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「面白い奴が売れるわけじゃない」六千人の芸人を育てた気鋭の作家が見た芸人のリアル。 『三人』冒頭公開
バラエティ番組でも「同居芸人」特集が組まれるなど、芸人同士のシェアハウス生活が話題になるなか、発売後、多くの著名人から、自身の芸人たちとの共同生活の体験をもとに綴られたヒリヒリとしたリアルな描写が、感情を揺さぶられたというSNS投稿があいついだ芸人青春小説『三人』。その一部を公開いたします。
◇ ◇ ◇
序章
人の首はいろんな匂いがする。襟首、手首、足首。同じ人でも個性が違う。同棲相手の服を脱がせながらそんなことに気づいた。裸にしても起きる気配はない。おやすみのキスを求めてるみたいな唇。甘そうな寝息が漏れている。乳首の匂いはどうだろう? その想像は二秒で閉じた。なにせこいつは三十四歳のオジサンなのだ。
「なんだ、また寝落ちしてたの?」
部屋の戸口にもう一人の同居人が現れる。慣れた手つきで服をたたみ、ラックからパジャマをとり出し、全裸男に着せていく。こいつも紛れもないオジサンだ。
もしも自分が他人の家を覗いたとして。三人のオヤジが服を脱がし合っていたら、後ずさりするだろう。裏アカでツイートするだろう。だけど僕ら三人にとってはこれが日常。
誰かが部屋で寝落ちてたら、こうやって着替えさせる。夕飯を残せば二人が食べる。パンツが乾いていなければ二人で差し出す。かれこれ一緒に暮らして六年。そんな調子。早い話が中年男三人のシェアハウスだ。
第一章
二〇一八年十月三十日
リビングに戻ると相馬はすぐに仕事を再開する。パソコンが大きいせいか十畳の空間がしぼんで見える。はっきり言ってジャマだけど、同じローソファに座るしか居場所はない。
そっと腰をおろし、そっとテーブルのマカダミアナッツチョコをつまむ。タイミングを見はからい、エンターキーをはじく音に合わせ、前歯の裏でくだく。
人に気を使わせているのに相馬は一瞥もくれない。指先は鍵盤奏者ばりに動いているが、顔にはぴくりともしない眉が貼りついている。
『若手芸人、米軍基地へスカイダイビング』
それとなく画面を覗くと、おぞましい番組企画が見えた。やっつけの反省文を打っているような無表情さがおぞましさを倍がけする。もともと放送作家は苦手だが、ますます嫌いな四文字になったのは一緒に暮らすこいつのせいでもある。
「佐伯がさ、またMC番組が決まったらしいよ」
能面みたいな顔のまま、目玉さえよこさず相馬が言う。僕は「ふうん」だけで、奥歯でその言葉とナッツをくだく。会話は終わる。こいつとはこれも日常だ。
たぶん佐伯は仕事疲れで寝落ちしたんだろう。相馬も山ほど作業を抱えているのだろう。こっちは丸一日オフ。明日もオフ。次は五日後、ショッピングモールでエスカレーターの乗客に向かって漫才をやる。謎の営業だ。
チョコもパンツもシェアしあう僕らだが、二つだけシェアしていないものがある。女性と仕事だ。女をシェアすると三人の関係が崩れることは分かっていたけど、三等分にならない仕事量でもヒビが入ることを、僕はこの一軒家で知った。
人間は一人でいると孤独感がつのる。だから誰かといたい。けれど二人だと劣等感、三人だと疎外感がやってくるらしい。今がそれだ。売れっ子芸人と作家との暮らしは、まだ何者にもなれていない僕を、カレンダーの空白に、カーテンの隙間からこぼれる朝焼けに、シャンプー中の瞼の裏に出現させる日々だった。
「助けてくれ~!」
相馬のキーボード音が止まる。が、また規則的にはじまる。どうやらまた隣室の佐伯の寝言だ。あいつは時おり、とんでもない寝言を叫ぶ。もはや寝言でなく“寝叫”だ。今年の正月は「なんで寿司屋のお茶は熱いんだ!」熱海旅行の夜は「答えはBの金玉!」今夜は「助けてくれ!」。こっちが助けてほしい。できれば金銭面を。
同棲をはじめた六年前は慌てて部屋にかけ込んだ。けれどヤツはパンクロックを子守唄にいつも夢の中。じきに学んだ。三日に一度は寝叫する。これが佐伯の通常運行であり、そのあと決まってあの一言がやってくる。
「どした? なにかあったの?」
ほうら、怪訝な表情の佐伯がぬらりくらりと現れた。勝手に叫んで、勝手にてめえの声で目覚めて、勝手に不安になる。これも通常運行だ。
「別に。ネコの鳴き声じゃないか?」
こんなときのあしらいかたを相馬は熟知している。下手に解説するとこいつは目を剥いて深掘りしてくる。スルーしたほうが、相馬の仕事、佐伯の睡眠、お互いにとって生産的なのだ。
が、そんな善意の壁を、佐伯はネコのようにすり抜けてソファへやってきた。
「ねえ、美味しいものって、ぜんぶ茶色だと思わない?」
脈絡もくそもない。これも通常運行なので慣れている。そして僕は昔からつい体が反応し乗ってしまう。
「たしかに、カレーも、唐揚げも、パンも。みんな茶色やな」
「あと、マツタケ、栗、おイモさんね! そんな味覚の秋に日本の山も茶色くなるのって、すごいと思わない?」
このロマンチストっぷりも平常。で、やはり乗ってしまう。
「舌と目で、二度美味しいってわけやな」
「そう、そういうこと!」
相馬も食いついたのか、指を止めて口を開く。
「美味しいものが茶色なのは、食材に含まれるアミノ酸やたんぱく質が糖分と結合して褐色になる。それが旨味や香りの正体らしいね。たしかメイラード反応って言ったかな」
「へえ! やっぱ相馬くんは、なんでも知ってるなぁ!」
「グルメ番組でやったからね」
「なによその番組、今度呼んでよ!」
「うん、会議で名前を出しとくわ」
