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<文庫化記念>貧困女子を描く傑作長編 畑野智美『神さまを待っている』 一章と二章を全文公開!
勉強した。真面目に働いた。でもわたしはホームレスになった――
文房具メーカーの派遣社員として真面目に働いていたのに、業績悪化を理由に解雇された26歳の水越愛。大晦日、ついにアパートを出て漫画喫茶に移った愛は、日雇いの仕事を探し、すぐに前の生活に戻るつもりだったが――出会い喫茶? ワリキリ? ここまで追いこまれたのは、自己責任なのか。著者自らの体験をもとに描く「貧困女子」リアル小説。
文庫化を記念して一章と二章を全文公開します!
◇ ◇ ◇
五百円の鰺フライ定食
鰺フライには、ソースだ。
しかし、テーブルの端に並んでいるのは、醬油と塩だけだ。
隣にも反対側にも向かい側にもソースがあるのに、この席だけない。
店員さんは定食が載ったお盆を両手に持って、テーブルの間を通り抜けていき、次々に入る注文に対応している。近くを通った時に「ソースください」と言えばいいだけだと思っても、タイミングが掴めない。隣の人に「借りていいですか?」とお願いしようにも、スーツを着た男性の二人連れで、銀行がどうとか証券会社がどうとか真剣に話していて、声をかけにくかった。反対側は、わたしと同じように女性一人だけれど、さっきからずっとスマホを見ていて顔を上げない。
これが鰺の開きならば、ソースなんてかけない。かけるとすれば、醬油だ。だから醬油でもいいじゃないかと思う。鰺フライに醬油をかける人もたくさんいる。でも、衣にしみこむとしょっぱくなるから、わたしは苦手だ。付け合わせの千切りキャベツにも、サッとソースを回しかけたい。
ネットでお店を知ってから、ワンコインランチで出される数量限定の鰺フライ定食を食べてみたいとずっと考えていた。午前中の仕事が早めに終わった今日がチャンスだと思い、十二時になったのと同時に会社を出た。それでも並んでいて、二十分くらい待った。なくなっちゃうかもしれないと不安だったのだけれど、無事に注文できた。
次にいつ来られるかわからないし、一番おいしいと感じられる状態で食べたい。
でも、店員さんや隣の人に声をかけられるタイミングを待っているような時間はない。
派遣社員なので、時給で働いていて、昼休みは一時間と決まっている。
十三時までに、会社へ戻らなくてはいけない。
お箸を手に取り、厚みのある鰺フライを持ち上げ、一口かじる。鰺はふっくらとしていて、揚げたての衣はサクサクで香ばしい。何もかけなくても、鰺にほど良い塩気がある。千切りキャベツは、小鉢のポテトサラダと一緒に食べる。
これで充分だと思っても、何かが足りないと感じる。
会社に戻って席に着き、午後の仕事を進める。
正社員だって、昼休みは一時間と決まっているが、まだ戻ってきていない人がいる。
パソコンに向かって手を動かしつつ、お喋りしながら戻ってくる正社員たちに「おかえりなさい」と声をかける。役職順に奥から席が並んでいるので、派遣社員のわたしの席は一番端っこだ。全員がわたしの後ろや横を通っていく。
「水越さん、ちょっと」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、わたしから一番遠い席で、部長が手招きしていた。
立ち上がって、奥へ行こうとしたら、部長がわたしの方に来た。何も言わず、そのまま廊下に出ていく。
わたしも後ろについていき、廊下の先にある会議室に入る。
この会社で一番広い会議室だが、使われることはあまりない。椅子と机がロの字型に並んでいる。ドアを開けてすぐのところの角に部長が座ったので、わたしはその斜め前に座る。
部長は気まずそうにわたしを見るだけで、何も言わない。呼ばれた方から何か言うのもおかしい気がしたから、わたしも黙って部長を見る。
そのまま、しばらく見つめ合う。
息が詰まりそうだったので、目を逸らして窓の外を見る。
葉をつけた街路樹が太陽の光を浴びて、青々と輝いている。
まだ五月なのに、陽射しは夏のようだ。
「お昼、何を食べたの?」部長が言う。
「駅の向こうまで行って、ワンコインランチを食べてきました」視線を戻し、部長を見る。
「ワンコインランチ?」
「定食屋なんですけど、ランチタイムだけ五百円で食べられるんです」気まずさに耐え切れず、早口になった。「五百円一枚で済むから、ワンコインランチっていうんですよ。そこで、限定の鰺フライ定食を食べました。選べる小鉢とお漬物もついて、鰺フライも大きくて、五百円でもお腹がはち切れそうなくらいの量があるんです。小鉢は、ポテトサラダにしました。並んでいたんで、お昼休み中に戻ってこられるように、急いで食べて、走って帰ってきました」
ソースがなくて困ったことも話そうかと思ったけれど、どうでもいいことだから、やめておいた。
「五百円で、それだけ食べられるのはいいですね」表情が少しだけ和らぐ。
「まあ、五百円でも、わたしにはちょっとした贅沢ですけど」
お金の話をしたせいか、部長はまた気まずそうにして、黙ってしまう。
その表情に、やっぱり、と感じた。
大学を卒業して三ヵ月が経った頃、わたしはこの会社に派遣されてきた。文房具を開発している会社で、ステーショナリー事業部のカタログ製作がわたしに任された仕事だ。カタログ製作の中心になっている人は正社員で、彼女の指示通りに写真をレイアウトしたり、価格を打ちこんだりする。他に、庶務の仕事も任されている。派遣されてきて、もうすぐ三年になる。
派遣可能期間は三年まで、と労働者派遣法で定められている。
なので、「三年後には、正社員にすることを検討する」というのが派遣されてきた時の約束だった。正社員を目指して、契約外の業務も手伝ったし、遅刻も早退も一度もしなかったし、他社製品も含めて文房具について勉強した。前は違う人が部長で、一昨年の春に今の部長にかわった。口約束でしかないので、ちゃんと引き継がれているのか心配だったのだが、去年の今頃に部長から「正社員になるまであと一年だね」と、言われた。様子を確認するための面談に来た派遣会社の担当者の男性も「大丈夫そうですね」と、言っていた。
「水越さん、申し訳ない」部長は、膝に両手をついて頭を下げる。
「……何がですか?」
「正社員登用の件、無理になった」
「どうしてですか?」
「業績が悪化して、新卒の採用人数も減らすことになった。パソコンやスマホの時代になっても、文房具を使う人は多くいる。でも、以前より減ったのは確かだ。町にあった個人経営の文房具屋は、なくなりつつある。ヒット商品を出せなくては、やっていくのが難しい。水越さんはよく頑張ってくれたし、どうにかして正社員にできないか考えたのだけれど、無理だった」
「そうですか……」
「派遣会社の人に言って、担当者さんから水越さんに伝えることなんだろうけれど、それではいけない気がした。三年間、うちの会社のために働いてくれた水越さんのことを考えたら、自分で言うべきだと思った」
「あの、たとえば、他の部署にまた派遣として勤めることはできませんか? そこで三年勤めて、その後に正社員になれるか検討していただくのは、無理でしょうか?」
一つの部や課に対して三年までなので、同一の会社の他部署で働くことはできるはずだ。
「それも、難しい」下を向いたまま、首を横に振る。
「そうですよね」
「派遣会社にも連絡しておくから、今後のことは担当者さんと相談して」
「わかりました」
「契約が切れるまでは、働いてもらえるよね?」不安そうに、部長はわたしを見る。
「もちろんです」
「残った有休は使ってもらってかまわないから。あと、失業保険をもらえると思います。詳しくは、派遣会社の担当者さんかうちの総務部の人に聞いて」
「はい」
「それじゃあ、来月末まで、よろしく」席を立ち、会議室から出ていく。
「よろしくお願いします」わたしも立ち上がり、後ろ姿に頭を下げてから、もう一度座る。
仕事に戻らないといけないと思っても、身体が動かない。
店員さんか隣の人に声をかけて、ソースをもらえばよかった。
それだけのことがどうして言えなかったのだろう。
あと一ヵ月と少しの間で、また鰺フライを食べにいけるのだろうか。
†
ハローワークは、なんだか苦手だ。
新しい施設だし、照明も明るすぎるくらいなのに、暗く感じる。
ここに来るのは、ほぼ全員が失業者だ。三十代から四十代の人が多い。就職は無理としか思えないような年配の方もいる。わたしと同じ、二十代半ばの女性は少ない。失業していることに後ろめたさや気まずさがあるのか、わざとらしいくらいに誰も目を合わそうとしなかった。ソファーに座り、求職の相談や失業保険の手続きの順番を待ちながら、全員が斜め下を向いている。職探し中という立場だからか、お洒落しているような人もいない。夏なのに、くすんだ色の服を着て、疲れた顔をした人ばかりだ。
文房具メーカーの派遣契約期間が終わってから、もうすぐ二ヵ月が経つ。
今日は、失業保険の二回目の認定日だ。
失業保険を受給するためには、ハローワークに来なくてはいけない。
会社から送られてきた書類を提出して手続きした後で、受給説明会に参加する。それから指定された認定日に来て求職活動の状況を報告して、実績が認められたら給付される。最初の認定日は、受給説明会の一週間後だった。自分から「辞めたい」と言って退職した場合、自己都合という扱いで、給付されるまで三ヵ月くらい待たなくてはいけない。わたしは、派遣期間が終わり辞めなくてはいけないという状況で退社したので、会社都合となって、それほど待たずに給付される。認定日からほんの数日のうちに、一週間分の失業保険が振り込まれた。
二回目以降の認定日は四週間ごとで、その間に最低でも二回の求職活動が必要になる。
わたしが住む東京二十三区は求人が多いので、他の地域よりも基準が厳しいらしい。面接を申し込んだり、就職支援セミナーに参加したり、積極的に動くことが求められる。
そんな中でも、不正受給する人もいるようだ。求職活動しているフリをして、働かずにお金をもらえるだけもらおうとしている。そういう人は、見ただけでわかる。疲れた顔をした人の中で、気楽そうにしている。二十代後半から三十代の男性が多い。わたしと同世代の女性もいる。働こうと思えばすぐにでも働けそうなのに、楽しようとしている。
