!」「おしっこキャッシー!」の大合唱になった。女性教師は困った顔で、おまえの席へと駆けよろうとする。そんな様が、黄色く、黄色く、黄色く、見える。
世界全体が真っ黄色だった。
体が、またふるえた。
いや、そうじゃない。
黄色い世界が揺れていた。
教室の机や椅子がガタガタと揺れて、あちこちで倒れた。ロッカーの扉が開いて、物が飛び出した。壁に貼られた習字や絵が激しく揺れて、はがれて、舞い飛んだ。
児童らが悲鳴を上げて、立ち上がり、大騒ぎになった。
「落ち着いて! みんな、落ち着きなさい!!」
叫ぶ女性教師の声は、まったく落ち着いていない。
「地震よ! 机の下に隠れて!!」
自分が真っ先に児童の机の下へともぐりこんだ。
キャッシー、その時、おまえはどうしていたのか?
黄色い視界の向こう側の大騒ぎを、ぼんやりと見ていた。おしっこの水たまりに足もとを濡らして、呆けたような顔で、じっと自分の席に座ったままで。
その日は授業が中断され、帰宅指示された。
大地震だった。
震源地は遠く、おまえの住む街にそれほどの被害はない。
帰宅して、テレビをつけると、ずっと地震のニュースが流れている。ヘリコプターが飛んで、被災地の倒壊した建物や地割れした道路、避難する人々が次々と映し出される。ヘルメットをかぶった記者が早口で何かまくしたてている。
夜になって、やっと視界の黄色が薄れ、消えていった。
キャッシー、色彩を取り戻したおまえの目は何を見たのか?
そう、テレビに映る被災地の大火災だ。
暗闇の中で燃えさかる真っ赤な炎を、おまえはじっと見つめていた。
おまえはクラスメートにますます忌み嫌われる。狭い学校内でのことだ。すぐにその珍事の噂は広がった。学年中、いや、学校中の児童らが、おまえを「おしっこキャッシー」と呼んだ。
「おしっこ」「おもらし」といった声が、常にどこかから聞こえ、くすくすと忍び笑いが続いた。おまえはいたたまれなくて、消えてしまいたくなった。
おもらしと大地震の関係を疑った者は? 誰もいない。おまえの視界が黄色くなったことは? みんな知らない。とてもそんなこと言えなかった。ただでさえ変な子と思われ、嫌われ、いじめられているのに……。
ただ、子供ら特有の勘で、みんな、どこかおまえの存在に不吉なものを感じていた。まがまがしい気配を嗅ぎ取るようになっていた。
誰かがおまえの体に触れると「わっ、キャッシー菌がついた~っ!」と叫ぶ。「キャッシー菌がついたら、死ぬぞっ!」「ゾンビになるぞっ!」と大騒ぎになる。その菌を次々と児童らは相手にくっつけあって、逃げまわり、エンガチョを切る。まあ、こんなことは日本中のどこの子供たちもやっている、ありきたりのいじめの光景だろうけれど。キャッシー、おまえはますます自分の存在を消して、透明になろうとした。
歳を取ると時間が過ぎるのが速くなるという。子供時代の一年は気が遠くなるほど長いのに、老人の一年はまたたく間に過ぎる。なぜだろう? 人間の体感時間は、時間割る年齢、年齢を分母とする分数で表わされるんじゃないか。十歳の子供にとっての一年が十分の一だとすると、五十歳の大人にとっての一年は五十分の一、つまり、五十歳は十歳の五倍の速度で過ぎる一年を体感している。
キャッシー、十歳のおまえは気が遠くなるほどのろのろと過ぎる時間の中で生きていた。一年が、一か月が、一週間が、そうしてこの一日が、あまりにも長い。まるでアリが這うようにのろのろとしか過ぎない。四年生を終えて、五年生になるには、あとどれほど膨大な時間を要するのか。さらに小学校を卒業して中学生になるには? あとどれだけ毎日、起きて、学校へ行って、いじめられ、仲間はずれにされて、鼻血を流し……つらい時間をすごさなければならないのか。考えただけで、ぞっとする。気が遠くなる。くらくらする。おまえは深く、深く、ため息をついた。
「おしっこキャッシー」「おもらしキャッシー」と相変わらず呼ばれていた。目の前が黄色くなると、鼻血を流した。早く小学校を卒業して、地元とは遠い場所にある中学へと行きたい。おしっこも、おもらしも、何もかも、自分のことをまったく知らない生徒たちばかりの新しい環境へと飛び移りたい。そうしたら、わたしは生まれ変わるんだ。まったく違う新しい自分になる。さよなら、キャッシー。さよなら、いじめられっ子キャッシー。おもらしキャッシー。ようこそ、新しい自分。まっさらなわたし……。
いつも教室の窓から一人、遠い空を見つめながら、ひたすらそんなことを、そう、あてどない空想ばかりを、おまえは思い浮かべていた。
ある日、家でぼんやりとしていた。夕食後、居間で一人きりたたずんでいた。母親はキッチンで洗い物をしていたし、父親は早々と寝室に引っこんだ。おまえはソファに足を乗せ、ちょこんと体育座りして、つけっぱなしのテレビ画面をボーッとながめていた。
ニュースがあった。天気予報があった。CMがめまぐるしく流れる。バラエティー番組が騒がしい。拍手や笑い声が空々しい。お笑い芸人や女性タレントの早口の言葉が頭の上を通り過ぎてゆく。
ああ、わたしとはまったく関係ないな……おまえは、そう思う。テレビという薄い箱の中に小さな人間たちが棲んでいる。リモコンのスイッチを押すと窓が開く。異様なハイテンションで奇声を上げ、小さな人間たちは、ちょこまかと動きまわっていた。おまえは、ため息をつく。
と、その時だった。
音楽が鳴って、パッと画面が変わった。視界が急に明るくなり、空気がふるえ、目の前がひときわまばゆくにぎやかになった。
女の子たちが飛び出してきた。
みんないっせいに唄い、踊っていた。
衣裳がきらきら、ひらひら、ふわふわ、揺れ、光り、輝いていた。
髪をなびかせ、身を躍らせ、はじけるような、笑顔、笑顔、笑顔、笑顔、笑顔、だった。
なんだこれ? なんだこれ?
おまえは衝撃を覚える。目を見開く。胸が高鳴る。顔がほてる。全身がカッと熱くなる。体が小刻みにふるえ、脚ががくがくする。
これまで覚えたことのない奇妙な感情の爆発に襲われていた。
いったい、おまえの中で何が起こっていたんだろう?
おまえの瞳に何が映っていたのか?
わからない。何の変哲もない光景に見える。テレビ番組の一コーナー。平凡な、ごくありきたりな、今までさんざん繰り返され、使い古され、見飽き果てた映像にすぎない。
そうだろ、キャッシー?
おまえがそれを知らなかったはずはない。これまでもそれを見ていただろうし、それについて耳にもしていた——だよね? そうだ、そうだろ、そうに決まっている。
なのに、なぜ、今、この瞬間に限って、なんで、どうして、こんなことが起こるのか?
不思議だね。
ねえ、キャッシー。おまえが生まれるよりずっと前、テレビがこんな薄っぺらい板みたいじゃなくって、そう、お腹のふくらんだ大きな箱みたいだった頃——。おまえと同じように、それを見て、それの光に目を奪われ、それに夢中になって、それに心をとらわれた、無数の幼い女の子らがいた。
彼女らはみんな、決まってテレビの裏側にまわってみては、なんとかその箱の中へ入ろうとした。そう、テレビ画面で今、唄い、踊る、それに自分もなろうとして。
道路が舗装されるより前、石ころだらけの土の道があちこちに走っていたあの頃——。道端に打ち捨てられたビールケースを引っくり返し、その上によちよちと立ち、幼い女の子は、唄い始める。踊り始める。近所のおじさんやおばさんたちの拍手や喝采を身に浴びて。そう、それに、それになるために。日本中にそうした光景があったんだよ。
ああ、キャッシー、今、おまえが目を奪われるそれ、心をとらわれたそれ——には、そんな無数の女の子たちの魂がきざみこまれている。
魂?
夢や、憧れや、ときめきや——言葉にしようとすれば、まるで手垢のついた言葉になってしまう。
見えない人には、何も見えない。
何の変哲もない光景。平凡な、ごくありきたりな、さんざん繰り返され、使い古され、見飽き果てた映像にしか。
でもね、キャッシー。今、幼いおまえの瞳の中では、何かが起こっていた。小さなおまえの胸の内では、何か、ある決定的な何かが。
そう、おまえはそれを知ってしまった。
その日、その瞬間——。
それに気づいて、それに心を奪われ、それに覚醒した。
もう、引き返せない。
その瞬間から、おまえは変わるだろう。
決定的に、運命のように。
おまえにとって、世界は変わるだろう。
ああ、そうだよ、キャッシー。
おまえは、それにめざめてしまったのだ。
……アイドルに!
小学生のおこづかいは、ごくわずかだ。たいしたものは買えない。それでも、おまえはわずかなおこづかいや、お年玉や、家の手伝いをしてもらったお金をこつこつとためる。
何のために?
そう、アイドルの載った雑誌や本、写真集、CDをひそかに買うために。
おまえの部屋の机の一番下の引き出しの中には、アイドル雑誌や写真集、切り抜き、生写真などがたまっている。
それらを取り出して、うっとりとながめたり、アイドルに対する思いを秘密のノートにポエムじみた文章でつづるのが、おまえの至福の時間だ。
そんな瞬間だけ、おまえは息苦しさから逃れられる。透明人間であることをやめる。
ああ、生きている! わたしは本当に生きている!
そう実感できるのだった。
キャッシー、おまえが住んでいるのは地方の街だ。日本中のどこにでもある、典型的ないなか街。
駅前は閑散としている。商店街はさびれている。次々とお店がつぶれてシャッター通りになっている。
人のけはいがない。たまに猫がのんびりと道を横切ったり、鳥たちがペンキのはげたアーケードをくぐりさみしげに鳴いたり、よろよろと老人が歩いていたりするだけだ。
そんな街を学校帰り、ぼんやりと歩いているうちに、ハタと足をとめた。
見慣れない景色だ。ここはどこだろう? おまえは、あたりを見まわす。
木々が生い茂っている。視界がさえぎられている。足もとには草がいっぱい生えている。
おまえは、あてずっぽうに歩き出す。
周囲が暗くなる。人けがまったくない。どんどん森の奥深くへと入ってゆくようだ。
どうしよう。迷ってしまった。泣きそうになる。
おまえはめちゃめちゃに走り出し、ハァハァと息をついた。
背中のランドセルが揺れる。カタカタと音が鳴る。ランドセルの中で転がるハーモニカの音だった。
どれほど駆けたろう? やがておまえは力つき、息を切らして、暗い森の中で立ちつくす。
ふいに目の前が黄色くなった。心臓が早鐘を打つ。
視界が黄色くなって、黄色い森の景色だけが広がっていた。
変な臭いがした。肩には何か触れた。はっと振り返ると、すぐそばに誰かいる。おまえは飛び上がった。
男だった。
ぼさぼさの長い白髪で目が隠れている。薄汚れた作業着を着ている。赤茶けた肌に深いシワが刻まれている。年齢はまったくわからない。
ふいに男が口を開くと、欠けて汚れ、とがった歯が見えた。
ふがふがと何か言っている。しわがれた声だ。よく聞こえない。息が臭い。
おまえはゾッとして、身をすくめる。逃れようとしたが、男は、おまえの肩に置いた手を離さない。
長い白髪が、風になびいて、男の目が見えた。その目は血走ってにごり、なぜか黒目が異様に白っぽく、にぶい光を放っていた。
男はのどを鳴らす。首を絞められた鳩のように。ぐっぐっと。笑っているのだろうか。
つかんだおまえの肩に力をこめ、ぐいっと引き寄せる。
いやっ! とおまえは突き飛ばした。
男はよろめく。顔色が変わった。肌が真っ青になって、冷たい怒りの炎が背後に見えるようだ。ざんばら髪のすきまから覗くその目が、吊り上がって、ぎらぎらと不気味に光っている。
おまえはダッと駆け出した。必死で逃げる。逃げまどう。無我夢中で走り続ける。腕や脚がいばらで傷ついた。つまずき、転びそうになるが、体勢を立て直し、さらに走る、逃げる、走る。背後で足音がする。ひたひたと近づいてくる。枯葉を踏むその音が。
わっと飛びかかってきて、おまえは男に抱きすくめられる。いやいやをするように、首を振り、もがき、逃れようとする。ダメだ。男はがっちりとおまえをとらえ、離さない。抱き締める。強く、強く。ものすごい力で。
「いやっ! いやーっ!!」
おまえは叫ぶ。悲鳴を上げる。
森の中に幼い女の子の声がこだまする。
おまえの声はかすれ、弱まり、遠のき、やがて途絶えた。
嫌な臭いがする。不潔な音がする。男がのどを鳴らしている。汚れてとがった歯と、風になびくぼさぼさの白髪と、ぎらぎらと光る白い目が、まぢかに見える。
キャッシー、おまえは身をふるわせる。鳥肌を立てる。急速に体じゅうの力が失われてゆく。
男は、おまえの首に汚れた手をかけ、ぎゅっと、ぎゅうっと絞める。絞める。絞め続ける。
いやだ。苦しい。気が遠くなる。
目の前が真っ黄色になった。
突然、耳が痛くなった。
痛い。痛い。鼓膜が破れそうだ。
あたりを切り裂く鋭い音が鳴り響いた。
何だ? 何だ?
汚れた手がゆるむ。
男は顔をしかめる。びくっとして、けげんそうに周囲を見まわす。
森を切り裂く、超音波のようなかん高いこだま……口笛だった。
おまえは口笛を吹いていたのだ。そう、キャッシー、自分でも知らないうちに。
鋭い口笛のこだまは、目の前の黄色い世界を切り裂く。ざっくりと森が裂けてゆく。
あたりでかさこそと音がする。
なんだろう?
むっとする異様な臭気……男の臭いではない。もっと、泥臭い、もっと、汗じみた、もっと、野蛮な……もっと、もっと、血の気の混じった……むらむらとする気配が、あたり一面に漂っていた。
口笛がやむと、その音が聞こえた。
周囲の草や枯葉を踏むかさこそという音のはざまから、低い、腹に響く、地鳴りのような、ぐるぐるという、うなり。
ひっ! と男は目を見開いた。まわりを見まわした。
いくつもの動く影……。
けものだった。ぐるりと周囲を何匹ものけものたちに取り囲まれている。
それは……。
犬だ。首輪もなく、薄汚れた全身の毛を逆立たせ、目は血走り、牙をむき出し、口に泡をためて、ぐるぐる、ぐるぐると不気味なうなり声を発している。
兇暴な、獰猛な、野生の犬ども。
犬たちの全身から青い怒りの炎が蒸気のように浮き上がって見える。
男がおまえの首から手を離した。
もぐもぐと何かつぶやき、ひるんで一歩、あとずさりしたその時だ。
野良犬たちは、わっと男に飛びかかった。
ある犬は男の足首に嚙みつき、ある犬は前肢でしがみついて、ある犬はうしろから体当たりを食らわせ、さらにある犬は男のふとももをがぶりと嚙み、またある犬は睾丸に食らいつく。
ぐげっと男はのどを鳴らして、あおむけに倒れた。
犬たちはいっせいに男の体に群がった。
男は目をむき、悲鳴を上げ、手足をばたつかせた。無駄な抵抗だ。無数の犬どもは、吠え、うなり、男の全身に食らいつき、舌なめずりして、がぶがぶと嚙み砕く。
男の絶叫が森にとどろいた。
おまえは立ちつくしている。呆然として、ただその様を見つめている。
黄色い視界の向こう側で、何かとてつもなく恐ろしいことが起こっている。
なぜか犬どもは、おまえにはまったく近づいてこない。そうして、おまえもまた、犬どもにまったく恐怖を感じていない。
どれほど時がたったろう。
必死でもがいていた男の体は、やがてもう動かなくなった。ぐったりと地面に身を横たえて、ぴくりともしない。嚙み飽きたのか、犬たちも静かになった。ただ、まわりを取り囲んでいるだけだ。
ゆっくりと目の前の黄色が消えてゆく。
真っ赤だった。
赤い、赤い、赤い……血まみれで全身、真っ赤な男が地面に倒れているその姿が、目に飛びこんできた。
気がつくと、おまえは寝ている。
ベッドの中だ。自分の部屋だった。どうやって帰ってきたのだろう。
あれは本当に起こったことなのか?