乗車した会話の先に、売れっ子だけが入れるサービスエリアが見えてきて僕は降りた。
同じ歳で元同じ事務所の同期芸人。十八歳のとき大阪で出会って、今はみんな三十四歳。それなりに絆は深くなったが、スタートラインと時間の歩みが同じだと、現在地くらべは残酷になり、現住所も同じだと心はえぐれる。げんに僕一人にかぎって言えば、最近は家賃を払えていない。あの熱海の旅費も、いつの間にか二人がワリカンしていたが請求されていない。僕だけが仕事や女だけでなく、どんどんシェアできないものが増えていく。そして知っていく、楽しさは有料なんだと。
もちろん僕にも若手と呼ばれた青春時代ってやつがあった。思っていたよりも長かった。この仕事で食べていけるのか? 幸せな結婚はできんのか? 先の見えない将来に怯えていた。でも、そんな未来にやってきてしみじみ分かる。本当に怖いのは未来が見えないことじゃなく、未来が見えてしまうことだと。
残念だが。僕はもう、このままなのかもしれない。
「結局のところ、人間は死という場所に遠足してる生き物だと思わない?」
また佐伯は脈絡なく別の話題をテーブルの上に並べている。
僕は十代のころからまったく変わらない佐伯と、まるで別人のように変わってきた相馬の横顔を眺め、もう一度、ナッツを二人に聴かせるように奥歯でギシリとくだいた。
「お前、どんだけチョコ好きなんだよ?」
相馬が初めて能面をこちらに向ける。
「あっ、そう言えばチョコも茶色だね!」
寝起きとは思えないほど澄んだ白目を、佐伯は大きくさせる。
「ふうん」
反応しかけた体をこらえ、乗車拒否を決め込んだ。
二〇〇三年四月六日
僕は笑いの大きさでなく肩のゆれを見ていた。大阪はミナミ。千日前に建つ肩身の狭そうな細長いビルの一室。定規で引いたみたいに男女がきちんと座っている。左の壁一面が鏡ばりのせいか三百人くらいに見える。
高校を卒業して三週間後に芸人養成所の入学式に出る。ここまでは想定内だけど「自己紹介がてらネタをやれ」と言われたのは想定外だった。次々に、漫才、コント、ピン芸が披露されていくが空気は重い。全国から集まってきた『自称おもしろい人』たちが、笑ってたまるかという安いプライドを滾らせているからだ。
僕と相方の浅野は、その光景を最後列から他人事のように見ている。いくら笑いをこらえても肩はゆれる。それが同期の値踏みに最もふさわしいと思っていた。
罰ゲームのような入学式が進むにつれ二人の男が気になった。一人は斜め前の列に座っている、だるだるのTシャツを着たパンクファッションの男。片ひざを立て、酒盛りをする鬼のようにニヤニヤとネタを見てる。生理的に苦手だし、となりに座るクマみたいな相方も怖い。
いかにも威勢のいいネタをやりそうなのに、見た目と芸風は違った。まるで男子トイレで横に立った二人が、用を足しながら会話してるような力みのない漫才スタイルなのだ。
あのパンク男が書いたのだろうか?
(A)「悪いことをしたら、手を染めるって言うよねぇ」
(B)「言うねえ」
(A)「で、悪いことから抜け出したら、足を洗うって言うよねぇ」
(B)「言うねえ」
(A)「でも、手は染まったままだよねぇ」
(B)「ほんとだぁ。気をつけないとね」
(A)「うん、気をつけないと。
この財布、さっき君からパクったんだけど、ちゃんと手を洗うね」
(B)「うん、間違えないでね」
(A)「君も俺に殺意があると思うけど、
やることやったら、ちゃんと手のほうを洗ってね」
(B)「うん、ちゃんと洗うね」
明確なツッコミのない、いわゆるWボケ。ひょうひょうとした掛け合いなのでワードが立ち、耳に入ってくる。生徒の肩も上下している。気がつくと唇の端を噛んでいた。そいつは佐伯という名前だった。
そんな佐伯の漫才で、誰よりも肩をゆらしているヤツがいた。最前列の赤い坊主頭だ。しかも、さっきから全員のネタで笑ってやがる。目ざわりでしかない。
「あいつ、ダサいな」
相方の浅野とそいつの背中を冷笑していたが、いざ自分たちの出番がきて、マイクの前に立つと面食らった。赤坊主は漫才をひたすらメモしているのだ。いや、メモじゃない、ほぼ書き写し。なぜか油性ペンで。
筆記音が気になる。ボケるたびに大きくなる。肩がゆれまくる。目の前にこんな光景があるせいだ。僕らの間合いと心は乱れ、高校の文化祭で爆笑をさらった十八番ネタは自称おもしろい人たちのプライドに握り潰されていった。
仰いだ空は四方のビルに切りとられて天窓のようだった。養成所の裏手で見つけた小さな公園には、どこからともなく桜の花びらと入学式の刑を終えた同期が集まっている。空き缶が鈴なりに刺さっているフェンスには『漫才禁止』の注意書き。いつかテレビで観た、若手芸人がステージ前に稽古する『ネタ合わせ公園』とはここのことだろう。
僕らは同期から遠ざかり、できるだけ隅っこで反省会を開く。この養成所には全国の勘違いした田舎者がやってくるらしい。こっちは大阪人でそこそこ学のある高校も出てる。あいつらとは違う。くっきりと。その距離を保ちたかった。
佐伯って名前。ヤツのまわりには早くも輪ができている。もう一目置かれているらしい。初対面なのに、気さくに、すぐに打ち解けてやがる。ダサい人種だ。
「なんか、大したことない素人だらけやったな」
浅野の反応はない。激辛スナックを口いっぱい頬ばっている。昔からこいつはハートは弱いが辛いものには強い。しくじったりイラ立ったりすると、いつも辛いものを食べて怒りを鎮める。たぶん、さっきの漫才の反応がこたえたんだろう。もちろん僕も。自信はあったのだ。