二十代だから、大学を出たからといって、必ず就職ができるわけではない。わたしは、大学生の時、必死に就職活動をした。しかし、何十社も受けて、採用されたのは一社だけだった。それは、最終面接でセクハラを受けた会社だ。いきなり「彼氏は、いるの?」と、三十代前半くらいの男性面接官から聞かれた。どうしてそんな質問をされるのか意味がわからないと思いつつ、「いません」と答えた。三人いた男性の面接官から「いつからいないの?」「どういう男性が好み?」「合コンとかするの?」と、質問がつづいた。面接を終えて廊下に出たら、同じ大学の女の子がいた。どうだったか聞くと、そんなことは聞かれなかったと言われ、ただのセクハラだったのだと気がついた。手にした採用通知に喜べるはずがなくて、辞退した。就活を始めたばかりの頃のことだ。
一社は内定が出たのだから、いつかどこかに採用されるはずだと思い、卒業するギリギリまで就活をつづけた。けれど、どこにも採用されないまま、春になった。卒業後も三ヵ月間は、在学中からつづけていたパン屋さんのアルバイトで生活費を稼ぎながら、仕事を探した。何社受けても採用通知はもらえなかったので、派遣会社に登録した。
わたしが卒業したのは、堂々と言えるような大学ではないけれど、言えないほどでもない。大学の同期のほとんどが在学中に就職を決めた。高望みしたのがわたしの敗因だったのだと思う。できるだけ早く自立したくて、給料の高い会社ばかり受けた。集団面接では高学歴の人たちに囲まれ、気持ちで負けてしまった。このままではいけないと思っても、水準を下げられなかった。
カウンターの上のモニターに、わたしの持っている番号が表示される。
「こちらにどうぞ」女性の職員が手をあげる。
「よろしくお願いします」失業認定申告書と一緒に受付でもらった番号札を出して、職員の前に座る。
失業認定申告書には、前回来た時から今日までの求職活動について書いてある。
職員の女性は、失業認定申告書に目を通す。わたしより年上で、三十代半ばくらいだろう。化粧していないように見える顔には、小さなシミがいくつかある。
「ここの会社が結果待ちということですか?」
「先週の水曜日に面接を受けたので、今週中には連絡がくると思います」
「他は、結果が出ているんですね?」
「全て、不採用でした」
「水越さんは四年制の大学を出ているし、まだ若いし、エクセルやワードは一通りできるし、これだけ受けているならば、採用されてもいいと思うんですよね」
「……なかなか難しくて」
「正社員じゃなくても、アルバイトや派遣でもいいんじゃないですか?」
「正社員がいいんです。だから、もう少し頑張ります」
「どうして正社員がいいんですか?」
「いや、あの、その」理由はあるのに、急に聞かれたので、どう話せばいいのかわからなくなった。
「ちゃんと求職活動してるんですよね?」職員の女性は疑っているような目で、わたしを見る。
「してます! わたし、どうしても、正社員になりたいんです!」
「わかりました。次までに決まるといいですね」
「……はい」
「では、こちらが次回の認定日になります」
「ありがとうございます」認定日が書かれた失業認定申告書をもらい、席を立つ。
廊下に出ると、掲示板に求人票が貼ってあり、人が群がっている。
条件を問わなければ、仕事はいくらでもある。
でも、それでは駄目なんだ。
文房具メーカーに派遣される前は、パン屋さんのバイトで生活しながら就活をつづけることが苦しくなり、正社員を目指す道から逃げた。一年か二年ならば、バイトで暮らしていくことはできた。けれど、十年や二十年先を思うと、怖くなった。待遇は学生アルバイトと同じだ。有休は取れないし、社会保険にも加入していなかった。風邪をひいて休めばお金はもらえなくなり、もしもパン屋さんが潰れたとしても保障は何もない。とにかく状況を変えたかった。派遣先が決まり、正社員登用の約束をしてもらえた時には、これで良かったんだと思えた。
それなのに、こうしてまた求職活動をすることになった。
終身雇用なんて夢でしかないのかもしれない。でも、三年で契約を切られるような働き方では、同じことを繰り返す。来月の誕生日で、わたしは二十六歳だ。三年後には、今以上に求職活動は難しくなる。
失業保険は、九十日間まで給付される。
一日で約五千円、一ヵ月で十五万円くらいもらえる。給料より少ない額だが、生活できないというほどではない。貯金も二十万円ある。派遣会社の担当者さんにお願いすれば、次の派遣先を紹介してもらえる。でも、今度は正社員になるまで、諦めないと決めた。
大学生の頃に資格を取ったり、留学したりすればよかったのかもしれない。友達に誘われるまま、ボランティアサークルに入ったけれど、熱心に活動していたわけではない。熱心な人たちが、発展途上国への支援がどうこうと話しているのを、ぼんやり聞いていただけだ。資格は、高校生の時に取った英検準二級と大学生の時に取った漢検二級しか持っていない。卒業して三年以上が経つのに、面接でアピールできるようなことが見つからないままだ。
求人票を一通り見てから廊下の先まで行き、エレベーターで一階に下りて外に出る。
ビルとビルの間に浮かぶ太陽は、全力でアスファルトを熱している。
蝉の声が、耳鳴りのように聞こえる。
街路樹はあるけれど、蝉なんていそうにない。
遠くまで見ようとしても、高いビルに視界を遮られた。
どうしてこんなところにハローワークを建てることにしたのか、同じ通り沿いには人気のセレクトショップやSNSで話題のカフェが並んでいる。まだ午前中だけれど、夏休みだからか十代の子がたくさんいる。休み中限定という感じの金に近いくらい茶色い髪の女の子たちがピンク色のアイスクリームをスマホで撮っていて、さっきまでいた場所とは違う色鮮やかさに、軽いめまいを覚える。
せっかくだから、どこかで買い物をしてお茶を飲んでゆっくりしていきたいけれど、そんなことができるお金はない。
一人で暮らすアパートの家賃が六万円、食費、光熱費、スマホの通信費、生活するために必要なお金はこれくらいだ。しかし、払わなくてはいけないものが他にたくさんある。六月の半ばに住民税の通知が来た。支払い日は年に四回あり、六月末が一回目で、今月末が二回目だ。収入が多かったわけでもないのに、結構な額の請求が来た。十月には、アパートの更新料で家賃の一ヵ月半分の額が必要になる。国民年金や国民健康保険、NHKの受信料も払っている。
何も見ないようにして、駅へ向かう。
アパートに帰ると、郵便受けに高校の友達から結婚式の招待状が届いていた。式は、十月だ。六月の終わりにも、高校の友達の結婚式があり、そこに出席した時に彼女と会って結婚の報告を受けた。「式に来て」と言われて、断れるはずがない。九月の初めには、大学のサークルの先輩が結婚する。二次会の受付をやってほしいと頼まれた。去年の終わりから今年にかけて、女友達の何人かが学生の時から付き合っている彼氏と結婚した。派遣社員なので契約外である日曜や祝日出勤はなかったから、「仕事が忙しくて」という言い訳は使えず、呼ばれた結婚式には全て出席した。
友達がウェディングドレスを着て、幸せそうにしている姿を見られるのは、嬉しい。高校や大学の友達と会えるのも、楽しみだ。でも、手にした招待状に、血の気が引いていく。会費制のパーティであることを期待して開封してみたが、都内にあるホテルが式場だった。
ご祝儀、どうしたらいいんだろう。
†
ワンピースを着て、鏡の前に立つ。
サークルの先輩の結婚式は午後からなので、余裕を持って準備ができる。
結婚式のために、ワンピースを買ってしまった。
前に着たもので行けばいいと思ったが、文房具メーカーで働きはじめた頃に買ったワンピースしかなくて、五回は結婚式で着ている。アクセサリーやショールで雰囲気を変えるという技も、もう限界だ。
わたしが呼ばれる結婚式は、高校生か大学生の頃の友達のものだ。この二パターンから更に、バドミントン部の友達や先輩、クラスの友達、ボランティアサークルの友達や先輩、バイトの友達と細分化されていく。けれど、部活もクラスも一緒だった友達とは、何回も会うことになる。基本的なメンツは、あまり変わらない。見栄をはりたいわけではなくても、同じワンピースで何回も行くのは恥ずかしかった。
それしか見ないと決めて、セレクトショップに行った。試着した後も一度は断り、悩みに悩んだ。結婚式はこれからもあるし、頑張って節約してきたし、夏の最終セールで半額から更に二割引きになっているしと思い、買うことにした。
レースやビジューはついていないシンプルなワンピースだ。前のは黒だったので、青にした。ロイヤルブルーと呼ばれる濃いめの青だ。胸元はボートネックでそんなに開いていなくて、フレンチスリーブだから、結婚式に出るのでもショールは必要ない。ひざ丈で、腰から下はふわりと広がっている。
お財布から一万円札を出した時、胃が痛くなるような感じがして、やっぱりやめますと言おうか迷ったが、買って良かった。
鏡にうつる自分を見たら、気分が上がるのを感じた。
わたしの周りにうつっているのは、大学二年生の秋から住んでいる六畳一間のアパートのキレイとは言えない部屋だ。掃除はしているけれど、小さな押入れしかなくて、服や本を整理しきれない。六年も住んでいるから、壁紙が薄汚れている。失業保険をもらうようになってからずっと、面接かハローワークに行く以外は、できるだけ外に出ないようにしていた。電気代が高くなるので、どんなに暑くてもクーラーはつけず、扇風機しか使わないで耐えた。
新しいワンピースを着ただけで、狭い部屋で鬱々としていた気持ちが晴れ渡っていく。
セール品だったから返品はできないし、悩んでも無駄だ。
色も形も、わたしによく似合っている。
かわいい服を着て、先輩の結婚式に出席して、友達と会うのを楽しんだ方がいい。
就職できないことを深刻に考えすぎていたせいで、採用されなかったのかもしれない。頑張りますという熱意は大事だけれど、必要以上の必死さは余裕がなくて、怖く見えるだろう。
ご祝儀の三万円も用意できた。
出費が重なり、どうにもならないと感じてしまっていたが、冷静になった方がいい。失業保険はまだもらえるし、貯金もある。焦らなくても、大丈夫だ。
しかし、美容院には行かずに髪は自分でセットして、お化粧をする。
九月になっても暑い日がつづいている。髪はコテで巻いてからアップにして、百円ショップで買ってきたヘアピンで留める。メイクも、百円ショップで買ってきた化粧品を使い、普段より少しだけ派手にする。