おまえは、自分の首に手をやる。たしかに男に首を絞められた時の痕、痛みの感覚が残っている。
衣服は土や枯葉で汚れている。手や腕、脚にはいくつもいばらの傷がある。
ああ、やはり……やっぱり、あれは……。
おまえは身をふるわせ、ふとんをかぶって、ベッドの中へともぐりこんだ。
家の近所にこぢんまりとした公園がある。三角の形をした土地なので、三角公園と呼んでいた。おまえは時折、その公園でぼんやりしている。
一人、ぶらんこに乗ったり、シーソーに腰掛けたり、砂場にたたずんだり、ジャングルジムに登って、ただ夕陽を見つめていたり。
制服がなんだか似合わない。おまえは地元の公立中学に進学していた。誰も知らない遠い場所の中学へ行く——そんな願いは叶わなかった。ローティーンのおまえは、まったく無力だ。
中学では、地元のいくつかの小学校の卒業生らが合流した。他の小学校から進学した子供たちも、すぐにおまえを避けた。
おまえは十二歳にして負のオーラをまとっていた。そう、いつも一人ぼっちだ。
今では、もう一人であることにも慣れっこになっている。透明人間になってからの歴史も長い。“ベテランの透明人間”——そんなフレーズが頭に浮かんで、くすっと笑う。その笑いがゆがんで、変な顔になった。
でもね、学校と家とのはざま、この三角公園にいる時だけ、おまえは心が晴れる。少しだけどね。そう、透明人間が姿を見せる。ここでは、自分が自分らしくいられる、そんな気がした。
ああ、この世のどこかに自分の場所がある、きっと、自分だけの居場所がある——この公園は、そこへと通じているんじゃないか?
そんなことを思った。一人ぼっちでぶらんこに腰掛けながら。
もう、鼻血も出ない。目の前が黄色くなることもなくなっている。小学生時代のあの不思議な体験は、いったい何だったんだろう。
はるか昔、どこか遠いところでの出来事のようだった。
公園には誰もいない。しんとしている。
ふいに、ぶらんこが揺れた。
風もないのに。おまえが揺らしたわけでもないのに。ぶらんこは揺れる。
ゆらゆら、揺れる。強く、揺れる。
やがて激しく、揺れる。揺れ続ける。
不思議だ。
顔を上げると、人影が見えた。
公園の入口あたりに、ぽつんと立っている。
制服姿の少年だ。
目を凝らすと、すらりとして、色白で、小さな顔が見える。長いまつ毛と、切れ長の瞳が、美しい。夕陽に照らされ、髪が金色にきらめいていた。
少年はどこか遠くを見ているようだ。
顔を上げ、夕焼け空を見つめている。
おまえは、ぶらんこを降りる。そうして、立ちつくしていた。
胸が高鳴った。急に頰が熱くなった。
おまえは、もう少年から目が離せない。
なんだ、なんだ、この奇妙な感情は? 突如、あふれる想いが抑えきれなくなり、うつむいた。ただ、もじもじとして、くちびるを嚙む。
やっと顔を上げた。そうして、また少年のほうを見る。
思いきって、かかとを上げた。なぜか、つま先立ちをしたのだ。
その瞬間だった。
少年の髪が揺れた。不思議だね、風はやんでいるのに。
おまえの頭の中、脳の奥にある芯のようなところから、何か〈ちから〉が“押し”出され、矢のように飛んでいったみたいだ。
きらめく少年の髪は、さらさら、さらさらと揺れていた。
髪をなびかせ少年は、夕焼け空を見つめて、うっすらと笑う。とても気持ちよさそうに。
おまえはかかとを上げ、つま先立ちのまま、その姿にじっと見惚れていた。
そう、赤い夕陽に照らされて。
その夜のことだった。
バスルームでシャワーを浴びていた。
ふいにめまいがして、脳の奥にある芯のようなところが、きりきりと痛んだ。そうして胸が高鳴る。頰が熱くなる。息が荒くなる。
少年の姿が見える。
夕暮れの公園に立ちつくして、髪をさらさらとなびかせていた、あの男の子。
おまえは異様な胸の高鳴りに、荒い呼吸を繰り返した。
違和感を覚える。下腹部が痛い。股間に手をやると、何かが触れた。べったりとした、何かが。
手のひらを見て、はっとする。
真っ黄色だ。
手のひらが黄色い。
見下ろすと、バスルームのフロアに黄色が広がっていた。黄色い液体があふれていた。
おしっこじゃない。べったりとしている。まるで、それは……黄色い血だ。あふれ出した真っ黄色な血液のよう。
黄色い、黄色い、黄色い。
目の前が黄色い。
ああ、世界全体が真っ黄色だ。
黄色い視界が揺れている。ガタガタと激しく揺れ動いている。
地震?
いや、そうじゃない。
自分の体がふるえているんだ。
すーっと血の気が引くように、熱がさめると、目の前の黄色は消えていた。
バスルームにおまえは立ちつくしている。
股間から赤い血を流しながら。
おまえはベッドの中へともぐりこみ、ふとんをかぶって、ふるえていた。
嫌な予感がした。
何か起こる。何か……何か、恐ろしいことが、起こるんじゃないか?
今夜、自分の身に起きたことの意味を、おまえは知っている。ちゃんとわかっている。
初潮だ。
はじめて生理の血を見た。
しかし……。
黄色い血だった。なぜか、黄色く見えたのだ。
やがて、それは赤い色に変わっていったけれど。
横断歩道が黄色く見える。突如、視界が真っ黄色になる。次の瞬間、暴走車が突っこんできて、目の前の女の子をはねた。視界の黄色が消えると、路上に倒れた女の子の流れる血が……真っ赤に見えた。
教室全体が黄色い。おまえはふるえて、おしっこをもらす。クラス中が大騒ぎになる。突然、揺れた。大揺れした。大地震だ。目の前の黄色が消えると、被災地で燃えさかる大火災の……真っ赤な炎が揺れていた。
森が黄色い。迷子になったおまえは、黄色い森の中をさまよい歩く。ふいに現れた男につかまり、首を絞められる。苦しい。気が遠くなる。かん高い口笛。けものたち。男に襲いかかる犬どもの群れ。視界の黄色が消えると、全身血まみれで……真っ赤な男が倒れていた。
幼い日からのそんな光景が、おまえの脳裏によみがえる。次から次へと浮かび上がってくる。
黄色、赤、黄色、赤、黄色、赤……。
目の前が黄色くなると、鼻血を出した。
おまえが黄色い世界を見ると、真っ赤な血が流れる。
信号機の黄色い灯りの後に、きまって赤いランプがともるように。
キャッシー、おまえは黄色い信号機だ。
注意! 注意! 注意!
世界全体におまえはそう告げる。
真っ赤な血が流れる前に、警告を発する。
ああ、これから毎月、あんな黄色い血を見るんだろうか?
真っ赤な血が、この世界に流れるのを、予告するように。
何か……何か、恐ろしいことが……本当に恐ろしいことが、起こる。きっと、起こる。必ず、起こる。
ある日、世界全体が黄色くなって、そうして、やがて……真っ赤になる。
そんな光景が目に浮かぶ。
くっきりと、はっきりと。
傷ついた幼いけもののように、キャッシー、おまえは、ただ……ただ、ふるえていた。
中学三年生になって、クラス替えがあった。キャッシー、おまえはA組に入る。このクラスにはきわだった特徴があったのだ。
「ねーねー、A組ってすごくない?」
「あ~、やっぱり気づいた?」
「気づくっしょ~、そりゃ誰だって」
「ねっ、こんだけかわいい娘がそろってたらさ……」
そう、なぜかA組には、かわいい女の子が集中していたのだ。それまでばらばらだった各クラスのトップ美少女らが一堂に集められたかのよう。とりわけ、かわいい女の子の中でも特にかわいい、トップ中のトップの五人はずばぬけている。
神ファイブと呼ばれていた。五人はいつもかたまって行動した。一人でさえ目立つのに、とびきりの美少女が五人も一緒にいるから、目立たないわけがない。神ファイブが学校の廊下を歩くと、生徒らはサッと身をよけ、花道を作った。男子らはみなポーッと見つめるのみ。女子たちはたじたじしている。自分たちとはまるで身分が違う、高貴な者でもあがめるように。そんな周囲をまったく無視して、神ファイブは廊下の花道を我がもの顔で闊歩してゆく。
月子がリーダーだった。長い黒髪と透けるような白い肌、切れ長の目、くっきりと整った顔立ち、すらりとしたスタイル……まったく非の打ちどころがない。完璧な美少女だ。月子というのは本名ではない。月子に続いて、火子、水子、木子、金子と、五人は曜日のあだ名で呼ばれていた。すると、土・日は? 休日ということか? それとも、いつか土子、日子が現れて、神セブンになるのだろうか?
月子を中心に、お姫様ふうの火子、セクシーな水子、ボーイッシュな木子、ギャル系の金子が取り囲む。キャラも雰囲気も違うのに、五人がそろうと不思議な統一感があった。そう、美しい——という自信に支えられた強固な一体感。
A組の担任はヌーボーだった。いつもヌボーッとした表情のさえない中年の男性教師だ。四十歳を過ぎてるのにいまだ独身とか。常に寝グセの髪で、フケを落とし、ぶしょうひげ面で、腹が出て、シャツがはみ出し、だらしない格好をしている。生徒らに「ヌーボー、ヌーボー」とバカにされていた。
不良っぽい男子から、ガリ勉、スポーツマン、オタク系までクラスメートはばらばらだ。とてもヌーボーには仕切れない。学級崩壊にならないのは、なぜだろう? ホームルームでツッパリ男子が騒ぎ出す。ヌーボーはおろおろするばかりだ。その時、月子が立ち上がる。騒ぐ男子を、じっとにらみすえる。恐ろしく冷たい目で。「ひっ」とおびえきった顔でツッパリ男子は静かになった。
誰も神ファイブには逆らえない。ことにリーダーの月子には。かつて月子に言い寄って、彼女に抱きついた先輩男子がいたという。翌日から彼は学校へ来なくなった。月子に「消された」ともっぱらの噂だった。
月子はめったに笑わない。でも、時折、微笑みを見せると、それはもうとびきりの輝きだった。彼女に見つめられ、ヌーボーは顔が真っ赤になる。担任は月子の言いなりだ。ツッパリも、ガリ勉も、スポーツマンも、オタクも……彼女の微笑み一つで完全に支配された。
「キャッシー」
ある日、おまえは声をかけられる。飛び上がった。月子だった。
「ちょっと、いい?」
昼休み、給食を終えた後のこと。教室から連れ出されたのだ。他の神ファイブのメンバーも一緒だった。
ど、どうして、わたしが……おまえはとまどい、脚がふるえる。彼女たちと話したことなんて一度もない。学校でトップの美少女たちと、サエない自分が一緒に歩いている。スクールカーストの頂点と最底辺が……明らかに変だ。すれ違う生徒たちが、みんな、ぽかんとした顔でこちらを見ている。
おまえは赤面する。うつむく。視線が痛い。逃げ出したい。でも、逃げられない。まわりを神ファイブのメンバーらに取り囲まれていた。目の前には陶器のように白い、すらりとした月子の細い脚がはつらつと動くのが見える。
南校舎のはずれ、音楽室の向こう側にその部屋はあった。扉を開けると、しんとしている。窓から陽の光が射していた。何かの準備室だろうか? こぢんまりとしている。壁ぎわの棚には機材が置かれ、流しもあった。中央には白いテーブルが一つ、椅子が取り囲む。月子と仲間たちは、それぞれの席に着いた。
おまえは一人、部屋の隅で立ちつくしている。月子がアゴで示すと、火子が立ち上がって、丸板のパイプ椅子を奥から取り出して置いた。うながされ、おまえは座る。月子の隣の席だ。みんな無言のままだった。
しばらくそうしていた。
水子が流しに立ち、電熱器でお湯を沸かす。ティーカップに紅茶が淹れられた。五つしかない。五人の美少女らが優雅に紅茶を飲む。おまえはうつむき、ひざをつかんで、おしだまっていた。音楽室からかすかにピアノの音が聴こえる。
「つまんないの」
ふいに月子がつぶやいた。おまえはハッと顔を上げる。四人の美少女らは、月子の言葉に静かにうなずいていた。
「あ~あ、ホント、学校ってつまんない」
それが合図のように女の子たちは、さえずり始める。そう、小鳥みたいに。人間の会話とは聞こえない。
〈学校って〉〈ヌーボーが〉〈キモい男子〉〈今の一年は〉〈進路相談の〉〈ブスばっかりで〉〈親、うざい〉〈吐きそう〉〈地元つながりの〉〈昨日、電車で〉〈他校の女子が〉〈制服とか〉〈それ、ださいって〉〈部活とか〉〈男子高の学祭に〉〈めちゃ、あがる〉〈オタクとか〉〈今度、ネイルを〉〈ファッション誌に〉〈新しいブランドの〉〈死ねばいい〉〈そう、みんなみんな〉〈死ねばいい〉〈死ね〉〈死ね〉〈死ね〉〈死ね〉〈ふざけんな〉……。
言葉の断片が耳に飛びこんでくる。キャッシー、おまえは理解できない。彼女らがいったい何を言ってるのか。世界が違いすぎる。あまりにも。
ただ、こうは思う。彼女らはひどく退屈しているのだ。それで自分たちだけになると、自分たちだけに通じる言葉で、さえずり合う。クラスメートには見せない顔、その腹の内、あからさまにどす黒い少女たちの本音が、そこには渦巻いていた。
すると自分は何だ? どうして、わたしはここにいるのか? おまえは不思議に思う。無理矢理、連れてこられたのに、まったく相手にされていない。どういうつもりか。わたしは何だ? わたしは何だ?
その日から、おまえは神ファイブの仲間に加えられる。仲間? いや、それは正確じゃない。だって、おまえが加わったって、誰も神シックスなんて呼ばないから。絶対に。とびきりの美少女たちの中に、一人だけサエない女の子が混じっている。明らかにミスキャストだ。
最初はまわりも奇異の目で見ていた。なんでキャッシーが神ファイブといるわけ? クラスのオミソが美少女集団と一緒に? 変なの。そんな声が聞こえたものだ。だが、いつしかそれも見慣れた光景になってゆく。
学校帰り、おまえは月子のカバンを持たされる。自分のカバンと一緒に両手にカバンを持たされ、ふらふらとついてゆく。すぐに火子が、水子が、さらには木子も、金子までもが、カバンを押しつけ、おまえは持ちきれず、よろよろと道端にへたりこんだ。
ファーストフード店に入ると「キャッシー、買ってきて」と五人分の注文を言いつけられ、レジへと走る。トレイに五人分の飲み物を載せてテーブルへと運ぶ。お金は全部、おまえが払わされる。おまえは何も注文せず、神ファイブの脇でおしだまっている。五人の美少女たちは、お礼も言わない。おまえのことなど完全無視して、ただドリンクを飲み、楽しそうにさえずりあっている。
ひどい。あんまりだ。もう一緒にいたくない。望んで仲間に入ったわけじゃない。仲間? 違う。召使だ。いや、使いっぱだ。いやいや、奴隷なんだ、わたしは。あの美しい女の子たちの。表面だけはとびきりきれいで、内部にはどす黒いものが渦巻いている、ひたすら退屈している、退屈しきっている邪悪な美少女たちの。
今日こそ拒否しよう。もう一緒にいるのはやめよう。絶対に。朝、学校へ行く時におまえはそう決心する。だが、教室へ入って、月子と目を合わすと、もうダメだ。身がすくむ。脚がふるえる。金縛りにあったようになる。まったく逆らえない。抵抗できない。ヘビににらまれたカエルみたいに。完全に言いなりだ。
おまえの奴隷生活は続く。昼休み、神ファイブは日課のように例の小部屋へとこもる。サロン——と彼女らはその部屋を呼んでいた。秘密のサロンでのお茶会。光、降るサロンで、少女たちは紅茶を飲み、楽しそうにさえずりあう。その姿は美しい。言葉さえ耳にしなければ。おまえ一人が美しくない。さえずらない。紅茶も飲まない。おまえに用意されるサロンのティーカップなどない。
ある日、サロンには五足の靴が並べられていた。神ファイブの通学靴だ。おまえはそれをみがかされる。「キャッシー、靴みがきの道具を持ってこいよ」と言われたのだ。家から持ち出したブラシをかけ、クリームを塗り、布で拭く。自分のものではない靴を、一足一足、丹念に、丁寧に。ひたすらみがく。みがき続ける。
明るい陽の射しこむ午後のサロンで、美少女たちは紅茶を飲み、優雅に、楽しげにさえずりあう。そのかたわらで、おまえはひざまずいて靴をみがく。懸命に。汗だくで。なんだか童話の灰かぶり姫になったみたいだ。魔女も王子様も現れない、カボチャの馬車も走らない、決してお姫様にも変身しない。そう、永遠にみじめなままのシンデレラに。
「このほうがみがきやすいだろ?」
月子が通学靴をはいて、座り、片足をさし出す。えっ? とおまえは、とまどう。が、ダメだ。月子の恐ろしい目ににらまれている。ああ、無駄な抵抗だ。おまえは、ひざまずく。さし出された片足を手に取り、月子の靴をみがき始める。薄笑いを浮かべ、月子はおまえを見下ろしている。
ふいに衝撃が走った。目から火花が散った。月子がおまえの顔面を蹴ったのだ。おまえは後方に倒れる。鼻血がだらだらと出ていた。
「あ~あ、きったね~。キャッシー、ちゃんとみがけっつーの」
放り投げられたティッシュで鼻血を拭いた。なんとかよろよろと起き上がり、再び、月子の前にひざまずく。手に持ったブラシが蹴飛ばされて、飛んだ。
「なめろ」
えっ?