靴底で桜の花びらをにじる。おろしたてのコンバースの白さが、前のめりで入学した自分を公表しているようで口数も桜みたいに散った。
二人してぼんやりしていると、視界の端にある赤い頭が目に留まった。三年間、そりが合わなかった古文の先生でさえビール腹をよじっていたネタを、初日から奈落へ追いやった諸悪の根源くんだ。
いつの間にか近くに腰かけ、まだ何やら書き殴っていやがる。チラシの裏紙らしき束に、小学校で見た記憶しかないパンチの穴。そこから古い靴ひもがリボン結びで出てる。机がわりのケミカルウォッシュジーンズはメモ帳とお似合いのダサさだが、いきった赤髪がシャクにさわる。
「なあお前、さっきから、なにを書いてんねん?」
やつ当たり気味に聞いた。まるで待っていたような間合いで、赤坊主は「君たち、おもしろいね!」くしゃっと顔をほころばせ、横線だらけの締まりのない笑みを差し出した。
「おもろい? スベっとったやろが!」
僕の声は尖る。
「たしかに『間』は悪かったけど、あの空気じゃウケるのは難しいよ。でも、君たちの時事っぽい毒舌漫才は、上方ではあまり見ないツービートから継承されている東京系の新鮮さがある。そこに大阪人らしいボケとツッコミが小気味よく入れ替わる『しゃべくり』の見応えもある。みんな声は抑えていたけど、肩はゆれていたと思うよ」
肩のゆれに着目してるヤツが他にもいたのは意外だった。今の漫才分析もちょっと感心した。でも、声を荒げた手前、引っ込みがつかない。十代はみんなそうだ。
「知らんがな! つうか、なにを書いてんのかって、聞いてんねん!」
「あ、これ? 俺さ、島根から出てきたんだけど、島根ってテレビで新喜劇くらいしかやってなくてさ。初めて生で漫才を見れるのがうれしくってね!」
「はあ?」
「あとね。今日からライバルになるわけだし、同期の構成を分析したかったんだよね!」
こいつはやはり田舎もん。精いっぱい『自分はおもしろい』って魔法をかけて芸人学校に入ってきたんだろう。だがここは学校という体裁はあるが、たかが笑いの学校。そんな場所でテスト勉強みたいにノートをとるなんぞ、ボケだとしてもスベってる。たぶん僕らの漫才よりも。
「お前、くそダサいな」
僕はさっきより強い嫌悪感とともに最初の相馬との会話をやめ、口と心を閉ざした。そのときはまさかこんなヤツと長い付き合いになるなんて露ほども想像しなかった。
はりきり過ぎている太陽が、まだ梅雨だというのに目を焼く。汗ばんだシャツをつまむと、また少し大人になった匂いがする。顔をしかめていたら僕を圧倒する人間の臭いがして、タイヤチューブのない自転車でホームレスが追い越していった。
歩道には青いビニールシートと段ボールでつくられたテント群。ワンカップ酒を握りしめた男たちの間を、小学生がリコーダーを吹きながら下校している。そんな大阪生まれの僕でも立ち入ったことのないディープな街に佐伯と相馬は住んでいた。
ウケ狙いだと思いたい朽ち果てた壁。あみだくじのようなヒビ。アパート名が『ビバリーヒルズ』なのは、いつきても肩で笑ってしまう。
一〇二号室に佐伯、真上の二〇二が相馬なのは偶然らしい。たぶん養成所から最も近く、最も安い物件を探した結果がここだったんだろう。
このごろは、授業が終わるとネタ合わせ公園で歯ごたえありそうな同期を物色してる。テレビで大御所芸人が『下積み時代のエピソードは一生使える』と語っていたので、少しだけ同期との距離を縮めた。どうせつるむなら売れそうなヤツ。のちのちメディアで互いのエピソードを語れる相手がいいのだが、あまり目ぼしいのはいない。テンションは高いがつまんないヤツ、下ネタ以外はキレが悪い現役ホスト、恋愛めあての元芸人の追っかけ女も四人いた。おのずとビバリーヒルズに足が向くことが多くなっている。佐伯との時間はハズレがないからだ。
ほの暗く、べたついた廊下をすすむ。さっきの日差しがまぼろしに思えてくる。いつも施錠されていないノブを回すと、訪問者よりも早く住人が話しかけてきた。
「ねえねえ、この子の名前、なにがいいと思う?」
ヤツより先に、腕の中のネコと目が合う。
「自分、ここで飼う気なん?」
アナログテレビとパンクロックのCDに占拠された四畳間を見ながらうなった。今夜の食材にすら困る芸人の卵が別の生命体を扶養する。人間ですら生死をかけているこの街で、その発想こそパンクに感じた。
「ねえ、友達に『お前変わったな』って言われたことある?」
脈絡がなさすぎて困る。これだけはまだ慣れない。
「ね、ネコの話はどこいってん?」
「うちの地元、宮城の友達に電話で言われたんだよ。俺、変わったのかなぁ?」
「だからネコの……もうええわ。てか、それどういうことやねん?」
「たしかにさ、こっちに出てきたころは、ウェザーニュースが流れたら宮城のお天気をチェックしてたけど、最近は大阪しか気にしなくなったんだよ。地元のニュースはただの音になっちゃったんだよね。でもそれって性格が変わったってことになるのかなぁ?」
「いや、意味わからんわ!」
そのとき僕は会話を切ったが、ボソリと佐伯が『かんたんに、お前変わったなって言える人って乱暴だよね』と言ったような気がした。
養成所の同期は二種類いた。父親という自動ATM機、母親という自動調理ロボットと暮らしている実家組と、地方からやってきた上阪組。その金回りは雲泥の差で、ひとくくりに『若手芸人』と称されるのはしのびない気がした。
相馬は拾ってきた扇風機やレンジを自力でなおしているし、佐伯は『LEE』という辛さ二十倍のレトルトカレーを二十倍に薄め二十日間も食いつないでいる。世間がイメージする若手芸人像は上阪組の生活にしかなかった。