大学生の頃は、一人暮らしの友達で集まり、お金がなくても遊べる方法を考えた。自転車で三駅先の格安スーパーまで行って食材を買ってきて鍋パーティをしたり、無料で遊べるレジャー施設に行ったり、百円ショップで材料を揃えて棚を作ったり、楽しいことはたくさんあった。
節約していても、充実した生活はできるはずだ。
後ろ向きにならず、前を向かなくてはいけない。
電車に乗り、結婚式に向かう。
今日の式場は、都心にあるホテルだ。
電車賃さえも惜しいと感じたけれど、考えないようにする。高校生の頃の友達は、地元の静岡のホテルで式を挙げる人が多い。東京からもっと遠ければ、それを理由に断れるが、静岡県の中でも神奈川県寄りの方だから日帰りできる。新幹線代は出してもらえないことがほとんどだ。東海道線や長距離バスでも行けるけれど、時間がかかる。往復のどちらかは、新幹線に乗ることになる。それに比べれば、都内の地下鉄で行ける場所の交通費なんて、安いものだ。
式場の案内に書いてあった駅で降りて、改札を出る。
オフィス街だからか、日曜日の今日は、あまり人がいない。
高校を卒業して東京に出てきて七年以上が経つのに、未だにこの街に慣れることができない。
地下鉄の駅一つに対して、出口が多すぎる。
いくつもある表示を見ても、どちらへ行けばいいのか、わからなかった。
スマホで調べた方がよさそうだと思っていたら、後ろから背中を強く叩かれた。
振り返ると、雨宮がいた。
雨宮は、白のワイシャツに黒のパンツという学生服みたいな格好をしている。ジャケットとネクタイは、手に持っていた。
「久しぶり」雨宮が言う。
「久しぶり。背中、痛いんだけど」
「そんなに強く叩いてねえよ」
「男と女は、力が違うの」
「はい、はい。結婚式、行くんだろ?」
「雨宮も、行くんでしょ?」
「式場、わかる?」
「わかんないから、調べようと思って」
「こっちだろ」そう言って、先に行ってしまう。
早足で歩いていく後ろ姿を追いかける。
雨宮についていけば、迷うことはない。
「会うの、いつ以来?」話しながら、雨宮は出口の表示を確認する。
「去年の夏の飲み会以来かな」追いついて、地下通路を並んで歩く。
「その後に、高校の同窓会みたいなのあったじゃん」
「ああ、東京会ね」
「そう、そう。十一月頃」
「じゃあ、それ以来だね」
高校でも大学でも、雨宮とは一緒だった。でも、高校生の頃は、話したこともなかった。一年と三年の時に、同じクラスだった。わたしは、良くも悪くも目立たないように、高校生活を送っていた。雨宮は、中心グループにいたわけではないのに、とても目立っていた。正義感が強くて、関わらなくてもいいことにしょっちゅう首を突っ込んでいたからだ。誰も近づかなかったおとなしい男子に声をかけて友達になったり、どこかの家から逃げ出した鶏を学校に連れてきて飼い主をさがしたり、体育祭で当然のように応援団長を任されたりしていた。顔はいい方だし運動神経もいいから黙っていればもてそうなのに、異常に陽気な人にしか見えなかった。正直に言えば、苦手だと感じていた。
卒業して東京に出てきた友達は何人かいて、同じ大学にも何人かいた。しかし、同じ学部には雨宮しかいなかった。わたしたちの通った大学は、偏差値は普通レベルでも、規模は日本でトップクラスと言える。校舎を一ヵ所にまとめることができず、都内に各学部の校舎が点在している。つまり、近くには雨宮しか知り合いがいないという状態から、わたしの東京生活は始まった。
近寄らないようにしようと思っていたのだけれど、向こうから声をかけてきた。入学式よりも前の新入生ガイダンスの時だった。広い階段教室に入った瞬間に「水越さん!」と、大声で呼ばれた。先に来て、教室の真ん中の席に座っていた雨宮は、両手を振ってわたしを見ていた。逃げたくても、逃げられなかった。だが、嫌だと感じたのは、その一瞬だけだ。
大学でも、陽気な性格を発揮していた雨宮は、とても頼りになった。わたしが東京に怯えて人見知りしている間に、雨宮はボランティアサークルに入って、友達をたくさん作った。先輩や友達から聞いてきた情報の全てを、わたしにわけてくれた。頼れる男だ、とすぐに印象が変わった。
わたしをボランティアサークルに誘ってくれたのも、雨宮だ。二年生の秋まで、わたしは大学の近くの女性限定アパートに住んでいた。そこでの生活がうまくいかずに悩んでいた時、引っ越し先を探して荷物を運ぶ手伝いをしてくれたのも、雨宮だ。わたしの人生最初の彼氏を紹介してくれたのも、雨宮だった。
「今、仕事は、何してんの?」話したくないことを雨宮は聞いてくる。
「失業中」正直に答える。
「文房具は?」
「派遣期間終わったから」
「正社員になれるんじゃなかったのかよ」
「会社の業績悪化でねえ。好景気になりつつあるとか言われてるけど、まだまだってことだよ」
「だって、正社員登用って、約束してたんだろ?」口調が厳しくなっていく。
「口約束だから」
「いや、口約束でも、約束じゃねえか」
頼れる男だけれど、雨宮はしっかりしすぎていて、たまに鬱陶しい。正義感の強さは、高校生の頃のままだ。
「約束は守られないこともあるんだよ」
「どうして守ってもらえないのか、ちゃんと聞いたのか?」
「聞いたよ。業績悪化って言ったじゃん」
「それだけで、引き下がったのか?」
「うん」
「だから、水越は駄目なんだよ」
「何が?」
久しぶりに会ったのに、話し方がけんか腰になってしまう。
「いい人のフリなんかしないで、文句言ったりしろよ」
「言えないよ。だって、部長はちゃんと考えてくれてたもん」
「本当に、ちゃんと考えてくれたと思うか?」
「思うよ。派遣会社の人に言う前にわたしに話してくれたし、気まずそうにしてたから」
「そういう演技だよ。水越の転職先を考えたりはしてくれてないんだろ?」
「それは……」
わたしもちょっとだけ、そう感じていた。気まずそうにしていた部長は、会議室から戻ると、すっきりした顔で仕事をしていた。ちゃんと考えたという建前をつくり、わたしから何も言われないようにしたのだと思う。文句を言いたくなったけれど、言ったところで、どうにもならないことはわかっている。揉めるだけ無駄なのだから、黙っていた方がいい。その後、部長から転職先について聞かれることはなくて、辞める日も何も言われなかった。
「辞めた会社について考えてもどうしようもないし、その話はもういいよ」
「良くないだろ」
「雨宮は、どうしてんの?」
「普通に働いてるよ」
「そう」
「安泰の公務員だからな」
雨宮は、区役所の福祉課に勤めている。
失業保険についても詳しいかもしれないと思い、これからのことを相談してみようと派遣期間が終わったばかりの頃に考えたが、やめた。楽してお金を得ようとしている、と怒られる気がした。
大学生の頃は怒られようが何されようが、全てを雨宮に話していた。恋愛のことまで全て話して、彼氏から「やめろ」と注意されたこともあった。わたしと雨宮は、手を繫いだこともないのに、お互いがどんなセックスをしているのかなんとなく知っている仲だ。しかし、雨宮の就職が決まった頃から、話せなくなった。どんなに怒られても同じレベルにいたはずの友達が、遠くへ行ってしまったように感じた。
今は、雨宮に怒られると、ただただ惨めになる。
大学生の頃は毎日のように一緒にいたのに、卒業してからは、たまにしか会わなくなった。飲みに行こうと雨宮が連絡してきても、わたしが断った。
「あれは? 彼女は?」仕事のことから話を逸らすために、わたしから聞く。
「別れた」
「なんで?」
「向こうの浮気」暗い表情をして、雨宮は小さな声で言う。
「へえ、そうなんだ。大変だったね」悪いと思いながら、笑ってしまう。
女運の悪さは、雨宮の唯一の欠点だ。精神的に問題を抱えている子を放っておけなくて優しくするうちに、付き合うことになる。雨宮と付き合って健全になったように見えた女の子は、音信不通になったり手首を切ったりして、またすぐに問題を起こす。大学生の時に、見知らぬ女の子から「雨宮君を取らないで!」と、言われたことが何度かある。取る気は全くないけれど話が通じないので、わたしは「すいません!」とだけ言い、走って逃げた。
「水越は? 彼氏は?」
「いない」
「いつから、いないんだよ?」
「去年の終わりからだから、そんなに前じゃないよ」
文房具メーカーの経理部の人と付き合っていたが、友達の結婚式の話をしたのがいけなかったのか、別れたいと言われた。派遣期間がもうすぐ終わるから結婚したい、とわたしが考えているように見えたのだろう。考えていなかったわけではないけれど、そこまで強く願っていたわけではない。でも、相手には、重かったようだ。一年半付き合ったのに、別れ話はほんの十分もかからずに終わった。
「お互いにフリーってことか」呆れたように笑う。
「そうだねえ。友達は、結婚していくのに」わたしも、笑ってしまう。
おもしろいわけじゃないけれど、雨宮と自分が同じところにいると感じられて、少しだけ安心した。
「静岡、帰ってる?」雨宮がわたしに聞く。
「結婚式に呼ばれて、帰ったよ」
「実家は?」
「帰ってない」
「電話くらいしてんだろ?」
「しないよ。向こうからもかかってこないし」
仕事のこと以上に、嫌な話になってきた。
「弟は?」
「知らない。自分は? 帰ってんの?」
「オレも、正月に帰っただけだな。結婚式、呼ばれないし」
「男子で結婚した人は、まだそんなにいないでしょ」
「そうだな。今日、式の後は? なんか、予定あんの?」
「ないけど、二次会の受付頼まれてんだよね。片付けも手伝う約束だから、遅くなるかも」
「相変わらず、面倒くさいことを押しつけられてんな」
「そんなことないよ」
「あるって。サークルの時だって、バーベキューの仕切りとか花見の場所取りとか任されてただろ。水越は、もっと強気になって、断らないと。我慢して、いい人ぶっても、便利に使われるだけだからな」
「自分だって、一緒に花見の場所取りしてたじゃん」
「そうだな」
「そうだよ」
「今日、新婦側だろ?」
「うん。新郎側でしょ?」
サークルの先輩同士が結婚するので、女子は新婦側、男子は新郎側で呼ばれた。
「式中も二次会も話せないだろうし、またゆっくり飲みに行こうぜ」
「そうだね」
「失業のことも聞きたいし」
「ああ、うん」