「あたしの靴をなめろ」
頭の中が真っ白になった。じわ~んと涙で目の前がぼやけた。ゆがんだ視界に月子の邪悪な冷笑が見える。おまえは観念したように足を手に取る。顔を近づける。靴の底をペロペロとなめ始めた。苦い、ざらっとした、独特の舌の感触。革の味? いや、違う。
屈辱の味だった。
ふふふ、と月子は笑う。ははは、あはは、と火子も水子も笑う。うふふ、と木子が忍び笑い、はっはっはっ、と金子があざ笑う。午後の光のサロンは少女たちの笑い声に満たされた。
キャッシー、おまえは靴をなめ続ける。美しい女の子の前にひざまずき、舌を出してペロペロと。涙と、みじめさと、これまで味わったことのない屈辱にまみれながら。
「つまんないの」
月子のつぶやきに、びくっと反応する。
また、ある日の午後のサロンだった。それが何か不吉な思いつき、邪悪な遊びにつながらなければいいがと、おまえは、びくびくはらはらする。息がつまり、心臓が躍り出す。
月子はスマートフォンを取り出すと、モニターをタッチする。軽やかな音楽が流れた。おまえのはじめて聴く曲だ。外国人の女性ボーカルが唄っている。おまえの好きなアイドルの曲とは全然違った。午後のサロンは光と音楽に満たされる。月子はうっすらと目を閉じ、気持ちよさそうにハミングしている。他の四人の女の子らはリズムに合わせて体を揺らしていた。
きれいだな、と思う。女の子たちも、目の前の光景も、とても美しい。おまえは素直にそう感じる。だけど……。どこか違う。まるで違う。五人の美少女たちは、おまえが好きなアイドルとは、まったく違う。なぜだろう?
そう、アイドルは、きれいなだけじゃダメなんだ。おまえは、そう気づく。目の前の女の子らは、たしかにきれいだ。かわいい。とびきりの美少女たちだ。けれど……。アイドルじゃない。絶対に。アイドルが持っている何か、アイドルだけに不可欠なある何かが、彼女らには決定的に欠けている。おまえは、そう確信する。
月子の目がパッと開いた。
「踊れよ」
えっ?
「踊れよ、キャッシー」
おまえは呆然とする。どうしたらいいか、わからない。うつむいて、ただ力なく首を振る。
「踊れったら、踊れ!」
飛び上がった。ドスの利いた恐ろしい声。今まで聞いたこともない脅迫的な。月子は鬼のような形相をしていた。めらめらと怒りで燃え上がるその瞳ににらみつけられ、おまえはふるえあがる。恐い。痛い。焼きつくされる、とおまえは思った。
音楽に合わせて、体を揺らした。ふらふらと。よろよろと。わなわなと。
「もっと、ちゃんと踊れったら!」
おまえは飛び上がり、ふるえあがり、体の揺れを激しくした。ふらふら、よろよろ、わなわな、ふらふら、よろよろ、わなわな、と急速に。まるで老人が発作でも起こしたみたいだ。
「なんだ、これ?」
「ぷっ、へっぽこダンス」
「タコ踊り」
「踊ったことないんじゃん、キャッシー」
「キモッ、キモすぎっ」
女の子らは、げらげらと笑った。カッと頰が熱くなった。おまえは恥ずかしさとみじめさにまみれながら、体を揺らす。奇妙なダンスを踊り続けた。午後の光のサロンには、心地よい音楽と、外国人の女性ボーカルと、女の子らのあざ笑う声が混じり合って、こだましていた。
「脱げよ」
ぱたっと動きを止める。はあ? おまえは、ぽかんとする。意味がわからない。何、それ? 月子はいったい何を言ってるんだろう?
「脱げったら、脱げよ、キャッシー!」
おまえは、また飛び上がる。ふるえあがる。だけど……。何もできない。体がまったく動かない。頭の中がからっぽだ。
ちっ、と舌打ちして月子はアゴを動かす。リーダーの無言の指示で、配下の女の子らは、わっとおまえに群がった。
必死でもがく、じたばたと手足を振りまわす。だが、ダメだ。多勢に無勢だ。あっという間にブレザーと、リボンと、ブラウスがむしり取られ、スカートが脱がされ、スリップがむかれ、おまえはブラとパンツ姿になった。
「だっせー下着」
月子が吐き捨てると、女の子らの哄笑がはじけた。無地の白いブラとパンツ。今どき、こんなの誰もはいていない。近所の洋品店で母に買ってもらったものだ。体育の授業の着替えの時、更衣室の片隅で、おまえは下着を隠すようにこそこそと着替える。
「昭和かっ?」
おまえのださい白いパンツを指さして、月子は笑った。おまえは恥ずかしさで真っ赤になって、しゃがみこんだ。音楽が消えている。月子はスマホを操作して、また新しい曲が流れた。
「踊れよ、キャッシー」
おまえは立ち上がれない。しゃがみこんだままだ。
「踊れったら、踊れ!」
しゃがみこんで、うつむき、ぶるぶるとふるえている。月子がさらに鬼の顔になった。火子と水子がおまえの両腕をつかむ。木子が腰を持ち上げ、無理矢理に立ち上がらせた。金子がロッカーから何か取り出す。おまえのそばに立った。
びゅん、と音が鳴った。衝撃が走る。おまえはうめき声を上げる。ムチだった。金子が振るうムチが、裸のおまえを打ったのだ。二発、三発とムチ打たれ、そのつどおまえはうめき、叫び、身をそらせる。裸の体に赤いみみず腫れが走った。何本も、何本も。激痛で頭がくらくらする。
金子以外の四人は椅子に座って、その様を見ていた。薄笑いを浮かべて。いつ果てるとも知らぬムチ打ちショーを。ムチの鳴る音、おまえのうめき声、スマホから流れるポピュラーミュージック、それらが一つになってリズムを作っている。甘美で残酷なライブ・セッションだ。
昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。誰も立ち上がらない。光降る午後のサロンには、ムチの音が鳴り続ける。月子の指示で、水子がスマホでムチ打ちショーの光景を動画に撮った。
「ねえ、キャッシー、このことは誰にも言うなよ。絶対に。ばらしたら、どうなるか、わかってるな? この動画をネットにばらまいてやる。ふふふ、ふふふ」
激痛で失神しそうになりながら、おまえは月子の冷酷な言葉を聞く。感覚がマヒする。音楽が痛い。鼻の奥がツンとする。陽の光がまぶしい。目を閉じる。びゅん、とひときわ痛烈な一撃を食らって、まぶたの裏側に閃光が走り、おまえはおしっこをもらした。
もう限界だ。おまえは追いつめられる。恥ずかしさと屈辱とムチの激痛で、死にそうだ。みみず腫れの走る裸を、誰にも見せられない。その夜、おまえはお風呂に入って、傷だらけの肌にお湯が浸みる激痛にもだえ苦しんだ。まぶたの裏で火花が散った。
どうしよう? 誰にも相談できない。友達はいない。親にはこんな話、打ち明けられない。担任は? ダメだ。ヌーボーだ。先生も、クラスメートも、みんな、月子と神ファイブに支配されている。ああ、学校へ行きたくない!
学校へ行ったら、おしまいだ。あの恐ろしい女の子たちから逃げられない。月子ににらまれたら、それまでだ。拒否できない。どうしても。いったい、どこまでエスカレートするんだろう? あの午後のサロンでのイジメ……いや、虐待は。想像しただけで、背筋が寒くなる。
小学生の頃からイジメられていた。クラスの仲間はずれだった。オミソだった。友達がいなかった。さんざん悪口を言われ、陰口をたたかれた。さまざまな嫌がらせを受けた。だけど……。今から思えば、生ぬるかった、あんなのは。
小学生時代のイジメには、主体がなかった。悪意の顔が見えなかった。なんとなく、みんながみんなで、おまえを仲間はずれにした。けれど……。
今、イジメの主体が現れた。悪意の顔が正体を見せた。はっきりと。月子だ。神ファイブだ。なんということだろう。おまえをイジメ、苦しめ、はずかしめ、いたぶりぬく、どす黒い悪意の正体は、とびきり美しい少女たちの顔をしていた。
朝、目が覚めると、憂鬱で、体中のみみず腫れの痕が痛い。心も痛い。お腹も痛い。なんとか起き上がって、家族と朝食をとって、浮かない顔で家を出る。学校へ向かう。その途中、ふいに足がすくんだ。道端にしゃがみこむ。ダメだ。嫌だ、嫌だ。とても学校へなんか行けない。絶対に。昼休みが恐い。あの光のサロンでの虐待が耐えられない。考えるだけでゾッとする。鳥肌が立つ。吐き気がする。実際、おまえはオエーッと道端に吐いてしまった。
学校へは行けないし、家にも帰れない。かくまってくれる友達も親切な大人もいない。わかったかい? キャッシー、そうだよ、この世界におまえの居場所なんてないんだ。真っ青な顔をして、汗をだらだらかいて、ふらふらになって、歩く。ひたすら歩く。どこまでもどこまでも歩き続ける。ああ、キャッシー、十四歳のおまえはその日、はじめて知ったんだよ。そう、「絶望」という感情を——。
結局、近所の三角公園のベンチに疲れ果てて座り、人目を気にしてトイレへと入った。トイレの個室にずっと閉じこもる。おまえは何をしていたのか? 思い出せない。まったく何も。するりと記憶が抜け落ちている。便座に腰掛け、放心状態で、何時間もそうしていた。たまにノックが鳴ると、ノックを返した。無意識に。やっとトイレを出ると、もう陽が暮れていた。
帰宅すると、玄関に見慣れない靴がある。リビングで母親が誰かと話していた。
ヌーボーだった。
「莉奈、あなたいったい、どこへ行ってたの? 先生が心配して、わざわざこうやっていらっしゃって……」
足もとが崩れる。さーっと血の気が失せて、顔が真っ青になる。おまえは力なくふらふらとリビングのソファーに腰掛ける。
「莉奈……莉奈……どうしたの?」
「木屋橋、大丈夫か?」
おまえはうつむいて、じっとしていたが、やがてぽつりぽつりとつぶやいた。
「うん……ちょっと気分が悪くなって……公園のベンチで……休んでたの……あっ、もう大丈夫……よ、よくなった……から……ほんと……だ、大丈夫……」
そう言うと、おまえは立ち上がって、自分の部屋へと閉じこもった。その後、ヌーボーと母親はどんな話をしたんだろう? 夜、父親が帰宅すると、ノックして、おまえの部屋に声をかけた。だが、おまえは何もこたえない。ベッドの中で身をふるわせ、ただ、じっとしていた。
翌朝、キッチンへ行くと、父親は新聞を読んでいた。
「ん? 莉奈、なんだ? あのな、何かあったら、お父さんに相談を……うーん、まあな、いろいろあると思うけど……ねっ、いいね?」
やさしいんだか、無関心なんだか、わからない。いつもの調子で、新聞を開いたまま、そう言った。
「あ、はい」
あいまいにつぶやくと、朝食をとる。母親は無言で食器を洗っていた。
何ごともなかったかのように、おまえは制服に着替えて、家を出る。学校へ向かう。が、ふいにぶるぶるっと身がふるえた。足が止まった。もう、まったく動かない。ああ、昨日と同じ場所だ。悪寒がした。下腹部に痛みを覚え、しゃがみこむ。あの嫌な感じが、またよみがえってきた。鉛のように頭が重い。ムカムカきて、吐きそうになった。が、なんとかこらえた。
ふらふらと立ち上がると、おまえはまた昨日と同じ三角公園へと向かう。ベンチに座って、しばらく休んだ。平日の午前中の空気がちくちくと肌を刺す。時間がゆっくりと過ぎてゆく。それからトイレへと入った。昨日と同じ個室だ。そこに、じっと閉じこもった。
便座に腰掛けて、おまえはうつむく。
……どうしよう。学校へなんか行かない。行けない。恐ろしい。家へ帰ることもできない。母親がいる。ああ、ああ……どうしよう、どうしよう? 本当だ。この世に自分の居場所なんてないんだ。どこにもないんだ。おまえは、ひたすら絶望する——。
ああ、わたし……わたし、もう……ダメだっ!
気がつくと、カバンを開け、取り出していた。筆箱から、そう、カッターナイフを。刃をカチカチと出して、先端を見る。じっと見つめる。ぎらりと光って鋭くとがっていた。鳥肌が立った。息を飲む。鼓動が高鳴る。おまえはカッターの柄を握り締め、刃先を左手首にあてる。ひんやりとした。
やれ。やってしまえ。思いきって。そうすれば、終わる。すぐに終わる。一瞬だ。この苦しみから解放される。永遠に。おまえはもう悩むことも苦しむこともない。絶対に。死んだら……死んだら……イジメられない。もう、誰にもイジメられない。
えいやっ、と力をこめてカッターナイフを引いた。左手首に赤い一線が浮かび、ぶわっと広がり、血が噴き出した。猛烈な痛みに襲われる。血管の鼓動が聞こえる。ずきずき、どくどく、ふらふらとして、あたりが鮮血に染まる。目の前が……もう……真っ赤だ。赤は濃度を増して、ダークレッドに変わり、やがてどす黒い闇があたりを包みこんだ。
ああ……死んだ……もう、わたしは……死んだ……死んだんだ……。
意識が遠のく。はるかな闇の中へ。果てしない暗黒へと、飲みこまれてゆく。
と、その時だった。闇に一条の光が射しこむ。まばゆいばかりの光が、あたりをおおう。光のかなたから声が聞こえてきた。
〈キャッシー……キャッシー……キャッシー……〉
えっ?
〈オマエハ……ナンノタメニ……ウマレテキタノカ……〉
はっ?
〈ソウ……コノ……チジョウニ……〉
何?
〈オマエニハ……シメイガ……アル……〉
シメイ?
〈オマエニハ……トクベツノ……チカラガ……〉
あなたは……あなたは、いったい誰なんですか?
〈アア……ソウ……ワタシハ……〉
突然、目の前が黄色くなる。黄色い渦巻きに飲みこまれ、もみくちゃにされ、やがてパッと視界が開けた。キャッシー、おまえは目を覚ます。
トイレの個室にいた。
目の前に何か見える。
アイドル雑誌だ。
おまえは目を丸くする。
アイドル雑誌が宙に浮いていたのだ!