ビバリーヒルズに行けばたやすく貧乏エピソードが手に入る。そんな美点も見つけてますます通いつめる。いつも夏が終わるとやってくる誕生日もそこにいて、佐伯の部屋で知らないパンクロックを聴きながら十九歳になっていた。
僕と相方は高校の元クラスメイト。佐伯は幼なじみとのコンビ。大隈っていう名前もクマみたいなヤツだった。通いはじめたころはしばしば部屋にいたが、だんだん大隈の巨体は見なくなった。どんなに仲のいい二人もコンビを組むとプライベートでは疎遠になる。うちもそう。私生活では違う相方をつくり、別の日常を生きる。そのほうが舞台で顔を合わせたとき新鮮だしトークが広がるから。大阪人も、田舎もんも、たこ焼き器に入れられた具材みたいにみんな同じ形になっていく。
いつのころか僕のプライベートの相棒は佐伯。気乗りしないがヤツにくっついてる相馬。妙なトリオが形成されていた。
アパートに入りびたる僕を、佐伯は気さくに受け入れてくれる。いつの間にか『サク』と名付けられていたネコも、それなりに心を開いてくれている。
「そや、豚まん買うてきたってん。どうせまた金欠やろ?」
「うわっ、いつもありがとう!」
貧乏体験をしたいだけの訪問はたまに気が引けた。だから金でこいつの胃袋を満たす。そんな利害関係の一致も親交を深める一因だったと思う。
佐伯は二つに割った豚まんに、ありったけの呼気を浴びせると、具をかき出してサクに差し出す。よほど上等なものを口にしていないのか、サクはまんじりと睨めっこをはじめ、ぐるりと長いまつ毛が一周した佐伯の目がそこへ参戦する。もやっとした謎の時間。主人公の豚まんはどんどん冷めていく。こいつを見ているとつくづく飽きない。
「いつまで遊んどんねんっ」
コンビではボケを担当している僕を、佐伯はツッコミ役に追いやる。けして気分はよくないが、不覚にもそうさせる、そうせざるを得ない理解不能さがこいつの日常にはあふれていた。
「あ、漫才ネットワークの時間だね!」
いつもの不規則なリズムで、佐伯は一メートルほどの木刀みたいな角材を手にし、先っちょで器用にテレビの主電源を押す。ブラックウォールナットという強そうな名前の材質だそうだが「タバコをあげたらホームレスがくれたの」って経緯までは本当かどうか確かめようがない。
ともあれこの角材はなにかと便利なようだ。ときに佐伯は干した布団を叩き、ときにサクは爪を研ぎ、ときに佐伯は天井を二回こづく。すると、真上に住む相馬が赤い頭をゆらしながらおりてくる。うれしそうに。ダサい笑顔で。
今年の暮れに地上デジタルテレビ放送が大阪ではじまるらしい。なのにこいつらは携帯すら持っていない。時代が止まった街で生きる二人にとって、一本の棒切れが大切なライフラインだった。
「動いたよ。佐伯くんが拾ってきたCDプレイヤー」
この日の赤坊主は、黒いオーディオと白い紙を持っていた。
「また動いたの? すごいね相馬くん!」
ただのお笑いガリ勉だと踏んでいたが、いろいろ知っていくうちに相馬は全方位においてガリ勉だと分かった。拾ってきた家電、家具、自転車、みんな独学でなおしてみせる。実家で化石になってたワープロの修理を任せてみると、なぜか表紙つきの台本まで返ってきた。頼んでいないのに、僕らの漫才を打ち込んで製本したらしい。気持ち悪くて五千円を出したけど、陳腐な笑顔を横に振り受けとろうとしなかった。
その献身ぶりは、きっとヤツなりの存在意義。僕らへの不器用な印象づけ。高校時代もそうやって集団の中にいたんだろう。うまく使われていたんだろう。冴えない日常を救ってくれたのがお笑いなのかもしれない。相馬への想像を広げていくと、ほんのり赤い頭がかわいく思えてきた。
さっそく佐伯はテレビからオーディオに浮気し、パンクロックを流してサクをビクッとさせる。相馬は紙くずみたいに顔をくしゃくしゃにしている。
「ねえ、The Jamってさ。一九七〇年代のパンクシーンでは貴重な三人組だと思わない?」
「いや、まずJamを知らんし」
できれば佐伯の脳の回路もなおしてほしい。
「あ、三人と言えばさ。人間を一本の棒だとすると、一人だと-思考でも、二人だと+思考になれるし、三人だと才能の『才』にもなれるよね?」
「ぱ、パンクの話はどこいってん?」
僕はたじろぐ。
「下がるの『下』にもなるけど……」
指で中空をなぞりながら相馬もつぶやく。
「あ、天才、秀才、鬼才、いろんな才能の人がいるけど、ちゃんと『ごめんなさい』って言える人も、立派な『ごめんな才』だよねえ?」
「ごめんなさい、ほんと意味分からへん」
それ以上の会話を閉じ、四畳の空間をめいっぱいエスケープする。うずたかいCDの山とテレビの隙間に座り相馬はヘラついている。どうやら手にしている紙はいつものメモ帳ではないようだ。
「そういえば、なんやねん、それ?」
「バイトしようと思うんだ」
まるで待っていたような間合いで相馬は答えた。
「また金が厳しいんか?」
「うん、キツい」
証明写真までダサい笑顔の履歴書を見せてくる。なぜかバーの面接を受けたいらしい。
飲み屋はトークの勉強になる、人間観察に適している、業界人の客も多いから人脈をつくれる。なんてお得意の分析がはじまった。
「お前がバーテン? 向いてないからやめとき」
鼻で笑って受け流す。他人に献身することでしか居場所をつくれない。そんなヤツには無理だと思った。「でもね」珍しく反論してくる。「ふうん」生返事でいなす。「だけどね」まだ食い下がってくる。なんかイラッとして声のつまみを上げようとしたが、となりに嫌な気配がした。横目で当たりをつける。オーディオに夢中だったはずの佐伯がネコのようにちょこんと座って、こちらを狡猾そうに見ていた。