真面目に話せば、雨宮は怒らずに聞いてくれる。知り合いに頼んで、仕事を紹介してくれるかもしれない。でも、それでは駄目だ。大学生の時、わたしはずっと雨宮に甘えていた。誰にも甘えず生活できるようにならなければ、自立にならない。もう大学生ではないのだから、困ったことが起こるたびに、雨宮を頼るわけにはいかない。
「連絡するから」
「うん」
「ここ出たら、目の前だよ」雨宮は、出口の表示を指さす。
階段を上がり、外に出る。
ビルの間に、青い空が広がっている。
空がいつもよりも遠いように感じた。
二次会の受付を頼まれた時は、面倒くさいと思ったのだけれど、引き受けて良かった。
式の前や披露宴の間は、周りに新郎新婦の親戚や会社関係の人もいたので、友達や先輩と当たり障りのないことしか話さなかった。お互いの近況報告をしても、深くは聞かないようにした。失業中であることを雨宮には話せても、他の友達には言いたくない。正社員で忙しく働いていたり、派遣でも結婚を考えている彼氏がいたりする女友達に現状を話せば、雨宮に話した時とは違う惨めさに襲われるだろう。勝ち組負け組とか、女同士のマウンティングとかに興味ないと思っても、敗北感を覚える。負けっぱなしだから、興味ないだけだ。どうしているのか聞かれて、噓はつけないので、「文房具メーカーで働いてたんだけど、貯金もあるからしばらく休む。海外でも行こうって考えてる」と、余裕のあるフリをした。彼氏についても、「結婚の話が出るようになって、わずらわしくなっちゃった」と、まるで向こうが結婚を望むようになったから別れたかのような言い方をした。
披露宴が終わって、友達同士だけで話せるようになると、仕事のことも恋愛のことも、一気に話が深くなっていく。喋っている友達に、「二次会の受付頼まれているから」と言って、先にホテルを出て会場に来た。
ホテルの近くにあるイタリアンレストランを貸切にしている。
披露宴に出席できなかった人も、集まっている。親戚や会社関係の人は呼んでいないみたいで、新郎新婦の学生時代の友達ばかりだ。サークルのOBやOGが多くて、ほとんどの人をわたしも知っている。
入口のガラス扉の前に、受付用のテーブルと椅子が並んでいる。
ビルの中にあるので、店の外でも、暑くはない。
二次会が始まれば終えていいと言われたのだけれど、遅れてくる人もいたので、そのまましばらく受付にいることにした。
新郎に頼まれたというもう一人の受付の男性には、「後は、やっておくからいいですよ」と伝えて、中に入ってもらった。
座ったまま、ガラス扉の向こうで盛り上がっている人たちを見る。
大学生の時は同じように貧乏で、バカなことばかりやっていた友達なのに、いつどこで差がついてしまったのだろう。
友達はみんな、かわいいワンピースを着て、ブランドものの靴を履き、高そうなバッグを持っている。髪も、美容院でセットしてきたのだと思う。
アパートで鏡を見た時は、お金がなくてもこれだけのことができると満足したのに、友達に囲まれたら自分のみすぼらしさが気になった。セールで買ったワンピースも、会社にも履いていっていた黒いパンプスも、結婚式だけではなくてお葬式にも持っていっている黒いバッグも、悪いというほどではない。しかし、どれも安っぽさや使いこんでいる感じがあり、それが集まると、貧乏臭さに変わる。髪も、自分でセットしたから、崩れてきている。
正社員で働いている友達だって、みんながみんな、いい会社に勤めているわけではない。社会人になってまだ四年目だから、それほど給料が高いわけではないと思う。先輩たちだって、五年目や六年目だから、同じくらいだ。どうやって、あのワンピースやバッグや靴を買ったのだろう。
派遣で働いていた頃だって、わたしは洋服や靴やバッグには、お金をかけないようにしていた。どうしても欲しいものは定価で買ったが、他は我慢してセールを待った。プチプラと言われているファストファッションのブランドの服だって、何日も考えてから買った。できるだけ貯金して、一泊二日で温泉に行くのだけが楽しみだった。それだって、年に一回行ければいい。
披露宴の時に話しているのを聞いていたら、みんなは年に一回は海外に行っているようだ。LCCではない飛行機で、アメリカやヨーロッパやどこにあるのかわからない島に行っている。海外なんて、卒業旅行でロンドンに行ったことしかない。
みんなは、給料ではないところからお金を得ているのだろうか。
ニュースサイトに、昼は会社に勤めながら夜の仕事もする女の子が増えている、という記事があった。給料だけではやっていけなくて、副業で稼いでいるらしい。マイナンバー制度がはじまり、キャバクラなどのお店で働くと会社にばれる可能性があるので、個人で客をとって身体を売っている女の子も多いという内容だった。エロ小説みたいな話で、噓だと感じた。しかし、みんな隠しているだけで、そういうことをやっているのかもしれない。
大学生の時に、地味な女の子がいきなり派手になったので、どうしたのかと思ったら、愛人契約したと話していた。街で声をかけてきたおじさんからお金をもらい、洋服を買ってもらったということだった。定期的に会うために、月額で契約したらしい。良く考えれば、映画の『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』みたいとも言えるが、彼女はおじさんと肉体関係があった。ただの売春行為だ。自慢するみたいに話していて、みんなで呆れた。彼女がいなくなってから、気持ち悪いよねと言い合った。水商売で働いているような子も他にいなかったし、身体を売るなんてありえないことだ。みんな、そこまでお金に困っているわけじゃないし、売春なんてしているはずがない。
どうにかして、友達より遥か下にいる自分を肯定したくて、嫌なことを考えてしまった。
大学には、実家から通っている子も多くいた。一人暮らしで貧乏している友達も、本気で貧しかったのは、親から生活費をもらっていなかった数人だけだ。お金ないと言いながら、仕送りを使い切って、別にお小遣いをもらい、洋服や化粧品を大量に買っている友達もいた。今もまだ実家に暮らしていたり、親から支援してもらったりしているのだろう。家賃や光熱費を払わないでよければ、わたしだって、もう少し贅沢な暮らしができる。
「水越」ガラス扉を開けて、雨宮が出てくる。
「何?」
「中、入れば」
「まだ遅れてくる人がいるし」
「ここは、オレがやるから。会費もらっておけばいいんだろ」
「いいよ」
「みんなと話さなくていいのかよ」
「うーん、なんか、話しにくくて」
「なんで?」雨宮は、隣に座る。
「失業中だし、彼氏もいないし」
「そんなの、気にしないだろ?」
「女は、気にするんだよ」
「下らねえな」
「役所に勤めていて、まあまあもてる雨宮には、わかんないよ」
「まあまあじゃなくて、すごくもてるけどな」
「すごくは、ない」
「あるって」
「いやいや、高校生の時に女子の全員が、雨宮君はヤバい人って言ってたから」
「マジで?」
「マジ」
雨宮と話していたら、落ちこんだ気持ちが楽になってきた。
お互いにフリーなのだし、このまま雨宮と付き合って結婚できれば、安定した生活が送れる。雨宮は浮気しないし、仕事を辞めたりもしない。区役所だから、倒産もない。子供が好きなので、いいお父さんになる。結婚相手として、これ以上の人はいない。恋愛として好きだと思ったことはないのに、雨宮と付き合える女の子をうらやましいと感じたことがあった。音信不通になったり手首を切ったりする彼女なんて、かまってほしいだけなのだから放っておけばいいと言っても、雨宮は本気で心配していた。彼は、全力で恋人に優しくする。だから、相手をより駄目にしてしまう。あんな女の子たちより、わたしと付き合えば、雨宮も幸せになれる。
でも、わたしと雨宮が付き合うことはない。
他の男の子だったら、ちょっといいなぐらいの気持ちでも、とりあえず付き合ってみようと思える。けれど、雨宮とは真剣に好きにならなければ、付き合えない。
「ちょっとショックだなあ」雨宮が言う。
「気づいてなかったの?」
「うん」首を縦に振る。
「学校に鶏連れてきたら、ヤバい人って思われるんだよ」
「そうかあ、鶏のせいか」
「それだけじゃないけど」
「他に何かあるのか?」
「あと、なんだろう」
「まあ、それはいいや。とにかく、中に入れよ。愛ちゃんと話したいっていう男もいるから」
「なんで、下の名前? セクハラ?」
「なんかそう呼ばれてた」笑いながら、雨宮はわたしを見る。
「それ、酔っ払ってんでしょ」
「愛ちゃんがいつまでもここにいたら、オレが怒られちゃうよ」
「やめて。雨宮に愛ちゃんって呼ばれるの、気持ち悪い」
「失業中でも、彼氏がいなくても、水越はまあまあかわいくて、まあまあもてるんだから、大丈夫だよ」
「知ってる」
向かい側にも、お店がある。今日は休みなのか、電気がついていない。ガラス扉に、わたしと雨宮がうつっている。
美男美女というほどではなくても、まあまあの二人で、いい組み合わせだ。
近寄りがたいほどの美人よりも、まあまあぐらいの方がもてるんじゃないかと思う。高校生の時は、バドミントン部の友達とばかり一緒にいて、恋愛とは縁遠い感じだった。けれど、大学一年生の夏休み前に初めて彼氏ができてからは、それなりにもててきた。就活の面接の時以外にも、バイト先でセクハラされたことがあった。文房具メーカーでも他部署の男性社員からセクハラされた。美人でもブスでもないから、声をかけやすいのだろう。
正社員になれなかったとしても、二十代のうちに結婚して、専業主婦になれると考えていた。結婚すれば安心というわけじゃないけれど、生活費を出してもらえるようになる。あと四年の間に、結婚相手と巡り合えるとは、とても思えない。転職もできそうにないし、これからどうしたらいいのだろう。
†
失業保険の受給期間が終わっても、転職先は見つからなかった。
十月の終わりに、アパートの更新料と十一月分の家賃を払った。住民税の三回目の支払日もあり、貯金を使うしかなくなった。
正社員にこだわっている場合ではない、アルバイトでも派遣でもいいから働かなくてはいけない。そうわかっているのに、面接に行く気力もなかった。部屋の隅で丸くなり、連続して届いた不採用通知のことばかり思い出していた。食費を削るために、一日に一食しか食べていなかったので、体力もない。十一月に入り、風邪を引いた。病院に行けず、薬も買えず、何日も眠りつづけて治した。CDや漫画や本を売り、洋服や家電も売り、売れるものを全て売って、どうにかしてお金を用意して、十二月分の家賃を払った。