通学カバンが開いて、勝手に中から飛び出し、ふわふわと宙に浮かんでいた。
なんということだろう。まだ、自分は夢を見ているのだろうか? おまえは、目をこする。
大好きなアイドルたちの雑誌。いつもカバンに忍ばせて、誰も見ていない時、こっそり取り出す。ひそかにページをめくって、アイドルたちの笑顔を見つめ、うっとりとして、にんまり笑う。それが、おまえの救いだった。
つらい時、落ちこんだ時、苦しいことがいっぱいあった時、もうダメだ、もう限界だ……と、生きているのが嫌になった時、何度も、何度もおまえを救った。
そんなアイドル雑誌が目の前に浮かんでいる。透明な誰かの手がそうするように、ページがぱらぱらとめくられ、ぴたりと止まった。おまえの大好きなアイドルグループのグラビアページだ。
女の子たちが、飛びはねている。はじけるような笑顔・笑顔・笑顔……。若さが躍動する。しなやかに、可憐で、はつらつとして、自由に。きらびやかな衣裳に身を包んで。まぶしい。それは特別な輝きだ。そうだね、キャッシー、おまえはいつもその光を、その輝きだけを、じっと見つめていたんだね。一人ぼっちで暗闇に身をひそめながら。
ああ、吸い寄せられてゆく。光に。ぐんぐんと近づいてゆく。輝きの中へと。いつしか身を宙に躍らせ、まばゆい光の中へとおまえは飛びこんでいた。
ここは、どこだ? まぶしい。まぶしすぎる。光の中心か? 目がつぶれそうだ。きらめくものが、ごくそばにある。いくつも、いくつも、浮かんでいる。目が慣れると、やがて焦点を結ぶ。はっきりと見えた。大好きなアイドルたちの笑顔だった。みんな笑っている。唄っている。踊っている。飛びはねている。地に足が着いていない。きらきらした衣裳に身を包み、髪をなびかせ、躍動している。可憐で、自由で、しなやかに、はつらつとして。世界があざやかな色で満ちあふれている。心がはずむ。音楽が聴こえる。女の子たちの笑顔に取り囲まれる。おまえも笑う。笑顔になる。とびきりの笑顔に。うっとりとする。光に、まばゆい光に包まれる。今、この瞬間、アイドルたちの輝きと一体になる。ああ、ここは、どこだ? アイドル雑誌のページの中か? いや、それとも……ここは、天国か? どうして、わたしは、ここにいるんだろう? ねえ、どうして……どうして、ここにいるの? ソレハネ、キャッシー……ソレハネ、キャッシー……。
「莉奈、あなた、いったい何を言ってるの!」
母親は声を荒げた。朝の食卓だった。
キャッシー、おまえは自分が口走った言葉に、自分自身で驚く。
「お母さん、スマホ買ってほしいんだけど」
唐突にそう言っていた。こんな率直なお願いをするのは、はじめてだ。
「この娘、本当にどうかしちゃったんじゃないかしら、ねえ、お父さん」
父親は相変わらず新聞を開いて、えっ、うん? とあいまいに返事をした。
「昨日だって、また担任の先生から連絡があって……」
困惑した様子の母親の言葉が、頭の上を通り過ぎてゆく。
夢だったんだろうか? 昨日のことは。
気がつくと、公園のトイレの個室の床に倒れていた。手首に傷はない。血も流れていない。通学カバンが開いて、アイドル雑誌が転がっていた。
おまえは、じっとそれを見つめると、思念を送りこんだ。
〈ページよ、開け!〉
ぴくりとも動かない。
ああ、やっぱり、幻覚だったのか。
自分は使命を得た。特別な力を与えられた。あの光の中の不思議な声によって。そうしてグラビアページの中へと飛びこんで、アイドルたちと笑っていた。遊んでいた。そう思っていたのに。
それにしても、リアルだった。あまりにも。目の前にアイドルがいた。憧れのアイドルたちが、飛びはねていた。光り輝いていた。その笑い声や、いい匂いや、息づかいさえ、はっきりと感じられた。わくわくした。楽しかった。ああ、本当に楽しかった! これまで生きてきて、最高に楽しい瞬間だった。
夢だっていい。妄想だって構わない。あの瞬間を、決して自分は忘れない。
アイドル! その言葉は、おまえにとって特別な意味を持つようになったのだ。
弾丸は標的があるから速く飛ぶ——と言った人がいる。キャッシー、おまえは弾丸だ。標的に向かって飛ぶこと、それがおまえの使命なんだ。
さあ、飛びなさい。
速く、速く。
アイドル! という標的に向かって。
くっきりとその言葉が脳裏に浮かんだ。
〈スマホ〉だ。
「お母さん、スマホ買ってほしいんだけど」
すんなりと口に出た。昨日までのおまえとは違う。標的がある。使命がある。おずおずとしてはいられない。
「スマホですって? ああ、スマートフォン……携帯電話のこと? ダメですよ、そんなの。だって莉奈、まだ中学生でしょ? 学校で禁止されてるんじゃない? ねえ、お父さんも、なんとか言ってあげてくださいよ」
んー、と父親は興味なさげな表情だ。新聞から手を離さない。
キャッシー、おまえは“押し”た。心の中で。強く“押し”た。頭の中、脳の奥にある芯のようなところから、あの見えない〈ちから〉を“押し”出した。弾丸のように。父親の頭部に向かって、思念の矢を放ったのだ。
ぱさりと新聞が手から落ちた。こわばった顔の父がとろんとした目で口をぱくぱく開いている。
「いいじゃないか、お母さん。スマホぐらい買ってやんなさいよ。莉奈が何かねだることなんて、めったにないんだから。なあ、莉奈。おまえも、もうすぐ高校生なんだし……」
母親は啞然としている。
「でも、あなた、そんな……」
キャッシー、おまえはとっさに母親の頭部をにらんで“押し”た。一瞬、母親はぶるっとふるえたが、すぐに気を取り直す。
「そんな……ダメですよ、お父さん。スマホなんて、絶対。この年頃の女の子がそういうものを手にすると、だいたい……」
「うるさいっ!」
父は怒鳴りつけた。怒りで顔を真っ赤にしている。
「買ってあげなさい! 莉奈にスマホを買ってあげなさい! いいね」
そう言うと、父はキッチンを後にした。母は驚愕の表情で、目を丸くし、ただもうおろおろとしている。
キャッシー、おまえはトイレに駆けこんだ。猛烈な痛みが頭部を襲ったのだ。ひたいに何本もの針がぐさぐさと突き刺さったようだった。脳の奥がきりきりと絞めつけられ、痛みは首から胸、胃袋へと下りていって、やがておまえは吐いた。
ずきずきと鈍い痛みの頭を抱えながら、おまえは思う。
何だったんだろう、さっきのは? たしかに自分は“押し”た。父親の頭部に向かって思念を送った。強く“押し”た。その結果、父はあんなことを口走ったんだろうか? すると、この猛烈な痛みは? 〈ちから〉を使ったことによる後遺症? ……まさか!
だって、母親も“押し”た。思念を送ったはずだ。けど、まったく通じなかった。
ああ、ただの勘違いか?
昨日から、わたし、どうかしてる。
キャッシー、おまえは三日ぶりに登校する。不安がなかったわけじゃない。恐くないはずはない。だけど……。そう、自分は変わったんだ。使命を得た。標的を持った。
アイドル! あの光り輝く者たちが、きっと、わたしを守ってくれる。
アイドル! わくわくとした、きらきらとした、あの最高に楽しい瞬間を、思い出せ!
たとえ、それが妄想でも。現実逃避の夢だったとしても。
おまえは思いきって教室の扉を開く。クラスメートはまったく反応しない。おまえがいようが、いまいが、無関心だ。以前と同じ。透明人間。ただ……。じっとおまえを見つめている、その目に気づく。十個の目。五人の女の子たち。そう、神ファイブ。ゾッとするほど冷たい視線だった。
担任のヌーボーが入ってきて、朝のホームルームが終わる。神ファイブはおまえに近づいてこない。ただ冷やかな視線をこちらに向けているだけだ。ああ……。問題は、午後のサロンだ。耐えられるだろうか? それまで。ふいに、あの容赦ないムチの衝撃と痛みがよみがえってきて、ひっ! とおまえは心の中で悲鳴を上げる。制服の中のみみず腫れがうずく。思わず、鳥肌を立て、身をすくませた。
一限目終了後の休み時間、神ファイブはおまえを取り囲んだ。不気味な沈黙が教室を支配する。リーダーの月子の目の合図で、おまえは立ち上がり、五人に囲まれ、歩き出した。まったく抵抗できない。以前と同じだ。
アイドル! おまえは、その言葉を脳裏に浮かべる。
アイドル! 魔法の呪文のように、無我夢中でとなえる。
アイドル! アイドル! そう叫ぶ。心の中で。何度も、何度も。
あの光り輝く世界、大好きなアイドルたちが飛びはね、唄い踊る夢の空間を、わくわくする、きらきらする、あの最高に楽しい瞬間を思い浮かべる。
アイドル! ああ、アイドル! 助けて。どうか、わたしをお助けください……。おまえは祈る。祈り続ける。
女子トイレだった。休み時間は終わろうとしている。他の生徒らは、みんな、そそくさとトイレを出ていった。
キャッシー、おまえは正座して、床にひざまずかされ、五人の女の子らに取り囲まれる。
目の前に月子が立っていた。
ちらりと顔を見たら、能面のような表情をしている。恐ろしい。たまらず、おまえは目をそらし、顔を伏せた。
二限目の始業チャイムが鳴った。生徒らのあわただしい上履きの足音が廊下に響きわたり、やがてしんとした。
「なんで……なんで学校、休んだんだ?」
月子の声は冷たい。
おまえは何も言わない。言えない。
「なんとか言えよっ!」
ふるえあがった。
「き、きぶんが……悪かったから……」
蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「キャッシー、おまえまさか、あたしたちのことを誰かに言わなかったろうな」
えっ?
「ほら、親とかヌーボーとかにさ」
「い、いいません……誰にも……」
ふん、と月子が鼻で笑う。
「おまえ、あたしたちのことチクッたら、どうなるか、わかってるんだろうな」
……。
「どうなんだよっ!」
ドスの利いた月子の声に、はい? とやっと返した。
突然、目から火花が出た。キャッシー、おまえはふっ飛ぶ。月子がおまえの腹に蹴りを入れたのだ。おまえは白目をむいて床に倒れ、吐いた。
「きったね~」
「なんだこいつ」
「もうダウンかよ」
「弱い、弱っちい」
「弱すぎキャッシー」
少女たちの嘲笑が聞こえる。
アイドル! おまえは必死でその言葉をとなえる。
アイドル! アイドル! あの夢の空間を思い浮かべようとする。
床に倒れ、ぜいぜいと息を切らしながら。
ダメだ。腹部の痛みで頭がくらくらする。脳内には何も浮かばない。真っ暗だ。ただ恐怖と、痛みと、ひどいみじめさの暗闇があるだけ——。
火子がおまえの髪をつかんで、無理矢理、起き上がらせた。もうろうとした意識の向こうに、月子の顔が見える。仁王立ちで腕組みし、薄笑いを浮かべていた。
おまえは“押し”た。心の中で。強く、強く“押し”た。月子の頭部めがけて思念の矢を何本も放った。
一瞬、月子の表情が曇る。みけんにシワが寄り、こめかみに血管が浮いて、ふらついた。だが、すぐにもとに戻る。何も変わらない。
月子の指示で、他の四人がトイレの個室の扉を開け、おまえを引きずってゆく。ひざまずかせ、そうして、便器の中へと力ずくで頭を突っこませた。
ひっ、冷たい。髪がずぶ濡れになる。おまえは必死で頭を上げる。少女らは容赦しない。すかさず今度は顔面から便器に突っこまれ、後頭部をぐいぐいと押された。嫌だ。冷たい。苦しい。息ができない。おまえは、じたばたともがく。もがき続ける。少女たちは手をゆるめない。水槽のコックをひねると、どどっと勢いよく水が流れあふれた。冷たい水が、目から鼻から口から入ってきて、げほげほとのどを鳴らし、おまえは便器の水を飲んだ。
少女たちの笑い声が聞こえる。
ダメだ。ああ、もうダメだ。
あの“押す”〈ちから〉も、まったく通じない。
アイドル! という言葉が遠のいてゆく。標的が失われる。使命なんてない。ないんだ。
「ははは、いいかっこだよ、キャッシー」
月子があざ笑っていた。
「おまえには便器がお似合いだ。おまえ、小学校の時、おしっこもらしたんだってなー。きったね~。おしっこキャッシー!」
おしっこキャッシー! おしっこキャッシー! と少女たちがはやしたてた。
目の前が真っ黄色になった。あの子供時代の記憶がよみがえってきた。便器に顔を突っこみ、手足をじたばたさせ、涙を流しながら、おまえは恥と屈辱でいっぱいになった。
ダメだ。もうダメだ。わたしはダメなんだ。いないほうがいい。この世にいないほうが……いや、いちゃダメなんだ。わたしなんか。ああ、わたしなんか……生まれてこなけりゃよかった!
突然、轟音が鳴り響いた。ぐらぐらぐらっと目の前が大きく揺れた。キャーッ! と少女たちが悲鳴を上げる。光が明滅して、破裂音がとどろき、あたりが暗くなる。天井からきらきらとした何かが降ってきた。白い物体が次々と宙を舞う。女の子らは悲鳴を上げ、髪を振り乱して、逃げまどう。
揺れは、しばらくして収まった。
「なんだ……地震か?」
床には、ガラスの破片とトイレットペーパーが散乱していた。天井の電球が割れ、ガラス片が飛び散り、スペアのトイレットペーパーの山が崩れて、棚から落ちたのだ。便器のそばには、ずぶ濡れのキャッシー、おまえが倒れていた。しゃがみこんだ神ファイブの女の子たちは、ゆっくりと立ち上がる。
「もういいだろう」
月子の冷やかな声が聞こえる。
「わかったな、キャッシー。あたしたちのことは絶対……絶対、誰にも言うなよ」
おまえは倒れたまま、聞いていた。
「いいか、約束を破ったら……殺す!!」
うっすらと目を開けると、ガラスの破片で傷ついた自分の手が見える。
キャッシー、そう、おまえの手は血まみれで……真っ赤だった。
郵便受けにその封筒はあった。宛名もなければ、切手も貼られていない。嫌な胸騒ぎを覚えたおまえは部屋に持ち帰り、封を切る。
〈もう学校には来ないでください! よろしくお願いします〉
黒い紙に真っ黄色の字でそう書いてあった。おまえは、ため息をつく。
ダメだ。ああ、もうダメだ。とても学校へなんか行けない。
今度、神ファイブにつかまったら、おしまいだ。本当に殺される! 月子の能面のような恐ろしい顔を思い浮かべ、おまえはふるえあがった。
トイレでリンチを受けたその日、おまえは早退した。ずぶ濡れの髪をタオルで拭い、傷ついた手にハンカチを巻いて、早退を申し出るおまえに、ヌーボーはぎょっとする。明らかにただごとではない。だが、「あ、そうか、気をつけてな」としか言わなかった。ヌーボーはことなかれ主義だ。はっきりと迷惑そうな顔でおまえを見送った。
母親は心配した。学校を無断で休んだり、早退したり。娘の様子がおかしい。
しかし、父親の様子もまたおかしいのだ。
「あなた、莉奈が変なの。なんとか言ってあげてくださいよ」
そう伝えると「ああ、そうか、ならスマホを買ってあげなさい。それでいいだろう」とこたえる。まったく話が通じない。どういうことだろう。
スマホ? なんでスマホなのか?
「スマホで勉強したいの。もう学校へは行かないから」
父と母におまえはそう宣言する。
「何、言ってるの、莉奈。スマホで勉強? バカ言わないでよ! 学校へ行かないで、どうする気なのっ!」
母親は声を荒げた。怒りと困惑が入り混じった表情だ。
「高校卒業の資格試験を受けて、留学する。バイトしてお金も自分でためるから」
すらすらと言葉が出た。
「留学って? どこへ?」
「オーストラリア。前から、ずっと行きたかったんだ。わたし、本気で勉強したい」
母は面食らった顔をした。助けを求めるように、夫に視線を送る。父はずっと腕組みをして、おしだまっていた。何か言おうとして口をぱくぱくさせるが、言葉が出てこない。
おまえは“押し”た。強く、“押し”た。父の顔めがけて思念の矢を放つ。
「……いいじゃないか、お母さん。莉奈がこれだけはっきり目標を持って、勉強したいって言うんだから。中学だってあと少しで卒業だろ? お父さんは莉奈を応援するよ。親として当然だ。いいね、お母さん……スマホを買ってやりなさい!!」
数日後、おまえの手には、しっかりとスマホが握りしめられていた。
どうしてスマホなのか? あれほど両親にスマホをねだったのか? 手に入れてみて、おまえはやっとそれを了解する。
勉強するため? 学校へ行かないで、高校卒業資格の試験を受けるため? オーストラリアへ留学するため?
いや、そうじゃない。そんなのは言い訳だ。
キャッシー、おまえの日常は劇的に変化する。学校へは行かない。外出もしない。ただ一日中、部屋に閉じこもってスマホをいじり続ける。じっとモニターを見つめる。
いったい何のために?