「すごいよそれ! 俺さ、ラウンドワンでバイトしたじゃん? だから次はPARCO2、その次はパティスリーをやりたいんだよね!」
悔しいがつい乗ってしまう。
「それって、ワン・ツー・スリーと、数字のつく職場をカウントアップしたいってことか?」
「そう、だからいつかバーテンになりたい!」
「芸人になれや! ちなみにパティスリーの次はなんやねん?」
「フォーが美味しいお店」
「アホか!」
この日も佐伯の独壇場で夜はふけた。おもしろくありたい人間は、他人がおもしろいのが最もおもしろくない。相方の激辛好きエピソードでいくつか笑いをとり返した。相馬は履歴書を丸め、僕らに合わせてダサく笑っていた。「ファイブはどこがいいかな?」という佐伯に「東京に行けば、銀座ファイブがあるよ」なんて雑学も披露していたと思う。
三人とも十九歳の秋。まだ誰も何者にもなっていなかった。
二〇一八年十二月十日
今となれば、あのときもう少し強く相馬を説得しておけばよかったと思う。いつも他人に言い過ぎるのに大切なときにかぎって言い足りない。たくさん覚えたはずなのに、いまだに僕は、言い過ぎた日と言えなかった日を折り重ねて生きている。
「じゃあ、今の相馬さんのほうが、昔の相馬さんに近いってこと?」
冷蔵庫の内側から照らされた朋子の肌は冷蔵庫よりも白く感じる。僕は「ふうん」と気のない返事をした口を後ろから白肌に押しつける。「ふうん」今度は朋子が色っぽい息を吐いた。
まとめ髪をほどくと歯医者さん特有の薬品臭がする。「ねね、聞いてます?」うれしいとき、感じているとき、彼女は口を半開きにする人だ。そこから見える行儀よく並んだエナメル質たちの発色がとても好きだった。
佐伯は海外ロケで二週間も帰ってこない。相馬も今朝がた深夜の生放送を終えて戻ってきたが、一時間ばかしの仮眠をとって「今夜は遅くなる」と飛び出して行った。
そんなとき僕はここに帰る。独りで過ごす一軒家は広すぎるし、リビングの四隅から自分だけ売れていない現実が迫ってくるからだ。
いっそここへ転がり込んでしまおうか。シェアハウスをはじめた六年前も朋子との同棲がよぎった。今でも彼女は同居を持ちかけてくれる。でも当時はヒモのような生活はダサいと感じたし、売れると思っていた。いや、正直に言うと、あの二人と暮らせばおこぼれの仕事が転がり込んでくるかもしれない。そっちの淡い期待のほうが濃かっただろう。
朋子も「そのシェアハウス、おもしろそうだね!」と歯を開帳してくれたし、ヤツらとの生活は楽しかった。僕と佐伯は十代のころのように笑い合うし、相馬は少しずつ昔のあいつに戻っていく気がしている。
「ねね、三十歳をこえた大人の性格が、変わることなんてあるのかな?」
今夜の朋子はベッドに押し倒しても相馬に夢中だ。
「ふうん。あいつは変わるべきやってん。バツイチやし」
口を塞ぐようにキスをする。だが、もごもご続ける。
「もし変われたんなら、ちゃんと過去を反省して、前に進んでるってことじゃない?」
「ふうん。前には進んでないやろ。反省や後悔は過去に縛られていくだけやからな」
「うーん、そうなのかな?」
「人間は勝手やから、過去の記憶はええ感じに美化するやろ? オレも目の前に朋子がおるのに、記憶の中の元カノのことをキレイやったなぁって思うことあるもん」
「ねね、それひどくない?」
「せやから、相馬がやってることはジェンガやねん」
「ジェンガ……?」
「過去っていう、美化された下側のブロックを抜きとり、現在に上積みしていく。でも美化しただけの偽物の塔は、やがて崩れんねん。絶対に」
「よく分かんない。なんだか最近、ますます佐伯さんに似てきたよね? ほら佐伯さんて突拍子もないことを言うじゃん? あっ、ジェンガみたいな例えは相馬さんっぽいかなぁ」
もう一度、唇で塞ぎ、少し乱暴に白い肌に指先を立てる。「ふうん」なまめかしい息づかいが始まり、濡れていく歯には彼女お気に入りの間接照明が映っていた。
二〇〇四年十二月十日
ギターのリフが効いたAerosmithの下げ囃子と、女子中高生の笑いに包まれながらステージをおりる。二か所、噛んだ。浅野も気づいてる。肩を叩かれながら反省会を開く。楽屋の真ん中で。漫才は見るよりもやるほうがおもしろい。
養成所を卒業して九か月。心斎橋にある若手主体の劇場が拠点になった。僕らと佐伯のコンビは早々と作家に認められ、実力に応じて四つの階層からなる芸人ピラミッドをかけ上がり、頂点のライブに出演できている。佐伯は本当にはじめた美味しいフォーの店のバイトを辞め、ちょっとは食えるようになったし、サクもちょっとデブネコになった。僕のほうも自分が書くネタに自信が出てきて、それなりに笑いもファンも増えはじめている。
「誤字ばっかりやから、噛むんちゃうか?」
浅野が手書きの台本をつまみ上げ、ひらひらさせながら、ちゃめっけを込めて笑う。
「製本屋さんが、忙しそうやねん」
手刀を切ってわび、ポカリで喉を湿らせる。たしかに乱雑な台本だがしかたない。相馬と会わなくなったのだ。
ビバリーヒルズには足を向けているが、つねにヤツはいない。相馬は養成所の同期とコンビを組んだが、二か月前に解散。それは知っていた。今は最下層のライブにピン芸人として挑戦していることも。
ヤツのネタはガリ勉だけあって時代をうまく捉えているし、ワードセンスもあるのでじきに上がってくると読んでいるが、家にいないのは違和感がある。ストーブが壊れたまま生活している佐伯は「朝方だと棒でつつくとおりてくるよ」「冬場はネコも相馬くんも丸くなってるのかな」なんて言ってたけど、なんか腑に落ちない。