年末年始の短期バイトをして、とりあえずお金を稼ごうと思ったが、なぜか面接で落とされた。学生の子が多そうだったから、求人情報には書いていなくても、年齢制限があったのかもしれない。もう二十六歳になってしまったわたしは、どこにも採用してもらえないのだろう。お金は減るばかりで、スーパーで一番安いお米を買うだけでも、手が震えた。お財布の中のお金を一日中数えつづけたところで、増えることはない。
十二月の終わり、残っているのは、一ヵ月分の家賃と同額の六万円だけになった。これで一月分の家賃を払ってしまえば、食費も光熱費も通信費も、払えなくなる。
そして、このままだと、二月分の家賃も三月分の家賃も、その先の家賃も払えない。管理会社の人に事情を話せば、三ヵ月くらいは、待ってもらえるかもしれない。でも、その三ヵ月分は、借金することになる。もしどこかに採用してもらえたとしても、返す額を貯めるまで何ヵ月もかかる。誰かにお金を借りたところで、同じことだ。何万円も借りられる相手もいない。
住む場所や衣服がなくなっても、生きていける。けれど、食べなかったら、死んでしまう。今の日本で、餓死なんてありえないと思うが、現実として迫ってきている。家賃よりも、食費を選ぶべきだ。
管理会社に電話して、アパートの解約の手続きをした。部屋にあるもので持って出られないものや売れないものは、全て捨てた。粗大ごみや大型家電の回収にお金がかかった。しかし、家賃をもう払えなくなったと話したからか、敷金を全額返してもらえることになった。一月には、家賃二ヵ月分の十二万円が振りこまれる。そのお金があれば、あと一ヵ月はここに住めると思ったけれど、住むならば、もらえないお金だ。払ったばかりの更新料は、返してもらえなかった。
卒業旅行でロンドンに行った時に買った赤いスーツケースに、入れられるだけの洋服や生活用品を詰めこんだ。
何もなくなると、狭いと感じていた部屋は、意外と広かった。
部屋を出ると、年越しの準備をする人たちの声が聞こえた。はしゃぐ人たちから逃げるように、歩きつづけた。
大晦日、わたしはホームレスになった。
◇ ◇ ◇
百円のコッペパン
テレビで「工場潜入!」みたいな番組をやっていると、よく見ていた。
配送用の箱を折りつづけたり、ベルトコンベアーで流れてくるコッペパンに生クリームを絞りつづけたり、できたお菓子をケースに詰めつづけたりしているのを見て、楽しそうと感じていた。文房具メーカーで派遣社員として働いていた時は、庶務の仕事も担当していたため、出勤してから退勤するまで細かいことをいくつも頼まれた。自分の席でお弁当を食べている時でも、ボールペンちょうだいと言われる。お昼休みだから待ってくださいと断ることはできない。何も考えず、ひとつのことだけやっていればいい単純作業がうらやましかった。一日中同じことをつづけたら、ランナーズ・ハイみたいになるんじゃないかと思っていた。
しかし、そんなことはない。
大晦日にホームレスになり、もうすぐ一ヵ月が経つ。
今もまだ、ホームレスのままで、漫画喫茶で寝泊りしている。
お金が必要なので、正月三が日が終わってすぐに、日雇いのアルバイトを始めた。
働ける日を派遣会社のサイトに登録しておくと、前日のお昼すぎに仕事の集合場所や拘束時間や時給が書かれた案内がメールで送られてくる。余程の理由がないかぎり、断ることはできない。断った場合、仕事を紹介してもらえなくなる。都内かその周辺の工場や宅配便の倉庫に派遣されることが多い。派遣会社での登録会に持っていった履歴書には、前に住んでいたアパートの住所を書いた。個人の面接はなくて、注意事項や給与の支払いについて説明を受けただけだ。文房具メーカーに派遣される前は、派遣会社で面接を受け、働き方の希望やどんな仕事がいいのか担当者と相談した。日雇いバイトでは、何も聞かれなかった。
今日は、どこにあるのかよくわからない宅配便の倉庫に派遣された。
集合場所は、都内のオフィスビルが建ち並ぶ駅の近くだったのだが、そこからバスに乗せられて、ここまで来た。都心を離れ、マンションやコンビニが減っていき、倉庫や工場しかなくなったところで、バスから降ろされた。三十分もかかっていないので、東京から遠いところまで来たわけではないけれど、都内ではないと思う。
そこで、段ボール箱いっぱいに入った子供服の在庫数を調べるのが今日の仕事だ。
箱をひっくり返してテーブルの上に全部出し、洋服につけられているバーコードを読み取っていく。夏物のTシャツやスカートやズボンばかりだ。保管しておいて、セールの時に出すのだろう。たたみ直して箱に戻しながら、枚数をかぞえる。全部を戻したら、読み取ったバーコードの数と自分でかぞえた数があっているのか、確認する。だが、この数が不思議なほど合わない。ちゃんとバーコードを読み取れていないのかもしれないし、わたしがかぞえ間違えたのかもしれない。どちらかわからないので、もう一度箱から出して数え直す。
「これって、コツとかあるんですか?」隣に座る女の人の作業が一段落するのを待って、聞く。
しかし、答えてもらえない。
わたしの声なんか聞こえていないような顔で次の箱を開け、テーブルの上に子供服を出す。
卓球台くらいの大きさのテーブルを囲み、六人で作業している。わたし以外の五人は、何度かここに派遣されてきているみたいで、作業を始める前にお喋りしていた。五人とも女性で、年齢はわたしより十歳くらい上の三十代半ばだと思う。優しそうに見えたし、お喋りしながら楽しく作業ができるんじゃないかと考えていたら、始業ベルが鳴る少し前にリーダーみたいな男の人が来て、全員が黙った。
彼は、子供服会社の社員ではない。ここの倉庫を任されているが、わたしと同じ派遣のアルバイトだ。日雇いではなくて、三ヵ月とか半年とか長期で契約している。立場は変わらないはずなのに、見下している目でわたしたちを見た。小さな声で、バーコードの読み取り機の使い方と表の記入方法を説明して、どこかへ行ってしまった。広い敷地内にはいくつもの倉庫が並んでいるから、別のところで作業しているのだろう。わからないことを聞きたくても、業務中はトイレに行くのも禁止されていて、担当する倉庫から出られない。
リーダーがいなくなった後も、お喋りせず、全員が黙って作業を進めている。かぞえ間違いなんかしないみたいで、次々と箱を開けていく。わたしはまだ二箱しか終えていないのに、他の人たちは四箱か五箱目だ。
昨日は、今日と同じ場所に集合して、違うバスに乗って海の方まで行き、橋を渡った先の埋立地にある工場へ行った。工場の奥の作業スペースで、スマートフォンを入れる箱を折りつづけた。細かい作業なので、肩が凝った。指先の水分は紙に奪われていくし、目も痛くなってくる。速く折るためのコツを摑むまでは工作みたいで楽しかったが、その後は単純作業だ。自分はロボットになったのだろうかと感じるほど、同じ動作をつづける。全然楽しくないし、ランナーズ・ハイみたいにもならない。それに比べたら、今日は作業に変化があるからいいと思ったのに、辛い。
日雇いバイトは、とにかく数をこなすことが求められる。ノルマがあるわけではないけれど、作業が速ければ、リーダーのように長期契約してもらえることもある。始業前にお喋りしていても、友達ではないし、仕事仲間でもない。他の人より仕事が速いことをアピールして、長期契約したいのだろう。そのためには、仕事が遅い人の相手をしている暇なんてない。
倉庫や工場はどこも、寒い。暖房は入っているみたいだが、全然効いていない。作業中は座ったままで動けないので、足が冷えていく。カビ臭くて薄暗いし、働きたいと思える環境ではない。
「進んでますか?」リーダーが戻ってくる。
「はい」わたし以外の五人が声を揃えて、返事をする。
「進んでないんですか?」わたしを見て、リーダーが言う。
「すいません。なんか、数が合わなくて」
「ただかぞえるだけでいいのに、そんなこともできないんですか?」
「いや、なんか、かぞえ間違えちゃったんだと思います」
「社会科見学気分で来てるんですよね?」
「えっ?」
「君さ、大学出てるでしょ?」
「……はい」
「卒業後は、何してたの?」
なぜ、この人にそんなことを聞かれなくてはいけないのだろう。彼は、ここのリーダーだけれど、わたしが経歴を話さなくてはいけない相手ではない。わたしは、ここで長期契約してほしいなんて思わないし、できれば二度と来たくない。今日の仕事に関しては、彼の指示に従うが、今日だけのことだ。
「何してたの?」もう一度聞いてくる。「これくらいのことも、まともに答えられないの? オレのこと舐めてんの? それとも、大学出てるのに、バカなの?」
「文房具メーカーで働いていました」派遣社員だったことは、言わないでおく。
「そこを辞めて、次の仕事先が決まるまでの繫ぎって感じなんだろ? それか、あれか、寿退社して、お小遣い稼ぎみたいなことか?」
「違います」
「じゃあ、何?」
「……作業進めます。間違えないように気をつけます」
「気をつけなくても、間違えねえんだよ。普通は」そう言って、リーダーは倉庫から出ていく。
箱に戻した分も改めてテーブルに出して、かぞえ直す。
彼のようにはっきり言ってくる人は珍しいが、どこの現場へ行っても、差別されていると感じる。
日雇いバイトの派遣会社の登録会には、わたし以外にも十人くらいが参加していた。登録会の間中、履歴書を机の上に出していたので、見るつもりはなくても見えてしまった。お小遣い稼ぎの大学生や主婦もいたが、他では職に就けそうにない感じの人もいた。彼らや彼女たちは、ずっと下を向いていたり、登録会の担当者に的外れなことをしつこく聞いたりした。学歴を見ると、中卒や高卒だった。いくらでもアルバイトを選べるような大学生や主婦は、二回か三回働いて目標額が貯まったらやめるのだろう。どこの現場に行っても、そういう人は少ない。他では職に就けそうにない感じの人ばかりの中に入ると、わたしは異物として扱われる。
業務中にお喋りはしないから、わたしの経歴なんて彼らや彼女たちにわかるはずがないのに、雰囲気から伝わるようだ。逆にわたしも、彼らや彼女たちが中卒や高卒であり、それをコンプレックスに感じていることは、なんとなくわかる。
今日ここにいる人たちも、わたしが中卒や高卒だったら、親切にしてくれるんじゃないかと思う。
彼女たちには学歴がないとしても、住む家はあるだろう。