そう、アイドル! アイドルのために。
アイドルの情報を検索する。次々と、延々と。アイドルのブログやホームページ、ツイッターをサーフィンする。YouTubeやニコニコ動画で、アイドルのミュージックビデオやライブ映像をひたすら見る。何度も見る。見つめ続ける。
そう、スマホはアイドルの世界への入口なのだ!
たしかにおまえは「勉強」していた。クラスメートが学校で、英語や、数学や、地理や、化学や、国語の勉強をしているその時、おまえは家で、自分の部屋で、たった一人で、スマホのモニターを見つめながら、アイドルの歌や、ダンスや、コスチュームや、パフォーマンスや、あまたあるアイドルグループのメンバーの顔や、名前や、誕生日や、チャームポイントや、ゴシップや、そうして、これまでのアイドルの膨大な歴史や……それらを「勉強」していた。猛烈に、爆発的に、学習していたのだ。
スマホを入口にして、インターネットにはアイドルの世界が果てしなく広がっている。キャッシー、おまえはその世界を飛びまわり、時間を忘れて、ただ、もう無我夢中でのめりこみ、遊びまわっていた。
さて、アイドルとは何だろう?
アイドルとは、「好き」になってもらう仕事だ。でも、ただの恋愛とは違う。アイドルとは、メディアを通してファンに「好き」になってもらう仕事、応援してもらう仕事なのだ。
その最大のメディアが、テレビだった。アイドルはテレビで生まれた。テレビに出ている若い芸能人——それがある時期までのアイドルの定義だった。テレビに出なくなると「消えた」。
歌番組がなくなったり、番組のスタイルが変わったりして、アイドルがテレビに出なくなった時期がある。
“アイドル冬の時代”と呼ばれた。
アイドルはもう絶滅したんじゃないか? そんなふうにも言われた。
その頃、アイドルはどこにいたのか? 何をしていたのか?
ライブ活動をしていたんだ。
小さなライブハウスや、レコード店の店頭や、商店街のお祭りのステージや、はたまた吹きさらしの路上でさえ、唄い踊っていた。
周囲の視線は冷やかだった。
ふん、何、あれ? アイドル? 今どき? ぷっ、ダサい~、と笑われた。
少数のファンたちが必死で支えた。熱心に応援して、消えかけたアイドルの小さな火を、逆風の吹きすさぶ路上で、テレビに見捨てられた場所で、この世界の片隅で、じっと、ずっと守り続けたんだ。
アイドルは決して絶滅してはいない。いつか……いつか息を吹き返す。この冬を乗り越えて、必ず、よみがえる。そう信じて、耐えた。耐え続けた。「信じる」ことだけが、小さな火を守るすべだった。
そうして事態は変わった。
メディア環境が変わったんだ。テレビの時代が終わった。インターネットの時代がやってきた。
テレビに出られない、うら寂しいところ、見知らぬこの世界の片隅で、ただ、ひたすら、ずっとライブ活動を続けてきたアイドルたちは、インターネットという場所を与えられた。やがて、それは爆発的に広がった。
そう、キャッシー、今、おまえが握りしめているスマホさ。じっと見つめる小さなモニター画面、その向こう側に広がる果てしないインターネット空間、それこそがアイドルの新しいステージなんだ!
キャッシー、おまえは時代の子供だ。もし、スマホもインターネットもない時代に生まれていたら、おまえはこれほどアイドルにのめりこむことができただろうか? 無理だ。絶対に。地方に住む少女がアイドルと接触できる機会はめったにない。その手段もごく限られている。テレビだ。テレビにアイドルが出なくなったら、もうおしまいだ。
だけどね、キャッシー。考えてごらん。おまえと同じように、たまたまこの時代に生まれて、育ったおかげで、スマホによって、いつでも、どこでも、誰でもアイドルに接触できるようになった。そうして憧れ、のめりこみ、熱中して、やがて自分も「アイドルになりたい!」と叫び、夢を持つ、そんな女の子らが日本中にいっぱい、いっぱいいるんだよ。
そうしたこの時代とのめぐりあわせを、今、「宿命」と呼ぼう。
そう、おまえは「宿命」の子供だ。
キャッシー、おまえはスマホを握りしめ、一日中、アイドルの世界で遊んだ。夢中で学んだ。またたく間に時間が過ぎた。膨大なアイドルの情報や知識を得た。だけど、それだけじゃなかった。
インターネットの匿名掲示板——そう、あの悪名高い、2ちゃんねるのアイドル板にアクセスする。
こんな世界があったのか!
おまえは衝撃を受ける。
そこには日本中のアイドルが大好きな仲間たちが集まって、二十四時間、一日中いつでも、いつまでも熱く語りあっていた。
仲間がいる! 仲間がいる! おまえはスマホのモニターが焼けこげそうなほど熱くジッと見つめて、今すぐ踊り出したい気分になった。
そこでは何でも言える。タブーなんかない。アイドルについて、みんな自由に、気軽に、何でもかんでも好き勝手なことを、思いっきり語りあっていた。
おまえはムラムラする。なんだか、たまらない気持ちになる。嫌だ、嫌だ。ああ、もう我慢できない。受け身なだけの自分じゃ嫌なんだ。ああ……ああ……わたしも話したい!
はじめての感情だった。自分でも驚いていた。ふだんのおまえなら考えられない。
しかし……。
インターネットだったら、匿名で発言できる。何でも言える。何を言ったっていい。見知らぬ仲間たちの語りあう熱い声に誘いこまれるようにして、そうして、ついにある日、おまえは声を上げる。
〈中三女子:アイドルが大好きな女の子でーす♡ 地方でひとりこっそりヲタ活やってます(^^)/〉
〈中三女子〉というハンドルネームで書きこみを始めた。
〈マジか?〉
〈中三女子? ウソやろ?〉
〈ガセでしょ、ガセ〉
〈ネカマ乙……50代男子のキモい非モテ(なりすまし)おじさんちゃうか(爆)〉
〈中三女子ちゃ~ん! 初潮はまだっすか~?〉
あっという間にわらわらと反応が返ってきた。おまえは身がふるえ、胸が高鳴る。顔が真っ赤になった。きついツッコミや、からかいや嘲笑、ひどくエッチな冗談もあったが、みんな総じてやさしかった。新入りのアイドルヲタ仲間を歓迎した。
〈はじめまして、あたしもアイドルヲタク女子です〉
〈中三女子ちゃんは、“推し”のアイドルは誰っすか?〉
〈中三女子:わっわっわっ、たくさんのリプ、ありがとうございます! きょーしゅくです。汗汗。えっと、えーと、わたしの“推し”は……〉
そうして、おまえは語り始める。自分の大好きなアイドルについて。好きなアイドルグループのお気に入りメンバー、“推しメン”について。“推し”の女の子が、いかにかわいくて、素晴らしくて、輝いているかということを。その歌を。ダンスを。コスチュームを。ルックスを。髪型を。しぐさを。そんな細部、さまざまなディテール、興味のない人には道端の石ころほどにも意味がない、でも、おまえにはいっとう大切な宝石のような……アイドルをめぐる、あらゆるあれこれについて。果てしなく語れる。そのつど反応がある。返答が書きこまれる。誰とも知らない者ら、日本中のたくさんの人々から。朝でも、昼でも、真夜中でも、語る。書きこむ。話し続ける。一人じゃない。ああ、おまえは一人ぼっちじゃない。もう、孤独じゃない。つながっている、アイドルが大好きな仲間たちと。
生まれてはじめて、他人と話せた。語りあえた。そうして気づいた。ああ、わたしは話せるんだ。こんなにもたくさん話せる……いや、話したかったんだ。話したいことがあったんだ。気分がパッと晴れた。目の前の暗雲が消えてゆく。スマホはおまえを自由にした。インターネットはおまえを変えた。劇的に。それは心の翼だ。おまえの心の奥底にある、いきいきとした、はつらつとした、丸はだかの本当の自分を見つけ出し、この世に引っぱり出して、羽ばたかせてくれる。飛び立たせてくれる。それはね、キャッシー、そう、はるか空高くにある、アイドルという輝かしいものに、まっすぐにつながっていたんだ。
その女の子は、いかにも奇妙だった。
電車の隅っこで一人っきり、立ちつくしている。
黒いだぶだぶのトレーナーと灰色のスウェットパンツを着て、毛糸の帽子をまぶかにかぶり、大きなマスクをして、じっとうつむいていた。目立たないように。誰にも見つからないように。時折、顔を上げ、その目をきょろきょろさせて車内を見まわし、びくびくしている。まるで逃亡犯のように。怪しい。怪しすぎる。挙動不審感まるだし。その姿は、かえって悪目立ちしてしまっていた。
キャッシー、おまえだ。
久しぶりに外出した。電車に乗った。
学校へはもうずっと行っていない。クラスメートに会ったら、どうしよう? ああ、神ファイブの連中に見つかったら……。
ひやっとした。おまえはあわててスマホのイヤホンを耳に突っこみ、大好きなアイドルの曲を聴いて、気をまぎらわす。じっと耐える。
電車を降りると、そこは地元から一時間も離れた小都市だった。おまえはスマホのグーグルマップを頼りに歩き出す。ああ、また、この手のひらの中の小さな相棒が自分を新しい場所へと導いてくれる——おまえはスマホを抱きしめた。
目の前に人だかりがあった。おまえは建物を見上げる。そこは小さなホールだ。
五人の女の子たちが飛びはねていた。満面の笑顔で、きらびやかなコスチュームに身を包み、壁に貼られたポスターの写真の中で。たちまち、胸がときめいた。
キャッシー、おまえは大きな決心をしたんだね。十五年間、生きてきて、もっとも大きな決断だ。ひし、とおまえは強くこぶしを握りしめる。そうだ、そうだよ、今日という日は、きっと自分を変えることになるだろう。
アイドルのライブ会場だった。
おまえは列に並び、チケットをさし出して入場する。キャパ三百人ほどの小ホールだ。ライブハウスよりは大きい。座席がある。
すでに会場には人があふれていた。年齢層はまちまちだが、男性客がほとんどで、ちらほらと女子の姿が見える。アイドルのファン特有の臭いと、どこかもっさりとしたムードを漂わせていた。
早口で何か情報交換している男たちの輪がある。生写真やアイドルグッズのやりとりをしている者らもいる。待ちきれずもうサイリウムを振りまわしているピンチケ男子がいる。メンバーの名前を背中に刺繡した特攻服のヤンキーあんちゃんが肩で風を切り、“推し”とプリントされたピンクのヲタT姿の太った中年男がもうダラダラと汗をかいていた。アイドル衣裳とそっくりのコスプレ女子……と思ったら、あっ、のどぼとけが飛び出している!?
おまえはトイレへ行って、個室に入った。
毛糸の帽子やマスクを取り、地味な服を脱ぎ捨て、バッグの中の持参した服へと着替えた。シンデレラの舞踏会が始まる。思いきって、個室の扉を開けて、出ると、「えっ?」と小さな女の子がおまえを見て、目を丸くした。鏡に映っていたのは……。
ピンクのミニのワンピースだった。こんな派手な服を着るのは、はじめてだ。ネット通販で買った。見ると、ワンピの全体にたくさんの紙片が貼りめぐらされている。写真だった。アイドルの生写真だ。そうだね、キャッシー、おまえは徹夜して一枚一枚、貼りつけたんだよね。
全身をアイドルの生写真に包まれた女の子がトイレから出てくると、会場の男たちは「おっ」と声を上げた。好奇のどよめきと鋭い視線が集中して、矢のように突き刺さる。ヒューと誰かが口笛を吹いた。でも、おまえはひるまない。うつむかない。見るなら、見ろ! ちっとも恥ずかしくなんかない。
男たちは、そんなおまえの様子を見て、みんな笑顔になった。嘲笑ではない。おまえがこれまでの人生で浴び続けてきた、あの冷たいあざけりの笑い——それとはまったく違う。ふんわり、ぽかぽかとして、あったかい。はじめて経験する、好意的な笑顔だ。
ああ、シンデレラの魔法は、アイドルへの愛だった。ここにいるのは、そうだよ、みんな、アイドルを愛するおまえの仲間たちなんだよ、キャッシー。
会場が暗くなる。しんとして、緊張感に包まれる。客席から奇声が飛ぶ。メンバーの名前が叫ばれる。と、音楽が鳴って、まばゆいライトが照らされ、光のステージに女の子たちが飛び出してきた。大歓声に包まれる。サイリウムが振りまわされ、コールが飛んで、光を浴びた五人のアイドルたちが唄い、踊る。客席はもう総立ちだ。キャッシー、おまえもあわてて立ち上がる。前から三列目の席で、ステージがまぢかにあった。女の子らの顔も、表情も、しぐさも、はっきりと見える。息づかいさえ聞こえそう。手を伸ばせば、今にも触れられそうだ。もちろん、歌もダンスもステージングも知っている。インターネットのライブ動画で何度も見ていた。しかし……。まったく違う。今、この瞬間、目の前で、生きた本物のアイドルが、唄っている! 踊っている! その圧倒的な存在感!!