ライブのあとネタ合わせ公園で相馬の元相方を見つけた。向こうから「久しぶり!」と手を振ってきたが、相馬の名前を出すと眉をひそめ口内のガムを鳴らした。
そいつの情報で違和感は胸騒ぎに変わる。彼らの解散は、相馬が「バイトのシフトをうまく断れない」と言いだし、何度もネタ合わせをドタキャンしたことが原因らしい。
相馬がバイトをはじめたころ。からかってやろうと一度だけ宗右衛門町のバーを覗いたことがある。
想像よりも接客はサマになっていた。赤い坊主頭に、蝶ネクタイ、ラメ入りのベストという出で立ちが腹話術人形みたいで酒を美味くする。かたやカウンターの中でふんぞり返っている男。こいつの存在は酒をマズくした。ナマコを乗っけてるようなリーゼントヘアも不快だが、新入りの相馬をアゴで使い「サボるな」「遅い」「違う」の間に句読点のように舌打ちを入れる。しかも相手に気づかせる舌打ちだ。
しばらくはバックバーに並ぶボトルを眺めてやり過ごした。やがて舌打ちは嫌味や悪態に変わり、僕はコースターを千切る。言われたい放題なのに相馬はヘラヘラ笑ってる。ナマコ頭をつけ上がらせる笑顔だ。だんだんこっちの眉も上がってきた。「お前って、芸人のくせに全然おもんないよな」ってひと言は、どうしても聞き捨てることができなかった。
「うるさいねん」
こっちも気づかせる舌打ちをしていた。
「はあ? なんやお前?」
ナマコの突端がこちらを向く。
「おもろいヤツって空気を読むヤツなんすよ。ここ、ただのバイト先やろ? こいつはおもろいヤツやから、こんな所で本気出さへんねん」
口を衝いて出た相馬評。それは本心だった。
「おいコラ、なんやと?」
ナマコの顔がウイスキーを注がれた氷のようにピキピキと筋ばる。こっちは客だ。肩書きを担保に威勢をはるが、躊躇なく胸ぐらをつかんでくる。初対面だけど『何人もこうしてきました』という薄っぺらな人生が五本の指から伝わった。
「すみません! こいつ、酔ってるんです!」
カウンターに身を乗り出し、相馬が必死に間に入ってくる。
「ほら、謝って! ほら早く!」
強いほうの人間の肩を持って状況を軟着陸させるタイプ。その態度はもっといけすかなかった。感情の引っ込みがつかないまま目線を外し、まとわりつくナマコの指を振りほどく。
「おいおい、急に戦意喪失か?」
売り言葉をかわすように席を立ち、財布をとり出していると、カウンター横の『STAFF ONLY』の扉が開き、低い声がした。
「なんや、揉めごとか?」
「いえ。お帰りみたいなんで、もうええですわ店長」
吉本新喜劇でしか見ないような柄ものシャツ。ベタな巻き舌の口調。こちらに向けたひと睨み。きな臭い裏の世界の匂いを感じ、すうっと酔いが醒めていく。
「こちらがお会計になります!」
相馬が胸もとに伝票を突き出してくる。僕はその顔をねめつける。
店のドアを閉めるときまで、相馬は一度も目を合わせようとしなかった。
その年。寒冬が続いていた大阪に初雪が降った日。朝五時に母親に起こされたので状況が呑み込めなかった。電話の主が佐伯と聞いてベッドから受話器まで頭も足どりもこんがらがった。
「お前、電話なんて持ってたっけ?」
「公衆電話だよ。あ、電話と言えばさ、THE BLUE HEARTSの曲に『無言電話のブルース』ってのがあってさ」
「いや、その話はええわ」
「で、その曲がさ」
「マジでええねん。で、なんやねんこんな時間に?」
「あ、そうだ。ねえ聞いてよ、相馬くんがもう五日も家にいないんだ」
「い、五日も?」
「うん、ライブも無断欠席してるらしいの」
「えっ、出番も飛ばしてんの⁉」
びびたる仕事しかない若手が出番を飛ばす。それは正気の沙汰じゃなかった。
「それでね、相馬くんのバイト先に行ってみようと思うんだけど、場所教えてくれない? ほら、前に行ったって言ってたじゃん?」
「バーやで? 朝に行っても意味ないやろ?」
「でも行ってみる」
一人で行かせるのはマズいと思った。「一時間後に道頓堀の戎橋で」とだけ告げると、パジャマにピーコートを羽織り家を飛び出した。
朝の宗右衛門町は不気味に見える。まだ靴跡のない雪景が『お前らみたいな貧乏人は入らんといて』と蔑んでいるように思えた。その境界をモッズコートを着た佐伯が「宮城の雪のほうが美人だなぁ」なんて言いながらずんずん踏みこんでいく。
記憶を頼りにバーへたどり着く。錆びた一斗缶みたいな色合いの雑居ビル。たしか五階。レトロな金庫のようなエレベーターの中で、手のひらの汗に気づく。ヘタレだと思った。
銀文字で店名が印字されたプレート下の呼び鈴を三度鳴らす。
反応はない。
「ほら、やっぱ誰もおれへんて」
少し安堵している自分がいる。やっぱりヘタレだ。
「じゃあ、ラスト十回」
「普通は一回やろ」
佐伯が四度目を押そうとしたとき、内鍵が開き、黒い頭が突き出てきた。
「たしか自分、相馬のツレやんな?」
中でカメラを見ていたことは察しがついた。あの失礼なナマコだということも。
「ねえねえ、今どきリーゼントのキミ。相馬くん知らない?」
初対面の距離感が狂っている佐伯に、ナマコの顔が筋ばる。人に聞かせる舌打ちをしたあと七面倒臭そうに続けた。
「なあ? ツレなら、お前らからも説得してくれやあ」
「説得ってどういうことやねん?」
「あいつが金をパクったことを認めんから、俺がずっと監視役をやらされてんねん」
言葉が終わる前に胸ぐらをつかみ突き飛ばしていた。いつかの復讐。いや、単純にヘタレでないことを自分で自分に証明したかっただけかもしれない。