わたしは学歴はあるのに、仕事はないし、住む家もない。大学を出ても、正社員になったこともないんだ。自分たちだけが辛いなんて思わない方がいい、と言いたくなっても、言わない。
差別意識は、わたしの中にもある。
自分の状況を話して、彼女たちに同情されたくない。
バスに乗って駅まで戻ったら、電車で二十分ほどのところにある派遣会社の事務所へ行く。リーダーのはんこが押してある勤務表を提出して、給料をもらう。時給千円、八時間拘束で、八千円。そこから源泉徴収される。なので、実際にもらえる額は、七千円と少しぐらいだ。一日中、寒い思いをして、嫌な気分になって、七千円と少し。これは、安いのだろうか、高いのだろうか。
「水越さん、うちで働けば?」事務員の男性が言う。
「えっ? 嫌ですよ」
「正社員になれるよ」
「それでも、嫌です」
仕事を選んでいる場合ではないし、正社員になれるならばなんでもいいと思うが、ここでは働きたくない。
ここは、とにかく雰囲気が悪い。
高いビルと高いビルの間に取り残されたような、小さな雑居ビルの三階にあり、全く陽が当たらない。しかし、それだけが原因とは思えない暗さが事務所全体を覆っている。ここにお金をもらいにくる人たちの疲労感や社員のやる気のなさが雰囲気を暗くしているのだと思う。社員は男性ばかりだ。全員がここでの仕事にやりがいを感じていないように見える。ここで働くことになったら、絶対にセクハラされるし、パワハラやモラハラも受ける。
「もう若くないんだから、正社員になれるうちになった方がいいんじゃないの?」
「わかってますけど、嫌なものは嫌なので。失礼します」
もらったお金をお財布に入れて、事務所を出る。
嫌われてもいいという関係は、楽だ。
今後何があっても、ここの事務所で働きたくなるとは思えないから、言いたいことをなんでも言える。
街を歩きまわったり、デパートや本屋さんにある無料の休憩スペースでぼうっとしたり、家電量販店でテレビを見たりして、二十一時になる十分くらい前に駅へ行き、コインロッカーに預けてあるスーツケースを出す。スーツケースは大きめのロッカーじゃないと入らないから、五百円かかる。無駄な出費だと思うが、荷物を置いておける場所は他にないし、アルバイト先には持っていけない。
スーツケースを押して、会社帰りの人たちに逆らうように、駅から離れる。
世界中の高級ブランドが入っているデパートや大型書店や家電量販店の裏側へ行き、広い通りを渡る。
街の名前が書かれた看板をくぐると、光と音が一気に襲ってくる。
ここは、東洋一と言われる歓楽街だ。
ピンクや黄色や紫、何色もの看板が輝いている。
どこの国から来たのかわからない人たちがたくさんいて、いきなり外国みたいになる。英語や中国語や韓国語が飛び交っている。
日本人でも、わたしがこれまでの人生で見たことのないような人たちがいる。キャバクラ嬢やホストと思われる派手な女性や男性以外に、ヤクザにしか見えない強面の人たちも歩いている。彼女たちや彼らの笑い声とスピーカーからエンドレスで流れつづける警察署からのお知らせが混ざり合う。警察署から、客引きは禁止されているとか、ぼったくりには気をつけろとか言われて、聞いている人はどれだけいるのだろう。ちゃんと聞いて、注意できるような人は、ここに来ない。
わたしは、肩より少し長い黒髪をひとつに結び、キャメルのコートにジーンズにボア付きのブーツという格好をしていて、完全に浮いている。街の中心にはシネコンがあるが、そこに行くようにも見えないだろう。
しかし、隅の方までよく見てみると、わたしと似たような女の子が何人かいる。
コンビニの前に、わたしが持っているよりも二回りくらい小さなスーツケースや荷物が詰まったリュックを置き、座りこんでいる。
彼女たちは、わたしよりずっと年下で、十代じゃないかと思う。短いスカートから白くて細い足を出していた。コートを着ているから上半身はわからないけれど、細そうだ。中学生にしか見えない女の子もいる。ぼんやりとした目つきでスマホを見ながら彼女たちは、売春する相手をさがしている。ここに来たばかりの頃は、彼女たちが何をしているのかわからなかった。日が経つうちに、そういうことだと理解した。SNSや出会い系サイトで連絡を取り合った男性と会う場合もあれば、声をかけてきた男性と交渉する場合もあるのだろう。
シネコンの入口の斜め前辺りに立っている女の子は、よく見る。
色が白くて、顔が小さくて、二重の大きな目で、腰まである髪は黒くてまっすぐだ。膝まで隠れるようなグレーのコートを着ていても、手足の長さがわかり、誰よりも目立っている。アイドルや女優にでもなれそうなくらいかわいい。お金を稼ぐ方法は、もっと他にあるんじゃないかと思う。
でも、十代の女の子がどうしてそんなにお金がいるのだろう。最新のスマホが欲しいとか、洋服が欲しいとか、遊ぶお金が欲しいとか理由があるのはわかるが、月に何十万円も必要ない。こんなところにいるよりも、家に帰って、コンビニやファストフードでバイトでもした方がいい。
シネコンの横の道を入り、居酒屋がいくつも入った雑居ビルの地下にある漫画喫茶に行く。
十九時から翌朝五時まで、漫画喫茶ではナイトパックが使える。八時間で千五百円なので、二十一時から五時まではここで過ごす。
受付で、会員証を出す。
「個室のナイトパックでよろしいですか?」店員の男の子が言う。
「はい」
最初にここに来た時は、「通常料金とパック料金がございますが、どうなさいますか?」とか「個室とオープン席、どちらになさいますか?」とか聞かれたのに、今はもう「よろしいですか?」と、決めつけられる。毎日同じ人が受付にいるのではなくて、大学生くらいのアルバイトが交替で入っている。深夜番は、男の子ばかりだ。彼らはきっと、わたしのことを「あの女、ホームレスだろ」と、噂している。
「千五百円になります」
お財布を開き、さっきもらったお金から千五百円を出す。残りは、六千円弱だ。ここから明日のコインロッカー代五百円を出し、食費を出す。日雇いバイトは交通費が出ないから、集合場所まで行く電車賃も出さなくてはいけない。残る額は三千円から四千円くらいだ。バイトの連絡のためにスマホは解約できないので、そこから通信費を払う。他にも、コインランドリー代や最低限の生活用品を買うのに、お金を使う。一ヵ月間毎日バイトに行ったとしても、十万円も貯まらない。
前のアパートの敷金が返ってきたので、合わせれば、家賃の安いアパートを借りられる。しかし、その先ずっと家賃を払いつづけられる自信を持てなかった。
永遠に日雇いバイトに行くのかと思うと、それだけで吐きそうになる。
まずは、長期でできる仕事を見つけなくてはいけない。
「お席、こちらになります」番号の書かれたレシートを出し、店員の男の子が言う。
「ありがとうございます」レシートをもらう。
漫画が並ぶ棚の間を歩き、オープン席の間を抜けて、個室の中から番号を探す。
オープン席の方が料金は安いのだけれど、椅子とテーブルがあるだけだから、眠れない。スーツケースを置く場所もないし、安全性が低い感じもする。
個室といっても、一畳くらいしかない。仕切りの高さは二メートルもないだろう。だが、内側から鍵はかけられるし、フルフラットになるソファーと足置きがあるし、パソコンもある。安心して眠れる上に、動画を見たり、仕事を探したりもできる。
貴重品の入ったショルダーバッグを肩からかけたまま個室を出て、ドリンクコーナーへ行く。
千五百円には、飲み放題のドリンク代が含まれている。
紙コップタイプの自動販売機が並んでいるのだけれど、お金を入れなくても、ボタンを押すだけでドリンクが出る。冷たいお茶をまず入れてから、別にコーンスープを入れる。
両手に紙コップを持ち、個室に戻り、鍵をかける。
パソコンの前に紙コップを並べて、ショルダーバッグをコートの上にかける。
街を歩き回っている間にコンビニで買ったパンをバッグから出して、座る。
大きなコッペパンに、あずきとマーガリンが挟んである。百円ちょっとで買えて、一個食べればお腹いっぱいになる。足りないと感じる場合は、コーンスープやジュースを飲みつづけて、お腹を満たす。
パンを食べながら、インターネットを見て、求人情報を検索する。
どこで働くとしても、履歴書の他に身分証明書が必要になる。日雇いバイトにだって身分証明書は必要で、登録会の時には健康保険証を出した。履歴書同様に、前のアパートの住所が書いてある。住民票を移す先もないから、住所を変えようがない。わたしの身分は、噓で証明されている。コピーをとっただけで何も聞かれなかったけれど、正社員で働く場合は、そんなにうまくいかないんじゃないかと思う。家を調べられることなんてないとしても、面接や仕事中に話すうちにばれそうだ。
寮があるところも探しているが、工場がほとんどだ。そういう会社についてネットで検索すると、だいたいがロクでもない噂をされている。寮も仕事場も環境が悪いとか、不法滞在の外国人労働者がいるとか、窃盗が日常的にあるとか、そんなことばかりだ。跡継ぎのいない農家とか人口の減っている村とか、移住者を募集しているところもある。家だけではなくて畑もついてくると言われても、そこで自分に何かができるとは思えなかった。介護関係の求人はたくさんあるけれど、資格も持っていないし、お年寄りの世話をできるという自信がない。
考えごとをしながらネットを見ているうちに、パンを食べ終えてしまう。
高校生の頃、昼休みやバドミントン部の練習後に、このパンをよく食べていた。
好きで食べていたはずなのに、今はただお腹を満たすものでしかなくて、味は感じない。
文房具メーカーで働いているうちに、もう一度だけでも鰺フライ定食が食べたかったけれど、行けなかった。会社の周りには、安くランチを食べられるお店が他にもたくさんあった。正社員の人たちが飲みに連れていってくれることもたまにあった。パスタやピザの種類が豊富なイタリアン、新鮮な魚を揃えた居酒屋、なぜかカレーを名物としている中華料理屋、どれもおいしかった。
友達の結婚式で食べたフレンチのコースは、夢で見た幻の料理のように思えてくる。何度も式に出るうちに当たり前になり、味をあまり憶えていない。ご祝儀分に対してこれだけとか、文句を言いながら食べていたこともあった。
アパートを出たことは、誰にも言っていない。
年賀状や結婚式の招待状が送られてきたとしても、前のアパートの郵便受けはガムテープでふさがれてあり、返送されるだろう。