おまえはただ、もう夢中でその姿に見惚れていた。
テレビやスマホでは見えないものがある。生写真やグラビアページでは気づかない、気づけない、絶対に感じ取れない何かがある。ステージ上で唄い踊る女の子たちをジッと見つめながら、おまえはそれを感じ取る。そう、十五歳の魂の奥深いところで。
ああ、そうか、ああ、ああ、そうだったのか……アイドルの衣裳は、単にファッションじゃない。今、目の前でひるがえるスカート、ふわふわとしたパニエやチュチュは、生きた雲なのだ。少女たちは、さながら雲を身にまとい飛翔していた。すらりと伸びてそろった脚の先端の赤いハイヒールでのターン、それはダンスではない。一瞬の若さの決断のステップだった。フリルやリボンは、ただ揺れているのではない。女の子の心が揺れているんだ。どれだけ激しく踊っても、なぜか決して落っこちない小さな帽子は、彼女らの小さくて堅い不動の意志そのものなんだ。
アイドルのダンスは、単なる舞踊じゃない。振りつけ、ステップ、しぐさの一つ一つに、意味があった。隠された重大な意味が。親指と人さし指で丸く作ったシャボン玉を、パチンと弾いて、ハートブレーク……でもね、突き立てた親指(気になる男の子)に、胸の前から両手のハートマークを飛ばして、背中でこっそりピースサイン……やったね! したたかな女の子への変身のメッセージ。ねっ、わかるよね? そう、わかる人にだけは、わかる、秘密のサインなんだ。おまえは自分だけがそのサインを受け取ったように思い、にんまりと笑う。
五人の女の子たちは、ステージ上でめまぐるしく動きまわる。曲につれて、それぞれの位置、フォーメーションがくるくると変わる。それは一瞬一瞬、形を変える集合的な生き物、可憐なアメーバだ。ステージ上に少女らの姿をしたカラフルな花が開いたり、閉じたり、風に舞って散ったりしたように見えた。ひときわ高く、高く、弾けて跳んだ小さな花びら——一番幼いメンバーにおまえは視線を奪われる。釘づけになる。あ、目が合った! その瞬間、笑った。ステージ上からおまえだけに向けて、とびきりの笑顔が送られたのだ。ハートを撃ち抜かれた。ときめいた。女の子の笑顔一つで。これまで生きて経験したときめきを全部集めたよりも大きな、ずっと大きなときめきだった。
〽タイガー、ファイヤー、サイバー、ファイバー、ダイバー、バイバー、ジャージャー……。
曲の間奏で、客席からミックスと呼ばれるコールが飛んだ。意味もわからないのに、一つ一つのコールで次第に会場全体が盛り上がってゆく。それにつられて、明らかにステージ上のアイドルたちもテンションを上げてゆく。ステージと客席には、見えない糸のようなものがあって、つながっている。糸は互いに引っぱられて、揺れに揺れ、熱くなって、遂には沸騰して……その全体がライブなんだ。
メンバーそれぞれに歌のソロパートがある。ポニーテールの女の子がのどをつまらせた。激しくせきこみ、声がかすれている。風邪だろうか? 苦しそうな表情だ。「がんばれー!」と客席から声が飛んだ。それから彼女のソロパートになると、観客がいっせいに唄い出した。みんなで助けるように。誰がやろうと言ったわけじゃない。示しあわせたわけじゃない。自然とそれは始まった。やがて会場全体が大合唱になった。
ああ、そうか、そうなんだ……プロの歌手がステージから観客に歌を聴かせているんじゃない。プロとしては失格の風邪でかすれたみじめな歌声は、それを助けるファンの声と一つになって、プロではありえない、いや、プロ以上に感動的な高らかな歌声となって響きわたっていた。これがアイドルだ! ステージと客席がこんなに一体になって、すさまじい化学反応を起こし、猛烈な熱度を作る——これこそがアイドルなんだ!! キャッシー、おまえはその瞬間、熱い渦に飲みこまれて、アイドルと完全に一体となっていた。
アンコールは一度きりだった。有名なグループじゃない。テレビでもほとんど見ない。一時間ほどのミニライブだ。新曲発表の地方イベントの一つにすぎない。歌もダンスも未熟だし、トークもたどたどしく、進行もぐだぐだ……でも。充分だった、それで。おまえは、ワンピに貼りつけられた胸もとの生写真がびっしょり濡れているのに気づく。へっ、なんだろう、これって? そうだよ、キャッシー、それはね、知らずと流した自分自身の涙だったんだ。
ライブ終了後、ロビーで握手会があった。おまえは新曲のCDを買うと、ファンの長い列に並ぶ。五人のメンバーから一人を選ばなければならない。ライブの時、目が合った、一番幼いメンバーの列に並んだ。
握手をして、ほんの短い時間、ファンとメンバーは言葉を交す。熱心なファンは目の前のアイドルにがっついて、しつこく食い下がり、その場を離れようとしない。すると“はがし”と呼ばれる係員の男性に、まさに「はがされる」ように押しのけられ、次のファンがアイドルの前に立つ。その繰り返しだ。列の前方の人群れがだんだん少なくなってゆく。おまえは序々に前へと進む。そのつど頰が熱くなる。胸が躍る。鼓動が高鳴るのを感じる。もうすぐだ、ああ、どうしよう、わわわ、もう、もう、あと少しだ……。
遂にその時は来た。前の男性ファンがはがされ、おまえは列の先頭に立った。テーブルの向こう、目の前にアイドルがいた。生まれてはじめて接触する、本物の、生身のアイドルが。たしか十三歳だ。おまえより幼い。ステージ衣裳のままだ。つるんとした玉子のような顔をしていた。アイドルの生写真を全身に貼りつけた、おまえのワンピースを見て、目を丸くしている。が、すぐに笑顔になった。そう、あのとびきりの笑顔に。おまえは、おずおずと前へ出て、無言で片手をさし出す。アイドルは、その手を両手でぎゅっと握りしめてくれた。身がふるえる。びりびりっと電気が走ったようだ。とっさに口をつく。
「あの……あの……い、妹になってください!!」
アイドルは、ふっと、ハテナの顔をしてから、にっこりと笑い、「ハイッ! 喜んで!!」とこたえた。
しみた。じわーんと胸にしみわたった。おまえは言葉をなくして、ただもう呆然と立ちつくすだけだ。
「ちょっと、きみ」と“はがし”の係員に両肩をつかまれて、押しのけられた。おまえは列から離れて、ふらふらと出口のほうへと歩いてゆく。放心状態だ。よろけて、ひざまずいてしまった。
さっと誰かの手が伸びる。
「中三女子……ちゃん? だよね?」
見ると、メガネの男性が自分の体を支えてくれていた。真っ赤なヲタT(シャツ)を着ている。胸のあたりのプリント文字を見て、ハッとする。
「あっ……オタオタさん?」
“オタオタ、参上!”と書かれた文字に、ネットのアイドル板で目にした文字列が瞬時によみがえる。
〈オタオタ:中三女子ちゃんは、もしかしてアイドルのライブとか出没してますか~?〉
〈中三女子:行ったことないんすよ~(泣)。あ、オタオタさんは?〉
〈オタオタ:“オタオタ、参上!”ってプリントされた真っ赤なシャツ着てるから、すぐに(50メートル先からでも!)わかるよ~(爆)〉
〈中三女子:あ、ハイ!〉
〈オタオタ:でも、オレは中三女子ちゃんはわかんないよな~。本当に中三なのかどうかも。ここの連中、みんなちょっち疑ってるし。でも、ボクは……信じるよ~。信じるヲタは、救われる、てか……なははは(苦笑)〉
〈中三女子:ありがとうございます! オタオタさん、やさしい(うるっ)。わかりますよ、会ったら、ゼッタイ。わたし、はじめてアイドルのライブ行く時、きっと思いきったカッコしてくから〉
〈オタオタ:へっ、どんな?〉
〈中三女子:うん、全国の中三女子で、自分がいちばんのいちばん、アイドルが大大大ダーイ好きな女の子だーっ! てかっこうで〉
〈オタオタ:おーっ、そりゃ楽しみや。きっと、いつか会えるよね。アイドルのライブで〉
〈中三女子:ハイ、きっといつか!〉
……その「いつか」が今日、この、たった今なのだった。
「やっぱ、そっかあ。わ~、本当のホントに中三女子なんやね。わはは、オレ、信じてよかった~」
メガネの奥の目が細くなった。
二人はホールの近くのカフェへと行った。アイスコーヒーを注文して、飲んだ。ハッとする。おまえは、こういう店にはじめて男の人と入ったことに気づいたのだ。顔が赤くなった。誰かに見られてはいないか? あたりを見まわして、うつむいた。トイレで地味な服に着替えたら、また引っこみ思案でおどおどした女の子に戻ったみたいだ。さながら十二時を過ぎたシンデレラ、華やかな舞踏会は終わりを告げ、アイドルの魔法は解けて、馬車はカボチャに、馬はネズミに、おまえはもとのみすぼらしい灰かぶり娘に逆戻り。
オタオタさんは、地元の大学生だった。メガネの奥の細い目が笑っている。話し方がやさしい。よく冗談を言う。くだらない冗談ばかりだったけれど。アイドルの話になったら、パッとおまえの目が輝く。急にいきいきとする。気がついたら、夢中になってしゃべっていた。そう、アイドル! 大好きなアイドルのことを、いっぱい、いっぱい。
はじめて会ったような気がしない。オタオタさんとは、既にネットのアイドル板で何度も言葉を交していた。気ごころが知れている。古くからの知り合いみたい。そう、二人はアイドルを愛する同志なんだ。年齢も、性別も、学歴も、立場も、まったく関係ない。アイドルという堅いきずなで結ばれている。信じあうもの同士だ。すぐにそう思った。
オタオタさんが、ふいにだまると、じっとおまえを見つめている。しばらく、ストローでアイスコーヒーの氷をかきまわしていた。そうして、やがて、ぽつりとつぶやいた。
「や、驚いたなあ」
えっ?
「あのさ、中三女子ちゃんがさ、まさか……こんなにかわいい女の子だったなんて」
ずっきゅーん! とその言葉がハートを直撃した。
かわいい、かわいい、かわいい、かわいい……。
何度も何度も。頭の中で反復した。呆然自失となった。
か、かわいい? へっ、このわたしが? まさか。そんな。まさか、まさか! 本当に? 冗談じゃなくて? 聞きまちがいじゃなくって?
ああ、なんということだろう。
わたし……わたし、かわいいって、生まれてはじめて言われた。
「えっ、どうしたの?」とオタオタさんは、けげんそうな顔をしている。
赤面したおまえは、もう何も言えなくなった。
「でもなー、JCっつーの? 女子中学生とこうしてお茶してるとこ、誰かに見っかったら、マジ、ヤバいかも。おまえ、ロリ? キモッ! とか、言われちったりしてさ~」
オタオタさんは苦笑する。
「あ、けど、アイドルのヲタでヲタT着てる時点で、もうすでに充分にキモいんっすけど~、なんてな……なはははは」
自分でつっこんで、自分で笑っていた。
オタオタさんは、二十一歳だという。おまえより六歳も上だ。はじめて会ったアイドルのファンの年上の男性と、カフェでこうしてなごやかに笑いあっている。笑った。本当に久しぶりに笑った。心の底から笑った。とても気分がいい。
ああ、自分はここにいてもいいんだ。
そう思う。
かつて、どこにも行き場を失った……「絶望」していたはずのおまえが。
ああ、ここには自分の場所がある。自分だけの居場所がある、と思った。
はじめて、おまえの脳裏には……「希望」という言葉が浮かんだ。くっきりと。
ずっと追われていた。つけ狙われていた。ずっとずっと、はるか昔、そう、幼い頃から——。
暗黒の組織に。
おまえは、ふるえ上がる。
暗黒の組織の作り出す黒雲が、ゆっくりとおまえの身に迫る。
突然、悲鳴が上がる。泣き叫ぶ声が、背後からした。
振り返ると、そこには女の子がいた。
十三歳のアイドルだ。
そう、おまえがはじめて握手した。
「あの……あの……い、妹になってください!!」
「ハイ! 喜んで!!」
とびきりの笑顔を見せてくれた。
あの幼いアイドルが、今、ふるえ、わななき、泣き叫んでいる。
どす黒い雲は、おまえを通り抜け、背後の女の子に手を伸ばす。幼いアイドルは逃げまどう。悲鳴を上げて、走りまわる。が、やがて力つき、とうとうつかまって、薄汚い手が、アイドルの首にかかる。絞める。ぎゅっと、ぎゅーっと絞め続ける。
ダメだ。ああ、ダメだ。
女の子はのどをつまらせる。白目をむく。口から泡を吹く。手足をばたばたさせて、必死でもがく。もがき続ける。
死んじゃう。このままじゃ、死んじゃう。ああ、わたしの大切な、いちばん大切なもの……アイドルが! ああ、ああ、死んじゃう、殺される。
目の前が真っ黄色になった。
「いやだーっ!!」
自分の叫び声で、目が覚めた。
部屋の中にいた。ベッドで眠っていた。
びっしょりと寝汗をかいている。
でも、ああ、本当に嫌な夢だった。
ほっとすると同時に、ふと、何か違和感を覚える。えっ? 変だ。何だろう? 寝起きのぼんやりとした意識で、おまえは様子がおかしいことに気づく。あたりを見まわす。
えっ……天井がごく近くにあった。もう目の前に。
ふとんを払いのけ、身を起こすと……。
おまえはベッドもろとも、なんと二メートル以上も中空に浮かんでいたのだ。
マジかっ!
ベッドはふわりと床に着地する。
そ、そんなバカな!
おまえは目をこする。
愕然とする。何だ、これっ!?
やはり……やっぱり自分には〈ちから〉があったのか? 特別な〈ちから〉が。
でも、どうして?
ああ……大切なもの、いちばん大切なものを守るために。
アイドル!
その言葉を口にした瞬間、ぱっと目の前が明るくなった。が、急にふるえがきた。おまえは、あわててふとんをかぶり、ふるえながら、また眠ってしまった。
朝、めざめると、自分の部屋にいた。何ごともなかったかのように。ベッドは浮いていない。あたりまえだ。ああ、やっぱり、あれは夢だったんだろうか? 夢から覚めた夢を見ていただけか?
……いや、違う! そうじゃない。あれは現実にあった。絶対にあった。はっきりと生々しいリアルな感触を覚えている。そうだ、そうなんだ。間違いない。
たしかにベッドは浮いていた!
キャッシー、おまえはそう確信する。
スマホに「ちょうのうりょく」と入力して、ググッてみた。
〈超能力(ちょうのうりょく)は、通常の人間にはできないことを実現できる特殊な能力のこと。今日の科学では合理的に説明できない超自然な能力を指すための名前〉
ウィキペディアには、そうあった。なんだか、よくわからない。次々とググッてみたが、まったく意味不明で、理解できない言葉ばかりが並んでいた。
おまえは意識を集中する。頭の中、脳の奥にある芯のようなところから、〈ちから〉を“押し”出す。思念を送りこむ。
「ベッドよ、浮き上がれ!」
ぴくりとも動かない。
ため息をついた。
ああ、やっぱりダメだったか?
自分には〈ちから〉があるんじゃないか? 何か特別な〈ちから〉が。そう思っていた。幼い頃から不思議なことがあった。突然、目の前が黄色くなった。すると真っ赤な血が流れた。横断歩道ではねられた女の子や、大地震の後の火災、森の中で犬どもに襲われた血まみれの男の姿が、次々とよみがえってきた。初潮の日には黄色い血を流した。そうして、父親の頭を“押し”て、言ってほしいことを言わせた。腹話術の人形のように。
夢か? 妄想か? そのつど悩んだ。疑問だった。〈ちから〉がまったく通じないことも何度もあった。月子や母親を“押し”たけどダメだった。しかし……。
昨夜、ベッドが浮かんだことは、現実だ。本当にあったんだ、あれは! 絶対にあった。おまえは、そう確信している。
でも、なぜ? どうして?
アイドル!
アイドルの顔が思い浮かんだ。
十三歳のアイドルの笑顔と、泣き叫ぶその姿が。
いや、そして……。
カフェでのオタオタさんの言葉。
「ねえ、中三女子ちゃん、そんなにかわいいんならさ……自分もアイドルになればいいじゃん」
えっ! 絶句した。衝撃だった。時間が止まった。心臓が止まったみたいに。
アイドルに……なれば……いい。
そんな……まさか。
考えたこともなかった。
無理だ。ありえない。絶対に。
わたし、ブスだし、ちんちくりんだし、バカだし、性格暗いし、歌もヘタだし、運動音痴でダンスなんてまるっきし踊れないし、全然あいそもないし……やばいっすよ、や、ムリムリ、笑っちゃう、まさか! そんなの、ぜーったいムリっすよ……。
アイドルに……なれば……いい。
それこそ、超能力でもなければ絶対に不可能だ。だよね、そうだ、そうに決まっている。
なぜって?