STAFF ONLYの扉を開けると、両手を拘束され、くの字で横たわる相馬がいた。赤い頭の一部が黒いのは血だろうか。初めて死体を見たと思ったが、こちらに気づいた相馬は痣だらけの顔で笑いピースサインをつくる。「ダサいな」と言ってしまった。
「お前ら、なにしてくれてんねん!」
ナマコはガシャガシャと物に当たり散らし、ぬめぬめと相馬の不当性をのたまう。
六日前に売り上げが消えたこと。貧乏芸人だから金に手をつける理由があること。ご丁寧に店長とその仲間が口を割らせるために痛めつけたこと。それでも認めないので、自分が監視役をやらされ彼女にも会えてないという顛末までわめく。
相馬が盗ったのなら、なぜ警察に突き出さないのか? その日のレジを締めたのは誰なのか? レジ締めは上の人間の仕事じゃないのか? ツッコミ所は山ほどあったが無視した。そんな大それたことができる強心臓でないと知ってたから。修理代すら受けとらない男なんだから。
「ねえ相馬くん、ストーブなおしてよ」
弁論大会にはとりあわず、佐伯が両手のガムテープをやぶっていたので笑った。ナマコがさらに激昂し「そいつがいなくなると俺がやられる!」と叫んだのは肩で笑った。きっと声を荒げれば他人をコントロールできると思ってる人種。それが通用しないと分かると、こんなにもろい。この手の大人にはなりたくないが、声を荒げるという点では僕は予備軍だろう。気をつけなければ。
そんなことを考えている間に状況が変わってきた。理性のない声と破砕音がマドラーのように空気をかき混ぜる。ナマコは鋭利になったワインボトルを佐伯に突きつけている。さすがに身震いがした。
「佐伯、逃げや!」
僕が言い終わらないうちに二回鈍い音がした。
腹を押さえたナマコがゆっくり倒れていく。そのまま頭の突端がぐにゃりと曲がった。
目線を上げると、あの角材を握った佐伯が立っている。
「お前、それ……?」
「うん、家から持ってきたんだ。モッズコートだと、うまく隠せるよねえ」
いたずらっ子のように笑い、佐伯はもう一度ナマコのお尻をぺちんと叩いた。たぶん動物的直感で忍ばせてきたのだろう。理由なんてないんだろう。アホやと思ったけど、その棒切れが相馬を救うライフラインになったことは確かだった。
相馬を抱え起こす。ナマコは動かない。いや動かないことを選択したのだろう。そのままバーを失礼させてもらい、雪面に反射する朝日を浴びた。
「ごめんね、迷惑かけて」
「今はしゃべらんでええって」
佐伯が持参した角材は僕らを支える杖にもなった。
「うちのオーナーがそっち系の人でさ。バイトもどんどん辞めちゃうから、最近は俺への当たりもシフトもキツくなってさ」
「で、相馬くん、どうやって盗ったの?」
「やめてよ佐伯くん。たぶん冬場は売り上げが悪いから店長がビビッてさ。盗難をでっちあげて下っ端の俺に罪を着せようとしたんだよ」
「だから、しゃべらんでええって」
「ごめん。でも、これだけは言わせて。さっき『ダサい』って言われて気づいたんだよ。ヘラヘラ笑ってるだけじゃ世の中はうまく回んない。笑顔が素顔だと思って、つけ込んでくるヤツもいる。もっと強くならなきゃなって」
解放された安堵か興奮状態なのか。今日の相馬はいつになくしゃべる。
「あとね、それを気づかせてくれる友達がいるのって、ありがたいなって」
「友達? ただの同期やろ」
「だってさ……」
「もうしゃべんな」
僕は強引に会話をさえぎる。
「あのストーブなおるかなぁ」
佐伯はいつもの調子だった。
ラブホテルの外で美味そうにタバコを吸っていた赤いコートの女が、こちらに気づいて「兄ちゃんら、青春やねえ」と紫煙の中で笑う。佐伯は「一緒に肩組もうよ!」と本気で誘っている。
僕の高校時代に他人に語れる座持ちのいい青春の話なんてなかったけど、こうやって三人でダサく肩を組んで歩いている今がそれになるのかもしれないと感じた。
「相馬が芸人を辞めて東京に行くらしい」と聞いたのは、それから二か月後のこと。ビバリーヒルズの前にたたずみ、カーテンが消えた二階を見上げた。陰気になるのもシャクなので佐伯に借りたパンクを流す。そのウォークマンも相馬が修理したやつだった。
命は助かったが、出番をすっぽかしたことに事務所は激怒。芸人としての命は失っていた。無罪には違いないが、あのバーの連中がまた近づいてくるかもしれない恐怖感もあったのだろう。ヒビ割れた壁が、行くあてもなく東京へ向かった相馬の人生のあみだくじのように見えた。
一〇二号室に入ると、佐伯が「相馬くんからだよ」と紙の束を差し出す。汚い靴ひもで結ばれたそれをめくると、僕らの漫才の感想がびっしり書かれてある。佐伯は何をもらったのだろう? と考える前に「ケミカルウォッシュジーンズをおねだりしたよ!」と自慢してきた。
相馬がいつどんな顔で新幹線に乗ったのかは知らない。なんだかんだ仲のよかった佐伯と相馬が最後にどんな会話をしたのかも聞いてない。分かっていたのは三人の大阪での生活が終わったということだった。
二人と一匹で過ごす日々が続いた。二十一歳になった夏の終わりに、僕らのコンビは佐伯よりも早く大阪のネタ番組に出演。二十三歳でお昼のローカル番組のレポーターに抜擢。短い付き合いになったけど、翌年にはラジオ局の受付嬢をやっている彼女もできた。
でも、どこか物足りなさがある。久しぶりにビバリーヒルズで飲んだとき佐伯もそう言った。二人とも名前は出さなかったけど、あいつだった。
相手を受け入れる笑顔でなく、受け入れてほしいから笑顔でいる人間。丁寧な生きかたをしているが、まじめさが彼をみじめにする。その不器用さは僕にも佐伯にもない個性。今になって思うとおもしろさ。去ったあとで悪いが、たぶん友達ってジャンルだったんだろう。