それを見たと思われる友達からメッセージが何通か届いたが、返信していない。
大晦日にアパートを出た時には、友達の部屋に行くつもりだった。けれど、どうしてこうなったのか話せて、頼れるほど親しい友達は東京にいない。友達は多い方だと思っていたが、付き合いが薄っぺらい。静岡に帰れば、なんでも話せる幼なじみがいる。しかし、彼女たちに話したら、その親にも伝わり、父に連絡される。それだけは、どうしても避けたい。
誰にも頼れず、アパートの二駅先にある漫画喫茶に入り、そこで年を越した。
日雇いバイトに行くようになってからも一週間くらいはそこで寝泊りしていたのだけれど、住宅街の中にある漫画喫茶なので、深夜はほとんどお客さんがいない。その中に、わたしと同じように毎日来ている男性がいた。目が合い、話しかけられたので、適当に笑顔で答えた。夜中、眠っていたら、彼が個室のドアをノックして声をかけてきた。気づかなかったフリをして、応じないようにした。個室は、レジカウンターから遠いところにあった。もしも何かされたところで、わたしの声は届かないかもしれない。そして、レジカウンターには、眠そうな顔をした男の子が一人いるだけだ。声が届いたところで、助けてくれそうにない。注意されないからと言って、個室をラブホ代わりに使っている大学生くらいの子たちもいた。危険だと思い、そこを出て、日雇いバイトの事務所の近くで、深夜でもお客さんの多い漫画喫茶を探し、ここに辿りついた。
ここには、わたし以外にも、毎晩のように来ているお客さんが何人かいる。お互いに顔を憶えても、話しかけないのがルールみたいになっている。わたしと同世代くらいの女の子も多い。レジカウンターには、店員の男の子が何人かいるから、安心していられる。外は東洋一の歓楽街で危険がいっぱいという感じだけれど、ここは居心地がいい。
友達の部屋に行って、あれこれ聞かれるよりも、ここにいた方がずっと楽だ。
カバンの中に入れたままのスマホが鳴っているので、出して確認する。
雨宮からのメッセージだ。
〈何してんの? なんかあった?〉と、書いてある。
他の友達は、一度か二度返信しなかったら、連絡してこなくなった。雨宮だけは、毎日のように連絡してくる。文面は、毎日少しずつ違う。
たとえば、何かの偶然が重なり、今の生活が友達にばれたら、しょうがないと思って全てを話す。街を歩き回っている時に友達と会うかもしれないし、日雇いバイトの派遣先で一緒になることが絶対にないとは言い切れない。その時には、覚悟するしかないと思っている。
でも、どうしても、雨宮だけにはばれたくない。
絶対に怒られるし、今度こそ本気で軽蔑される。
†
今日のアルバイトは、工場や倉庫での作業ではなくて、オフィスでの事務作業だ。ちゃんとした服装で行くようにという指示だったので、スーツケースから面接用のスーツを出した。
ベンチャー企業らしくて、ちょっと変わったオフィスだ。大きなテーブルや小さな机やソファーセットが不規則に並んで、カフェみたいになっている。どこが誰の席と決まっていないから、好きな場所で働いていいようだ。壁には、なんなのかよくわからないカラフルな絵がかかっている。モダンアートというやつだろう。カジュアルな服装の人が多くて、スーツ姿のわたしは浮いている。
こういう会社はフレックスタイム制なんじゃないかと思う。でも、まだ十時前なのに、出勤している人が多くいた。それぞれ好きな仕事をできているという感じで、活気がある。
「おはようございます。水越さんですよね?」
受付の横のソファーに座って待っていたら、担当の女性が来た。
背が高くて、キレイな人だ。髪形も服装もラフなのに、手を抜いている感じはしなくて、お洒落に見える。年齢は、わたしと同じくらいだと思うけれど、大人っぽい。
「水越です。今日は、よろしくお願いします」立って、あいさつをする。
「そんなに固くならなくていいですよ」
「なんか、素敵なオフィスだから、緊張してしまって」
「CEOの趣味なんですよ」
「シーイーオー?」
「最高経営責任者、社長のことです」窓際の机でパソコンに向かって仕事をしている男性を指さす。
その男性が社長ということなのだろう。
若い。
グレーのトレーナーにジーンズという格好で、大学生くらいにしか見えない。それはないとしても、わたしと同世代だと思う。彼を見て、社長だと言い当てられる人はいないだろう。他の社員の中に馴染んでいて、偉そうなオーラを少しも出していない。
「向こうのテーブルを使いましょう」
担当の女性についていき、奥のテーブルへ行く。
六人掛けのテーブルで、木の椅子が並んでいる。
「ちょっと待っててくださいね」
「はい」一番端の席に、カバンを置く。
「これをお願いします」担当の女性が封筒や切手を持ってくる。「封筒に切手と宛名ラベルを貼って、宛先と書類の宛名を確認しながら書類を入れて、のりで封をしてください。順番は、やりやすいようにやってもらっていいです。結構多いから、休みながらやっていいからね」
「はい」
「そこのコーヒーやドリンクは、好きに飲んでいいです」
「えっ?」
隅のカウンターにコーヒーメーカーとエスプレッソマシンが並んでいて、電気ケトルも置いてある。カゴの中には、紅茶やハーブティーのティーバッグが揃っている。
「冷蔵庫の中には、ペットボトルもあるから」
「言うだけじゃなくて、何か出してやれよ」近くの机でパソコンを見ている男性が言う。
「ああ、そうだね。何がいいですか?」
「えっと、どうしよう」
「とりあえず、お茶かお水出しましょうか?」
「じゃあ、お茶をください」
「はい」担当の女性は、冷蔵庫からペットボトルのお茶を持ってきてくれる。
「ありがとうございます」ペットボトルを受け取る。
「お手洗いは向こうにあります」出入口の先を手でさし示す。
「業務中にお手洗いに行っていいんですか?」
「んっ?」驚いたような顔で、わたしを見る。
「あっ、すいません。なんでもないです」
工場や倉庫でのルールが普通になってしまっていた。しかし、業務中にトイレに行けないなんて、普通ではない。言われた通りトイレに行かないようにしていたけれど、どうしてそんなルールになったのだろう。敷地が広くてトイレに行った後に迷うから、と言われたことがあるが、子供じゃないんだから戻れなくなることなんてない。
「私は会議があるんですけど、そこのソファー席にいるから、何かあれば、気にせず声をかけてください」
「わかりました」
「では、よろしくお願いしますね」
優しそうな笑顔で手を振りながら、担当の女性は、フロアの真ん中にあるソファー席へ行く。
今日、ここに派遣されたのは、わたしだけだ。
つまり、与えられた仕事を時間内に一人で、全て終わらせなくてはいけない。
工場や倉庫ならば、できるかどうか不安になるところだけれど、今日の仕事は余裕でできる。
まずは、封筒を積んで、宛名ラベルを貼る。五百通くらいあるけれど、ただ黙々と進める。集中力を切らさず、封筒の真ん中よりやや上に貼っていく。次に、貼った宛名と書類の宛先を確認しながら、書類を封筒に入れる。この作業は間違えると大変なので、慎重に進める。それが終わったら、封筒を裏返し、のりで一気に封をしていく。
三年間、派遣社員をやって手にした技術は、これかもしれない。庶務の仕事の一つで、郵便の手配も任されていた。まとめて大量に出す時には、宛名ラベルを作るところから頼まれた。少ない時には十通から、多い時には五百通や千通まで、毎日のようにあったので、どうしたら速くできるか考え、工夫していった。なんの役にも立たないと思っていたが、役に立つ日が来た。
ここの会社は、こうして大量に郵便を出す時だけ、日雇いバイトを頼むようにしているのだろう。ネット上でのやりとりが基本という感じだから、双方が紙で残しておくべきものだけ、郵便で送っているのだと思う。今日の書類は、お金に関するもので、月末だから送っていると考えられる。きっと、毎月一回は、ここでの仕事がある。仕事が速いことを認められて、来月も再来月もここに来たい。一日でもここに来られたら、倉庫や工場の仕事も頑張れる。郵便を出すならば、速いだけではなくて、間違わず丁寧にできるという自信もある。日雇いバイトで成果を出すと、指名してもらえたりもするらしい。次回以降、わたしを指名してほしい。そうして、何度か派遣されてくるうちに、正式にここで働けるようにならないだろうか。
「どう?」担当の女性が様子を見にくる。
「あとは、封をして、切手を貼るだけです」
「ええっ! 速いね」
「前の仕事でもやっていたので、得意なんです」
「前に来た子は、一日がかりでも終わらなかったのに」
「これって、毎月あるんですか?」
「毎月末」
「そうなんですね」
「どうしよう。お昼すぎには終わって、仕事なくなっちゃいますね」
「ああ、そうですね」
時間より早く仕事が終わった場合も、予定通りの給料が支払われる約束になっている。わたしとしては困らないが、働いていない時間の分もお金をもらうようで、申し訳なく感じる。
「宛名の打ちこみって、頼めますか?」
「それは、パソコン作業ですよね?」
宛名の打ちこみぐらい、鼻歌を歌いながらだってできる。受けてもいいのだけれど、パソコン作業と事務作業では、時給が違う。時給は、工場や倉庫での作業が千円、事務作業が千二百円、パソコン作業は千四百円と基本が決まっている。事務作業とパソコン作業は月に数件しかなくて、なかなか回ってこない。
「パソコン、使えない?」
「使えます。えっとですね、でも……」
黙って受けてしまえばいいのだろう。
ここで気に入られて、来月も呼んでもらった方がいい。
「ああ、そっか。ごめんなさい。パソコン作業だと、時給が変わるんですよね」
「……そうなんです」
「派遣会社には私から連絡するので、大丈夫だったら、お願いしてもいい?」
「もちろん」
「ちょっと待ってね」パンツのポケットからスマホを出して、すぐに電話をかける。
電話の相手に表情なんか見えないのに、笑顔で話している。派遣会社の社員が笑顔で対応しているとは思えない。イラついた表情と声をしているのが見えるようだ。
こういうベンチャー企業では、学歴の高い人ばかりが働いているわけではないだろう。中卒や高卒問わず、技術があって仕事のできる人が集められている感じがする。工場や倉庫に行くと、学歴で差別する目でお互いを見てしまうが、そういうことではないんだ。それ以上に大事なのは、人柄や仕事に対する姿勢だ。封筒に宛名ラベルを貼って書類を入れ、封をして切手を貼るだけの作業に八時間もかかるなんてありえない。前にここへ派遣されてきた人は、サボりながら適当にやったのだろう。