だって、アイドルは自分からいちばん遠い存在だから。みにくい自分にとっての美しいもの。暗い自分にとっての輝かしい存在。影にとっての光。石ころにとっての宝石。雑草にとってのバラ。地べたを這う虫けらにとっての空高く飛ぶ鳥。そして、そして、泥にまみれた水たまりにとっての、太陽。
無理だ、無理だ、そんなの絶対に無理に決まっている。
ああ、だけど……。
ああ、ああ、わたし。
アイドルに……な……
それ以上、言葉にならなかった。
また、暗雲がたれこめた。輝かしい世界は、どす黒い闇へと逆戻り。笑顔が消えた。居場所を失った。希望の火が消えて、うなだれ、絶望に襲われて、目を閉じた。
わずかばかりベッドが浮かんだように、おまえは感じた。
キャッシー、おまえは久しぶりに外出する。
街はずれのショッピングモールにある書店で、本を買った。大好きなアイドルの写真集だ。すぐにラッピングを破ってページを開いたりしない。わくわくする胸に本を抱きしめるようにして帰路へとつく。家に帰って、自分の部屋でたった一人、こっそりと封を切ろう。そうして一枚一枚、大切にページをめくるんだ。まるで写真集の中のアイドルに話しかけ、二人きり遊びたわむれるように。想像するだけで、うっとりとする。にんまりとする。おまえの足取りは軽く弾むようになる。
ふと気配を感じた。ハッと周囲に目をやると、いつの間にか囲まれている。前後左右に五人の女の子たちがいた。神ファイブだ! みんな無言で、表情をなくして、おまえと歩幅を合わせて一緒に歩いている。背筋が寒くなった。おまえが歩をゆるめると、周囲も歩をゆるめ、急ぎ足になると、みんな急ぎ足になる。おまえは女子たちの輪から逃れようとして、ふいに右や左に曲がったり、きびすを返したりする。と、すぐに前に誰かがふさがった。
バスケだ。これはバスケットボールの試合なんだ。対戦チームの選手たちにしつこくマークされ、ブロックされている。進路をはばまれている。いや、そうじゃない。いやいや、自分はバスケのプレイヤーなんかじゃない。おまえは、そう気づく。ボールなんだ。五人の女子たちに次々とパスされる、わたしは無力なボールなんだ。
おまえを中心とした不自然な女の子たちの輪は、ゆるやかに移動を始める。ショッピングモールの人群れを離れて、路地裏へ、どんどんさびれた場所へと。不思議だ。おまえは何も抵抗できない。五人の女子たちの磁力にとらわれている。ふらふらとした足取りで、ただ運ばれてゆく。神ファイブは相変わらず無言だ。みんな表情が消えている。風が吹いた。先頭の月子の長い黒髪がはらりとなびいて、能面のような顔が一瞬だけほころんだように見えた。ぞっとするほど冷たい笑みだ。
せせらぎの音がした。いつしか河原にいた。雑草があたり一面に生い茂っている。風が吹くと、かさこそと不気味な音をたてた。人影はまったくない。おまえたちの他には、誰もいない。太陽は空のてっぺんにあり、雲は消えている。神ファイブはぴたりと停止した。つられるようにおまえも足を止める。五人の女子たちはくるりと向きを変えて、全員が中心にいるおまえのほうを向いた。
これは何だ? 女の子たちが原っぱで仲よく遊んでいるように見えたかもしれない。一人の女の子を取り囲んで、そう、かごめかごめか何かを。キャッシー、おまえは身をふるわせて、泣きそうな顔になる。
「なんで学校に来ないの?」
月子が言った。目がまったく笑っていない。仮面のような無表情だ。
おまえは何も言わない。何も言えない。頰を紅潮させて、思わずうつむく。自分の脚がふるえているのが見える。
「〈もう学校に来ないでください!〉って手紙でも、もらったから?」
背後から水子の声がした。ふふふ、ふふふ、と忍び笑いがもれる。
「ふん、来りゃいいのに、ガッコ。そしたら、また、うちらが遊んでやんのに、ねえ……キャッシーちゃん」
金子だった。ふふふ、ふふふ、の忍び笑いは、あはは、ははは、とトーンが上がって、やがて、げらげら、に変わった。四方八方からの嘲笑の銃弾におまえは撃ちまくられた。痛い、痛い。ハートが痛い。見まわすと、女の子たちが口を開いていた。みんな目は笑ってないのに、大きく口を開いて、声を上げている。ぞっとした。きれいな女の子たちの笑顔がこんなにも恐ろしいのを、キャッシー、おまえははじめて知ったのだ。
どん、と背中に衝撃が走って、突き飛ばされた。よろめいて、つんのめる。前方には月子が待ち受けていた。おまえが抱きしめるように持っていたものを、さっと奪われる。書店のレジ袋から抜き出されたのは、写真集だ。笑顔のアイドルの表紙をチラ見すると、月子は「ふん」と鼻を鳴らした。
わっと感情が高ぶって、おまえは月子にしがみついてゆく。
「返してよ! お願い、返してよ!!」
月子は写真集を放り投げた。水子がそれをキャッチする。おまえは今度は水子のほうへと駆けた。
「返して、返して!」
水子は金子へと投げ、おまえが金子のほうへと向かうと、金子は火子へとパスした。写真集は女子から女子へとパスされて、そのつどアイドルの笑顔はくるくると宙を舞い飛んだ。おまえはなんとかその笑顔に追いつこうと、両手をさし伸ばして右往左往する。「返して! 返して! 返して!」の悲痛な声は、やがて「返せ! 返せ!」と必死の叫びとなり、「返せ——っ!!」の絶叫に変わる。声を枯らし、足はふらふらで、髪を振り乱して、いつしか涙を流していた。泣きじゃくっていた。
遂におまえは、その場にへたりこんだ。ハァハァと息をついている。舌を出し、疲れきった子犬のように。目の前には月子が仁王立ちしている。おまえを冷たく見下ろすと、小指の長い爪で写真集のラッピングの封を切った。無表情にパラパラとページをめくる。侮蔑するような笑みを浮かべて、月子は一気に写真集を引き裂いた。
あっ! とおまえは声を上げた。胸が引き裂かれたみたいだ。破れてばらばらになった写真集は、地面に放り投げられる。土で汚れたアイドルの顔は、月子のパンプスのヒールで踏みつけにされた。ズタズタになったアイドルの笑顔が、にじんで見える。目の前が涙でぼやけていた。
「ふんっ、何がアイドルだよ、くだらない!」
月子が吐き捨てる。
「アイドルなんて、オタク相手の商売で、こびて笑ってるだけじゃん。わけわかんない衣裳とか、エロい水着とか着て、やーらしいオタクどもにこびまくってさ。キモい。むっちゃキモいんだよ! サイテー!!」
月子はズタズタになったアイドルの写真を、さらにこれでもかと踏みつけた。
むらむらと奇妙な感情がわき起こるのを、キャッシー、おまえは感じる。
ああ、わたしの大切なもの、いちばん大切なもの……アイドルが! 今、目の前で、汚され、引き裂かれ、ズタズタにされて、アイドルが……ああ、アイドルが! 踏みつけにされている。
これまで覚えたことのない高ぶりを、おまえは感じる。
「なんだよ、その目は!」
月子はにらみつけた。
「ねえ、なんでおまえがアイドルの写真集なんか買ってんだよ、キャッシー。オタク野郎でもないのに。はあ? なあ、言ってみろよ、ブス。ブス。ドブスキャッシー。おまえ、自分がブスなんで、アイドルに憧れてるってか? ひどい、ひどい、ひっどいドブスなんで、自分にはなれない、絶対のゼーッタイなれない、アイドルなんかにさ。ははは。ははは。ははははははは……」
周囲の女子たちはいっせいに笑い出した。
わ——っ!! とおまえは絶叫して、立ち上がると月子のほうへと向かっていった。両腕をぶんぶん振りまわして、もう無我夢中で。月子は一瞬ひるんだが、ぴたりとおまえは動きを止める。背後から火子と水子がおまえの両腕をとらえ、木子が腰に抱きついた。金子が首に手をまわす。女子たちに動きを封じられ、おまえはその場にひざまずいた。
ふっ、と月子は残忍な笑みを浮かべて歩み寄ると、ぴしゃり! とおまえの頰を平手打ちする。ぺっ、と顔にツバを吐きかけた。
「ふざけんな、このドブスが!」
鬼のような形相になっていた。頰を赤く腫らし、ツバで汚れたおまえは、ただもう、ぶるぶると身をふるわせているだけだ。
月子が目で合図を送る。五人の女子たちは、ひざまずいたおまえを取り囲むと、示し合わせたように何かを取り出した。
ペットボトルだった。手に手にペットボトルを持った女の子らは、目と目を見交し、キャップを取ると、薄笑いを浮かべ、いっせーの、せっ、でおまえの頭の上から液体をぶっかけたのだ。
黄色い液体だった。髪も、顔も、首も、衣服も、たちまち全身が黄色まみれになった。目の前が真っ黄色になった。おまえは黄色く汚れた顔で、白目をむいて、黄色い海に溺れた魚のように口をパクパクと開いた。
少女たちの哄笑がはじける。おまえのみじめな姿が、おかしくてたまらない。みんな目に涙を浮かべ、手を叩いて笑い続けていた。
「あっはっはっ、お似合いだよ、キャッシー」
月子が愉快そうにはやしたてる。
「黄色はおまえの色だもんな。そう、おしっこの色だ。なあ、おしっこ色のキャッシー。ははは、おしっこキャッシー! おしっこキャッシー!」
おしっこキャッシー! おしっこキャッシー! と、女子たちは唱和した。
おまえは全身黄色まみれのまま、口をパクパクさせ、腕をバタバタと振りまわした。その様が滑稽で、さらに女子たちは爆笑する。まるでワナにつかまったみにくい鳥のようだ。どれだけ必死でもがいて羽ばたこうとしても、一ミリも飛ぶことはできない。翼をもがれたぶざまで滑稽な黄色い鳥——。それが、おまえだ。
女子たちは輪になっておまえを取り囲み、手を叩いてはやしたてる。みんな美しい、とびきり美しい女の子たちだ。輪の中心でバタバタともがく黄色いみにくいおまえの姿とは、あまりに対照的に見える。それは何か、奇妙で、グロテスクで、胸騒ぎのする、はるか太古の昔の恐ろしい儀式のようだった。
美しい女子たちの中で、ひときわ美しい月子が真昼の陽光に照らされている。長い黒髪がさらさらと風に揺れた。真っ白な歯を覗かせ、輝くばかりの笑顔を見せた。
「いい格好だよ、キャッシー。そう、おまえは……アイドルなんだ」
月子は冷たい目でおまえを見下ろし、吐き捨てる。
「黄色くて、汚ない、おしっこまみれの、くさい、くさい……世界一みにくい、アイドルだ」
……アイドル!
その言葉が耳を突き刺した。びくっとおまえは反応する。黄色い液体でべったりと束になった髪の毛のすきま、濡れて汚れたまぶたを開いて、おまえの目がぎらりと光った。
そんな様子を動画に撮ろうと、水子がスマホをかざしている。こんなに面白い見世物もない。すぐにYouTubeに投稿しよう。明るくポップなBGMでもそえて。そうだ、タイトルは〈世界一みにくい♡ 黄色いアイドル“キャッシー”デビュー!!〉にしよう。自分の思いつきがおかしくて、くすくすとスマホを持つ手が揺れる。モニター画面の中で、黄色まみれの女の子がもがいていた。
……アイドル!
その瞳がぎらりと光った瞬間、モニターがフラッシュする。画面がフリーズしてしまった。
「あれっ?」
水子はモニターにタッチしたり、スマホを振りまわしたりする。が、おかしい、まったく動かない。何、これ、ヘン! ずっとフリーズしたままだ。キャッシーが恐ろしい表情でこちらをにらみつけている静止画像——そのぎらりと光る瞳のあたりから、突如、亀裂が走って、クモの巣のように広がると、パリパリパリッとモニター画面が割れて、砕け散った。
「え——っ!?」
水子はスマホを放り捨てると、キャッシーを見る。全身黄色く濡れた少女が、ひざまずいたまま、かすかに揺れていた。黄色い水滴がぽたぽたと落ちる。何だろう? 地鳴りのような、何か異様な音が聞こえる。
ぐぐぐ、ぐぐぐ、ぐぐぐぐぐぐぐ……。
くくく、くっくっくっ、くっくっくっくっくっくっくっ……。
笑い声だ。揺れる黄色い奇妙なかげろうのようなその姿から、笑い声がもれている。
そう、キャッシーは笑っているのだ!
「何がおかしいんだよ、このドブス!」
月子がぶち切れて、怒鳴りつけた。笑い声は止まらない。女子たちがざわつく。
「こいつ、もう頭おかしいんじゃねーの?」
そう吐き捨てた火子の耳もとでチリチリと虫の羽音のようなものが聞こえた。えっ? 黄色く濡れた髪の毛のすきまからキャッシーがこちらをにらみつけている。その瞳が、ぎらりと光った。
突如、火子の髪が発火した。めらめらと炎が彼女の髪をおおいつくしてゆく。ぎゃああああぁぁぁ~~っ!! と、すさまじい雄叫びを上げて炎の冠をかぶった火子が頭を振った。火の粉があたり一面に飛び散る。わっと周りの女の子らが飛びのいた。火は収まるどころか顔にまで延焼して、頭部全体が炎に包まれた。ぶすぶすと肉を焼くこげた臭いがする。赤く黄色く変色する炎の中で、美しい少女の顔がぐにゃりと崩れてゆくのが見えた。
女子たちは啞然としている。みんな燃え上がる少女から飛びのき、距離を置いて、ただもうあんぐりと口を開け、見つめているだけだ。
火は頭部から体へと移った。よく焼ける素材のチェリーピンクのワンピースが紅蓮の炎に包まれる。全身が人型の炎と化した火子は、じたばたと長い手足を振りまわして奇妙なブレイクダンスを踊った。ああ、ああ、熱い、熱い、ああ、こんないなかで、どいなかで、一度もクラブへ行ったこともない、一度も男の子と踊ったこともないのに、ああ、熱い、ああ、燃える、焼ける、ああ、あたし……。ワンピースとブラもろとも発育途上の胸が燃えた。背中も、腰も、ヘソも、脱毛処理した腕も、脚も、細い足首も、足の爪も、焼けた。火子は放尿していた。ああ、ヤバいよ、ああ、ママ、助けて、ママ、ママに買ってもらったランジェリー、かわいいフリルのついたお気に入りのピーチジョンのショーツが、ああ、だいなしだ、もう、ああ、あたし……あたし、一度も男の子とエッチしたことないのに……。尿もろともショーツごと火子の若い性器がめらめらと燃えた。ああ、ああ、サイテーだ、こんなのって、ああ、熱い、燃える、焼ける、ああ、ああ、熱い、熱い、熱い、あち、あちち、あちち、あちちちちち……ああ、こんなとこで、あちち、あちち、ああ、ふざけんなよ、かみさま、てめえ、ああ、ああ、あたし……あたし、まだじゅうごさいなのに……。
炎に包まれたまま崩れ落ちた。火はしばらく草はらを焼いたが、やがてぱたりと消える。ぶすぶすと音をたてて、黒煙が青い空に舞い上がった。火子は燃えつきた。少女の形をしたどす黒いかたまりが地面に転がっていた。
「ちょっ……」と月子は絶句する。顔面が真っ青だ。
イヤ~~ッ!! という絶叫がこだました。木子が顔をおおってしゃがみこみ、泣きじゃくる。金子は腰を抜かしていた。
黄色く濡れた奇妙なかげろうは、ゆらゆらと揺れている。
くくく、くっくっくっ、くっくっくっくっくっくっくっ……。
まだ笑っていた。時折、黄色い髪のすきまから目が覗いて、ぎらぎらと光っている。
「ひっ」と声をもらすと、水子はくるりと背を向けて、逃げ出した。よろよろとした足取りで、原っぱを駆ける。必死の形相で走る。だが、体が前へと進まない。やだこれ、何! 夢を見てるみたい。追いかけられている、すごく恐ろしいものに追いかけられている夢。怖くて、必死で逃げようとするのに、夢の中では決まってまったく前へと進まなくなる。やだ。怖い。やだやだ。怖い怖い怖い。たよりない足の感触。ふわふわとまるで雲でも踏んでいるようで。いつしか水子の体は宙に浮かんでいた。地上から数メートルも浮かび上がった水子は、空中でぐるぐると足踏みを繰り返す。空飛ぶ透明な自転車に乗ってるみたいだ。
ぽかんと口を開けて、その様を地上の女子たちは見上げていた。
「えっ!」と異変に気づいた水子は、振り返る。彼方に黄色く濡れたキャッシーが見える。その瞳がぎらぎらとこちらをにらみつけていた。
いや~~っ!! と水子は叫んで、髪の毛を逆立てた。
キャッシーは薄笑いを浮かべ、目玉をぐるぐるとまわす。それにつられて水子の体は回転した。見えない糸に操られているみたいに。頭と足がひっくり返り、スカートはめくれ、髪が振り乱れた。空中でぐるぐると回転を繰り返す。めまいがした。
やがてキャッシーが手のひらを突き出すと、水子の体はポーンと遠くへと飛び去った。原っぱを通り過ぎ、小道を横切り、はるか堤防を越え、川の上空で停止する。ゆらゆらと宙で揺れている。キャッシーが手のひらを下に落とすと、一気に水子は落下した。水しぶきを上げて、少女の体は水没した。水中で水子はもがき苦しむ。川の汚水が目から鼻から口から耳からどっと押し入る。げほげほと、のどを鳴らして、せきこんだ。やだ。苦しい。やだやだ。汚ない。溺れる。やだやだやだやだ。い、いきができない。やだ——っ!? 水子は必死で水をかいて川面へ浮かぼうとする。だが、ダメだ。手足が動かない。ダメだ。死ぬ。このままじゃ。溺れ死ぬ。ダメだダメだ。ぐるじい。げほげほっ。ダメダメダメダメ……いぎがでぎない。あ、あたし……あたし、もう……ダメ……。