二十五歳になるころ、僕はあいつの名前を出さなくなった。佐伯は年賀状なんてやりとりしてたがダサいと思った。その感情もじきに忘れていく。あいつの存在と一緒に。過去を振り返らずとも、目の前には、新作スニーカー、知らないパンクロック、しゃれたミニシアター、急に自撮りをはじめた女たち。興味をそそる対象物があふれていた。
二〇一八年十二月十六日
時計の針が、はっきりとした悪意をもって希望をこまかく刻んでいく。お台場のテレビ局のやたら防音性の高い壁に、僕らの声が吸い込まれていく。
「君たち、まだ頑張っていたんだね」
三分間の漫才を見せたあとの第一声がそれ。心底がっかりした。
こいつは昔から「俺の好みじゃない」と鋭利な言葉で刺してきた放送作家。いつものようにトレードマークのハンチング帽の隙間にボールペンを入れ、頭皮をコリコリかいてやがる。
「結成十五年にもなってこの位置だろ? いっそボケとツッコミを換えてみたら?」
無責任なアドバイスをして、まわりのスタッフの笑いを誘ってやがる。
「本当に換えたほうがいいと思うよ。本当に君らのためを思ってさ」
こいつが本当と言うたびに、本当という語意から離れていく感じがする。
オーディションはつねに審査メンバーの中で最も権力ある人間の意志が総意になっていく。テレビのトーク番組のように、隅っこに座っている若手の発言がびっくりするほどウケて空間を制するような奇跡は起こらない。そう、この会場に入りハンチング帽を目にしたとき僕らの合否は確定していたんだ。
形式だけの質疑応答を終え退室しようとすると、後ろから「せっかく一緒に住んでるんだから、佐伯と相馬にアドバイスもらってみたら?」一番嫌な言葉で刺してきた。
一礼をする気も失せる。そもそも芸人経験のない作家が、ネタをとやかく言う文化はいつ生まれたのだろう? 医者は自分の手で人を生かすも殺すもできるって聞くが、作家やディレクターは自分の言葉で芸人を殺すことができるのだ。ペンを奪って『自覚してんのか?』と頭皮に書いてやりたい。
僕らは生返事すらせず踵を返した。
熱をおびていたのか、しばらく冬の外気に気づかなかった。東京テレポート駅まで歩く相方との沈黙を、廃材を積んだダンプカーの排気音と、脳内再生されるTHE BLUE HEARTSの『スクラップ』が埋めている。佐伯の影響か、いつの間にか覚えた曲だ。
怒りを鎮めてんだろう。浅野は唇が赤くなるほどカラムーチョを食らっている。こっちはツイッターの裏アカウントで『あのハンチング野郎、ボコりてえ』『あいつのベンツ燃やしてえ』と連投している。けれど、いっこうに感情は回復しない。右手の手袋もない。没入中に落としたのか。あのジジイのせいだ。
下りのホームにへたり込みスマホ画面をいじくっていると、三人のグループラインに行きついた。『また落ちた。あの放送作家にやられた』と打って、ぼんやり放置する。僕はこれをよくやる。できれば放置してる間に負の感情がどこかへ去らないかと願ってる。
「東京テレポート駅の、テレポートってどういうことやねん……」
駅名にまでやつ当りしながら、あの二人がテレポートしてこないだろうか、なんて夢想する。
感情はどこへも行ってくれやしない。
紙ヒコーキ型の送信ボタンをタップしたあと「やっぱダサいか」と思いなおし消去しようとしたが、すぐにトークが届いた。
『気にすんな。あの人は放送作家の中でも異質だから』
意外にも相馬からだった。
『でもな。あいつに、もう六年くらい嫌がらせされてんねんで?』
『嫌がらせをされるってことは、支配されてないってことさ。あの人は支配できていない人間、つまり自分にすり寄らない芸人を攻撃してくる。だから支配されてないってことは、目立つってこと。支配したいってこと。だからかっこいいじゃん』
それは素直にうれしかった。
『でも、いつか殴ってまいそうや』
『やめとき。アホだと感じる人間の前では、アホな振りをしたほうが無難だよ』
ずっとタイムラインを見ていたのか。途中から佐伯も入ってきた。
『無知を装える人は強いよ。無知はいつか敵へのムチになるしね。あっ、でもさ。そろそろあの人の話はやめにしない? あの人のことを考え続けても、あっちは俺らのことなんて考えてない。きっとエッチなこと考えてるよ。それって悔しくない?』
相馬も続く。
『たしかに。怒りの片思いは結ばれないよな』
なんだかうれしくて、指が速くなる。
『なあ、今夜、三人で飲みに行けへん?』
『ごめん、まだ海外にいるのよ』
『すまん、俺も台本抱えてて』
なんだかさみしくて、指が止まった。
りんかい線の電車は僕らを大崎駅まで運んでいた。浅野は激辛スナックを完食している。
「朋子、家にいるかな」渋谷方面行きのホームに向かったつま先が逆を向く。
相方と無言で別れ、歩きはじめる。外国人旅行者のリュックがぶつかってきて、よろける。声を荒げて、まわりの視線を浴びる。こんなことでしか注目されない自分が情けない。またツイートしたくなる。
落ちた片方だけの手袋は、親指だけを突き立て『いいね』の形。その横を女子高生たちが弾むように歩いていく。僕だって十代のころはたくさん希望を持っていた。今の希望って何だろう? 売れること? あの二人に追いつくこと? もしかしたら希望を捨てることが希望? そこまで考えて舌打ちをし、電車の扉とともに想像を閉じた。
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