どこの工場や倉庫に行っても、そういう人はいる。
昨日の倉庫だって、子供服の在庫数を適当に書いたところで、ばれることはないと思う。もしばれたとしても、何月何日に来た誰が適当な数を書いた、とわざわざ電話してくるような人はいない。わたし以外の人たちは、作業が速かったが、いい加減に数えていたのかもしれない。
「大丈夫だって」担当の女性は電話を切り、笑顔でわたしを見る。
「良かったです。ありがとうございます」
「この作業が終わったら、声かけてください。お昼は、好きな時に一時間とってもらって、大丈夫です」
「はい、わかりました」作業のつづきに戻る。
事務所でお金をもらう時に、事務作業やパソコン作業がもっとないか、社員に相談してみよう。日雇いバイトに登録している人のほとんどがワードやエクセルは使えなくて、タッチタイピングもできないらしい。登録会の時に、パソコンがどれだけ使えるのか、挙手でのアンケートがあったのだが、手を挙げたのはわたしと大学生くらいの男の子だけだった。事務仕事やパソコン作業があれば、わたしは優先的に派遣してもらえるだろう。
漫画喫茶にはシャワー室があり、わたしが寝泊りしているところでは、ナイトパックの利用者は無料で使える。
これは、本当に助かる。
銭湯は五百円近くするし、コインシャワーは三分で百円かかる。三分で髪と全身を洗うなんて無理だから、三百円か四百円は使うことになる。その額を毎日出したり、昨日銭湯に行ったから我慢しようと考えたりしなくていい。湯船に浸かりたいと思う日もあるけれど、温かいシャワーを浴びられるだけでも充分だ。
しかも、ここは女性専用で、いつもキレイに掃除されている。シャワーブースの手前には洗面所があり、ドライヤーも使える。
洗ったばかりの髪を乾かしながら、鏡にうつる自分を見る。
アパートを出てから体重をはかっていないが、太った。
体重はそんなに増えていないかもしれないけれど、身体つきがだらしなくなった。肌は、荒れている。前は、吹き出ものなんてほとんどできなかったのに、おでこや頰にいくつかできている。カロリーの高い菓子パンとコーンスープぐらいしか、食べていないからだ。栄養バランスの悪さは、考えるまでもなかった。野菜を食べたいと思ったところで、コンビニで売っているサラダは、買える値段ではない。肉は、ファストフードで一番安いハンバーガーを食べたぐらいだ。
文房具メーカーで派遣社員をやっていた頃は、食べるものを意識していたわけではないが、できるだけ自炊して、週に何日かは会社にお弁当を持っていっていた。彩りを美しくしようと考えていたので、自然とバランスのいいメニューになった。
乾燥する季節なのに、化粧水や乳液をほんの少ししか使えないのも肌荒れの原因だ。洗顔後に何もつけないという美容法もあるらしいけれど、わたしには合わない。何もつけなかったら、肌が赤く腫れてしまい痛みがあったので、ドラッグストアで安売りしていた化粧水と乳液を買った。
せめて運動をすればいい。バイト中は椅子に座りっぱなしだし、漫画喫茶では個室でずっと寝ている。事務所で給料をもらってから漫画喫茶に来るまでは歩き回っているけれど、周りから目を逸らして下を向いているせいか、姿勢が悪くなった。
髪が乾いたので、洗面所の周りを軽く掃除して、シャワー室から出る。
ドリンクコーナーに行き、オレンジジュースを入れる。
今日の仕事は楽しかったし、いつもより多めに給料をもらえた。派遣会社で、事務仕事やパソコン作業のことも相談できたし、充実しているように感じる。
お酒でも飲みたい気分だけれど、ここにはジュースやお茶しかない。
アルコールも、アパートを出てから口にしていない。
「すいません」ジュースが入るのを待っていたら、女の人に声をかけられた。
ここでよく見かける人だが、話したことは一度もない。
わたしと同世代で、二十五歳前後に見える。雰囲気も、わたしと似ている。身長は彼女の方が少しだけ高いけれど、ジーンズにブーツという同じような格好をしている。境遇が近いのかもしれないと思い、気になっていた。
「あの、よくここにいますよね?」彼女が言う。
「毎日います」
「ああ、そうなんですね。どういう事情でここにいるのか、話してみたいなと思って。あっ、別に、怪しい勧誘とかではないです」
「大丈夫です。そんな風には見えませんから」
「年齢とか近そうだからと思って」
「わたしも、同じこと思ってました」
「あっ、本当ですか!」嬉しそうな笑顔になる。
「はい」
「わたし、マユです」
向こうが苗字ではなくて名前を言ったのだから、わたしも同じようにした方がいいだろう。
「愛です」
「としは?」
「二十六歳」
「同い年だ! じゃあ、タメ口でいいよね」
「うん」
「もうちょっと話したいんだけど、外に出ない?」
遠慮がちに話していたのに、タメ口になったのと同時に、口調も砕けた感じになる。
「でも、わたし、ナイトパックで先にお金払ってるから」
「受付で言えば、大丈夫だよ。ここだと、喋れないし」
「そうだよね」
漫画喫茶なので、静かに漫画を読んでいる人もいるし、寝ている人も多い。
「用意してくるから、受付で待ち合わせしよう」そう言って、個室の方に行ってしまう。
マユは、漫画喫茶の受付の男の子たちと親しくしているみたいで、個室に荷物を置いたままだから見ておいて、と頼んでいた。わたしの荷物のことも、頼んでくれた。
階段を上がり、外に出る。
終電の出る時間が近づいているのに、まだたくさん人がいて、街は明るい。
ビルとビルの間から、強い風が吹く。
「どうしようか?」マユが言う。
「わたし、お金ないよ」
「それは、わたしも一緒」わたしの顔を見て、笑う。「ファミレス行こう。ドリンクバーぐらい、出せるでしょ」
「うん」
ジュースやお茶なんて、漫画喫茶でいくらでも飲めるからもったいないとは、言わない方がいい。せっかく誘ってもらえたのだから、ドリンクバーぐらいは出そう。
誰かとこうしてお喋りするのも、久しぶりだ。
「じゃあ、行こう」
「ファミレス、どこにあるかわかる?」
「大丈夫。わたし、もう半年以上ここにいるから」
「そうなんだ」
「他も行ったけど、貧困女子が暮らすには、ここが一番安全で便利かな」
「安全?」
「怖そうな感じの人はいっぱいいても、そういう人たちは、素人に手を出してこないから。人が少ないところの方が怖い感じがした」
「ああ、それは、わたしもそう思った」
話しながら、街の名前が書かれた看板をくぐる。
角を曲がっただけなのに、いきなり暗くなり、歩いている人も少なくなった。
「愛は、いつから今みたいな暮らしをしてるの?」
「一ヵ月くらい前から」
「そうなんだ」
「どうにか慣れてきたけど、どうしたらいいんだろうって悩むことも多いから、話しかけてくれてすごく嬉しい」
「一ヵ月前、何があったの?」
「えっと」
「待って。入ってから話そう」ビルの二階にあるファミレスを指さし、階段を上がっていく。
ファミレスの中でも、特に安い店だ。
二十四時間営業みたいだが、お客さんはあまりいない。
四人掛けの広い席に案内されて、向かい合わせで座る。
「食べたくなっちゃうよね」頼めないと思いながらも、わたしはメニューを見る。
「時間も遅いし、我慢しよう」
「そうだね。時間も遅いし」
お金がないから我慢するのではなくて、時間が遅いからだ。
店員さんに、ドリンクバーを二人分注文して、ドリンクカウンターに飲み物を取りにいく。
外を歩いてきて身体が冷えたので、温かいハーブティーにする。茶葉が何種類かある中から、カモミールティーを選ぶ。マユは、玄米ほうじ茶を選んだ。
席に戻ってから改めて、わたしのことを話す。
玄米ほうじ茶を飲みながら、マユは口を挟まずに聞いてくれた。
「そうなんだ」わたしが話し終えるのを待ち、マユが言う。
「今の状況だと、次の仕事も決められないし、とにかくお金を貯めようと思って」
「親は?」
「うーん」
「仲良くないの?」
「それ以前の問題って感じ」
「いないの?」
「ううん。父親は、いる」
「そっか」
マユは窓の外を見て、何も言わなくなる。
「マユは? どうして、こういう生活してるの?」わたしから聞く。
「奨学金」
「どういうこと?」
「うちもちょっと家庭の事情が複雑で、奨学金で大学に通ってたの」
「うん」
わたしは、大学の学費は、父に全額出してもらった。
「特待生とかじゃないから、返済義務のある奨学金で、つまりは借金なんだよね。卒業してから返せばいいんだけど、愛と同じで、就職できなかった。それで、わたしも派遣で働いてた。でも、派遣社員の給料から生活費出して、奨学金を返すって、無理だよね」
「無理。だって、一ヵ月暮らすにも、大変な額だもん」
「そう! わかってくれる人に会えて、嬉しい」マユは、泣きそうな顔になる。
「わたしも、嬉しい」
「だから、まずは、奨学金を返すことに集中しようと思って、生活を捨ててみたの」
「……斬新な発想だね」
「今は、漫画喫茶で寝泊りしたり、友達のところに泊まったりして、できるだけお金は使わないようにして、奨学金を返す。返し終わったら、就職先を探して、生活のことを考える」
「返せそう?」
「多分、大丈夫じゃないかな。ここに半年もいると、お金を使わない方法とか、貯める方法とか、わかってくるから」
「そうなんだ」
「愛にも、教えてあげるよ」笑顔で、マユは言う。
「ありがとう」
声をかけてもらえて、本当に良かった。わたし一人では、永遠にこの生活から抜け出せなかったかもしれない。気持ちをわかり合える友達ができて、胸に希望が湧いてきた。
「明日は、どうするの?」マユが言う。
「日雇いのバイトで、工場に行く」またスマートフォンの箱を一日中折らなくてはいけない。
「日雇いで、働いてるの?」
「だって、それくらいしか、仕事なくない?」
「日雇いなんて、男が行くところだよ」おかしそうに、笑い声をあげる。「それか、おばさんとか。わたしも愛も、二十代前半って言ってもばれないし、もっと賢く稼がないと」
「どういうこと?」
「出会い喫茶って、知らない?」顔を近づけて、マユはわたしの目を見る。
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