意識を失うその寸前に、水子の体は強い力で水中から引き上げられ、川面を飛び出して、また上空に浮かび上がった。キャッシーが手のひらを高く掲げている。汚水で全身がびっしょりと濡れ、変わり果てた水子の姿が中空で揺れていた。げほげほとせきこみ、鼻水とよだれをたらしている。濡れた髪がぺったりと貼りつき、目はどろんとにごり充血して、苦しそうに口をパクパクと開いていた。
キャッシーが手のひらをひっくり返すと、水子の体が旋回する。足が上に、頭が下に、ぐるりと真っ逆さまになって、今度は頭のほうから水面へとダイブしていった。また、しばらく水中で金縛りのまま止め置かれ、苦しめられ、意識の極限までくると、再び、水中から引っぱり出され、無惨なその姿を中空にさらされた。キャッシーはうれしそうに手のひらをくるくると動かして、まるで一人遊びにでも興じているようだ。
何度も水没と浮上を繰り返して、ズタボロの濡れぞうきんさながら、あわれ水子はぐったりとした。ああ、とうとう、もう限界のようだ。
「つまんないの!」
遊び飽きた子供の顔で、キャッシーは手のひらを大きく落下させた。
最後の水没で意識が途絶えるその刹那、ビッグサンダー・マウンテン——という言葉が水子の脳裏に浮かんだ。何だっけか? ああ、そう、そうだ、東京ディズニーランドのアトラクション……。山道を走るトロッコのようなジェットコースターが、川に突っこんで水しぶきを上げる瞬間、「めっちゃ、すごいんだから!」とクラスメートは言った。ああ、あたしはディズニーランドへ行けなかった……大風邪をひいて修学旅行を休んだんだ……ああ、ああ、あたし……ディズニーランドへ行きたかった! 行きたかった! 行きたかった! 薄れゆく意識の彼方から、ミッキーマウスが、ミニーマウスが、ドナルドダックが踊りながら現れて、水子を取り囲み、冥界へといざなう。沈む、溺れる。深く、暗い、凍るように冷たい、川底へと水没してゆく。イッツ・ア・スモール・ワールドのテーマ曲が聴こえてきて、もう二度と浮上することはなかった。
にやりと笑ったキャッシーの顔が、ふいに苦痛にゆがむ。右肩に衝撃を覚えた。背後から木の棒で木子が打ちすえたのだ。金子の投げる石つぶてが次々とキャッシーの背中を直撃する。少女たちが反撃した。追いつめられたネズミがネコに嚙みつくように。木子も金子も歯をむき出し、目を血走らせ、必死の形相だ。
「死ねっ、このバケモノ!」
木子はめちゃめちゃに棒っきれを振りまわす。キャッシーの肩や背中や腰を痛打して、金子の投げる石つぶてが後頭部にヒットした。
「うっ」とうめいてキャッシーがうなだれる。噴き出た鮮血の赤が濡れた髪の黄色とどろりと混じり合った。ここぞとばかりに二人の少女らは猛攻撃を加える。棒っきれの刀でめった打ちし、石ころの弾丸でボコボコと連射を食らわせた。
苦悶の表情で振り返ると、キャッシーは目をむいて、両手を広げ高々と掲げた。その瞬間、二人の少女はぴたりと静止する。木子は棒っきれを振り上げたまま固まり、金子は口をあんぐりと開け、彼女の投げた石つぶては空中で静止していた。キャッシーは〈ちから〉を振り絞る。両手で何かをつかむように指を曲げ、髪を振り乱し、かっと目を見開いた。火花が散って、びりびりと空気が震動する。棒っきれも石ころも地面に落ちた。
キャッシーはみけんにシワを寄せている。鋭い視線を、ぴたりと静止したままの二人の少女らに投げかけた。怒りで頰がほてっている。内部から噴き出す〈ちから〉を一気に解き放った。折り曲げた両手の指先からバチバチと青い稲光が発する。瞬時に少女らは吹っ飛んだ。木子の全身が破裂して、原っぱは鮮血で染まった。真っ赤な血だまりに肉片が散らばり、少女の姿はもう影も形もない。
金子は破裂をまぬがれた。地面に倒れた彼女の体は奇妙な形にねじ曲がっている。手も足もそれぞれの指も異様な方向へと折れ曲がり、全身の骨が粉々だ。白目をむき、鼻血を流し、口から泡を吹いていた。まるで壊れて捨てられた人形のようだ。
キャッシーはがくりとひざをついた。吹き出した汗が顔面の黄色い塗料を溶かし流す。ハァハァと息を切らしている。彼女の〈ちから〉にも限界があるようだ。さすがに二人の少女を同時に破裂させることはできなかった。不意をつかれ、背後から襲われ、とっさに反撃したが……。火子や水子のようにたっぷりと時間をかけられなかった。木子と金子、あの娘らに死のまぎわの地獄の苦しみを心ゆくまで味わわせてあげることは叶わなかった。ごめんね。それが、いささかの心残りだ。キャッシー、おまえはくやしそうにくちびるを嚙む。
いや、まだ終わったわけじゃない。いやいや、あと一人、残っている。かんじんかなめのラスボス……そう、神ファイブの首領が。
陽はもう傾いていた。目の前に立つ少女は、赤い夕陽に照らされている。長い黒髪が風にさらさらと揺れた。すらりとしたスタイル、ミニスカートから伸びた細く長い脚、くっきりと完璧に整った顔立ち……少女は美しかった。あまりにも。今さらながら、そう思い知らされる。だが……。
顔面が真っ青だ。脚が揺れる。びくびくと小刻みに。そう、身をふるわせていた。
「キャ……キャッシー……」
かぼそい声で、やっとそうもらした。
キャッシー、おまえが立ち上がると、月子は反射的に後ずさる。パンプスのヒールが何かにぶつかり、見ると、黒こげになった火子の焼死体だ。「ひっ!?」と月子は跳び上がった。
「や、やめろ……キャッシー、やめてくれっ! お願いだ、なっ、あ……謝るよ。ごめん! 本当にごめん……なさい。どうか、今までのこと、許してくれ。許してく……ださい。あ、あたし……死にたくない! 死にたくないよっ! やだ、やだやだ、やだ——っ! た、助けて、助けてくれっ!!」
みにくい、と思った。美しい少女が、身をふるわせ、泣きそうな顔で、必死に命乞いしている。みじめだ。あわれだ。みっともない。ああ、この娘は、こんなことしちゃいけないんだ。本当に。似合わない。全然、キャラと違いすぎ。キャッシー、おまえはそう思う。
地面に散らばる、汚れてびりびりに破れたアイドルの写真を見る。そうして、また月子の顔を見た。違う。全然。この娘はアイドルじゃない! どんなに美しい顔をしていたって……。違う、違う。まるで違う。アイドルはこんなみじめなものじゃない。そう、見る者を元気にしてくれなくちゃ。ファンをわくわくさせてくれなきゃ。常にきらきらと輝いてなくっちゃ。ねっ、そうでしょ、月子? あんたは、絶対に、アイドルなんかじゃない!!
キャッシーは両手を広げて高く掲げると、思念を送った。空気が震動する。風が吹いて、月子の髪が激しくなびいた。わっ! と悲鳴を上げて、月子は両手で顔をおおう。が、それまでだ。何も起こらない。ダメだ。やっぱり、ダメだ。ああ、さっきまでの死闘で完全にパワーを使い果たしてしまったのか? キャッシーはくやしそうに首を振り、がくりと片ひざをつく。
しばらく、うなだれていたが、また顔を上げると、空を見た。突如、かん高い音があたりを切り裂く。夕焼け空にこだまする。超音波さながらの鋭くとがった音色、それは……口笛だった。そう、キャッシーは空に向かって口笛を吹いていたのだ。
にわかに空がかき曇った。黒い影がいくつもいくつも上空に現れ、群れ集い、ぐるぐると旋回している。口笛の音色が変わった。すると黒い影が舞い降りてくる。月子の白いワンピースめがけて。
キャ——ッ!! と悲鳴があがる。
カラスだった。黒い大きなカラスが月子に襲いかかる。何羽も、何羽も、上空から次々と急降下して、わっと群がった。月子の白い服はたちまち真っ黒に染まる。カラスたちはとがったかぎ爪で少女の体にしがみつき、鋭いくちばしを突き立てる。月子のかぼそい悲鳴は、ギャアギャアという鳥たちのうれしそうな鳴き声にかき消された。キャッシーの口笛の伴奏がそれにハモる。不吉で妖しい夕暮れの饗宴。時ならぬ残酷なシンフォニーだ。
群がるカラスの鋭いくちばしやかぎ爪に衣服も下着も若い肌も破られ、少女の白いワンピースは赤い鮮血で染まる。黒と白と赤が、たそがれの原っぱで混じり合い、うごめいていた。猛禽どもは思わぬごちそうに舌つづみを打ち、少女の若い柔らかい肉をついばみ、むさぼり食っている。無数のカラスの群れ、まがまがしい黒い羽根のすきまからチラチラ見える月子の体は、たちまち鳥たちに食い荒らされ、血まみれだった。
意識を失いそうになりながらも、月子は何かをつぶやいていた。うわごとのように。
「や、やめて……お願い、お願いだから……顔は、顔だけは……やめてーっ!」
両手で顔をおおい、じたばたと身をもがいて、必死で鳥たちの襲撃を逃れようとしている。
顔……顔さえ無事なら……大丈夫、大丈夫なんだ、あたしは……だって……だって、あたしは……きれい、きれいだ、美少女なんだ……そう、そうでしょ? ねっ、みんな、そう思ってるでしょ? だよね? ……絶対にそうだ、絶対に絶対にそうなんだ! クラスメートも、先生も、全校の男子も……みんな、そう思ってる、みんなみんな、あたしに夢中……大好きなんだ、月子のことが……そうだ、そうに決まってる、あたしは……ナンバーワン……学校で一番の……美少女! ああ、ああ、一番きれいな顔の……女の子なんだ!!
ぴたりと口笛がやんだ。さっとカラスたちが少女の体を離れ、着地する。月子の周囲をぐるりと無言で取り巻く。不思議なことに彼女は倒れない。ふらふらと揺れながら立ちつくしている。顔をおおった両手を離し、ぶらんとたらした。
異様な姿だった。首から下、全身がカラスたちに食い荒らされ、もうズタズタだ。血にまみれ、肉がちぎれ、内臓がはみ出し、骨があらわになっている。まるで理科室の人体模型だ。おえーっ、よくまあ、これで生きている……。
しかし、顔は……顔だけは無事だった。まったく無傷だ。染み一つなく、つるりときれいなまま。完璧な美少女の顔と、見るもおぞましい体——そのアンバランス感が、いっそうグロテスクさをきわ立たせていた。
顔は……顔だけは……やめてーっ!
ブス……ブス……このドブス……ドブスキャッシー!
月子の声が脳内で交錯する。キャッシーはよろよろと立ち上がると、みけんにシワを寄せ、思念を集中させた。なんとか最後の〈ちから〉を振り絞る。
夕暮れの原っぱの一角がざわざわと音をたてた。放置されたゴミの山がうごめいている。ばらばらと空中にいくつもの影が浮かび上がった。浮遊しながらそれはゆっくりとこちらへと近づいてくる。やがて月子の頭上までくると、ぐるぐると渦を巻いた。
無数のガラスびんだった。ビールの、コーラの、ジュースの、健康ドリンクの、飲み薬の……さまざまなあきびんたちが、ふわふわと空中で旋回して、踊っている。
それを見つめるキャッシーの目が、ぎらりと光ると、青い火花が散った。
びんたちはすごい勢いで互いにぶつかり合い、ガラスの割れる音が夕暮れの空にこだまする。見上げると、いくつもの割れたガラスの破片が夕陽に照らされ、きらきらと空中で輝いていた。
呆けたようにそれを見つめる月子の顔が、急に引きつる。目を大きく見開いた。ガラスの破片の鋭いきっ先は、ぎらりと光を帯びて、すべて月子の顔へと狙いを定めていたのだ。
「ひっ」と声をもらし「や……やだっ!」と絶叫して、手で顔を伏せようとしたが、まにあわない。無数のガラスの破片たちは、いっせいに急降下する。月子の顔に襲いかかる。ぶすぶすっ、ぐさっぐさっ、と音をたて、突き刺さった。月子の若い白い肌を血で染めた。ガラスの破片でおおわれた血染めの顔は、どこか奇妙なオブジェのようにも見える。見開いた両目にもぐさりと破片が突き刺さり、月子はふた筋、血の涙を流していた。
か……顔が、ああ、あたしの顔が……だいじな、だいじな、きれいな顔が……う、噓でしょ? こんなの……ありえない、絶対にありえない! や……やだ、やだやだ……やだやだやだやだ——っ!
心の叫びを断ち切るように、最後にひときわ大ぶりの肉切り包丁のような鋭いガラスの破片が一閃して、少女の首を切り裂いた。
あ……あたし、きれい——っ!!
いまわの絶叫と同時に、血しぶきが上がり、スパッと頭部が切り離される。カラスに食い荒らされた無残な体がゆらりと倒れ、月子の頭部がすとんと落ちた。ダルマ落としのように。ガラスまみれの少女の生首が、原っぱにちょこんと鎮座していた。
ふっ……いい顔だよ、月子。
ぐるりと取り巻いていたカラスの群れが、急に、ぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。わっと群がった数十羽が月子の髪をくちばしでくわえると、舞い上がった。そうして今しも陽が沈もうとする西の空へと飛び去ってゆく。かつての美少女の顔が、ぶらりと空中で揺れる。赤い夕陽を浴びて、顔に突き刺さった無数のガラスの破片がきらきらと輝いていた。鳥たちに運ばれ、きらめきはたちまち小さな影になって、空の彼方へと消えていった。
キャッシーは原っぱに立ちつくし、じっとその様子を見つめている。激しく荒く息をつき、肩を小刻みにふるわせて。がくりと脱力した。完全に〈ちから〉を使い果たした。限界をはるかに超えていた。戦った。自分は戦った。ギリギリまで死力をつくして、戦い抜いたのだ。身に浴びた黄色い塗料と赤い血しぶきでまだらの姿、さながらそれは誇り高い古代の戦士の化粧のよう。全身の痛みと極度の疲労で今にも倒れそうだった。
目の前の黄色がゆっくりと消えてゆく。
見まわすと、あたりは……赤い。原っぱは、赤い、赤い、赤い、少女たちの流血で、真っ赤だった。変わり果てた女の子らの屍骸が散らばっている。異様な有様だ。ある者は焼かれ、ある者は水没して、またある者は破裂した。さらにある者は全身の骨を砕かれ、そうしてある者は首がちぎれ、ズタズタの骸が打ち捨てられていた。
こ……これって、何? まさか、わたしがやったこと? まさか! う、噓だ。信じられない、こんなの。こんなひどいこと、恐ろしいことを……ああ、ああ、わたしが……。
キャッシー、おまえの表情が曇る。我に返って、泣きそうになり、うつむく。にじんだ視界に何かが見える。……女の子だ。ハッとした。破れた写真集の女の子の顔が、地面に捨てられ、血と土で汚れて笑っていた。
……アイドル!
そうだった。奴らは侮辱したんだ。わたしのいちばん大切なもの、この世でもっとも尊いもの……そう、アイドルを。許せない! 許せない、許せない!! 絶対に。アイドルを侮辱する奴、バカにする奴らは、殺す! 全員ぶち殺してやる!! また、ふつふつと怒りがわき上がってきた。
なぜって? そう、アイドルは……かわいいから。けだかいから。きらきらと輝いているから。見てると元気になるから。わくわくするから。何より、わたしを救ってくれたから。夢を与えてくれるから。希望を感じられるから。そして……そして、美しいから。
ふんっ、神ファイブ? あんなチャラい女子どもとは、違う。絶対に、違う!
わたし……わたし……アイドルを守る!!
キャッシー、おまえの目が光った。地面に散らばった写真集のページが、すっと動き出す。互いに身を寄せ合い、破れた女の子の顔が、なんとかもとに戻ろうとする。懸命に紙片をくっつけ、ぷるぷるとふるえている。しばらくそうしていたが、やがて動きが止まった。ああ、ダメだ。完全に修復することは叶わない。女の子の笑顔は破れたまま、ひらひらと風に揺れた。
力つきた。おまえはくやしそうにくちびるを嚙む。激しく首を横に振る。そうして放心したように、破れたアイドルの笑顔をじっと見つめる。
その瞬間だった。むらむらと何かがこみ上げてきた。身の内から。胸の奥、腹の底、いや、魂の中心から。熱いものが。何か途方もなく熱い、熱い、触れるとやけどしそうなほど、猛烈に熱い、マグマのようなものが、こみ上げてきた。それは急激に煮えたぎり、噴き出し、どっとあふれた。
もう我慢できない! 遂にこの瞬間がきたのだ。キャッシー、おまえはすっくと立ち上がる。溶暗する夕暮れの原っぱに仁王立ちする。堅くこぶしを握りしめ、昂然と顔を上げる。そう、夕陽に向かって。生まれてはじめて覚える高ぶり、衝動、欲望——十五歳の覚醒した魂のありったけを、今、完全に解放する。思いっきり、ぶつける。この世界に向かって。
キャッシー、おまえは赤い。
赤い、赤い、燃えるように赤い。
夕陽に照らされて、もう真っ赤だ。
突如、轟音がとどろいた。
さながら獣の咆哮のようなすさまじい雄叫びを上げていた。
わたし……わたし……
アイドルになりたいっ!!
◇ ◇ ◇