悩む
お盆の棚経が近づいてきている。一方で、千葉県の新型コロナウィルスが蔓延によって緊急事態宣言が発令されましたが、変異株の感染者数も増大しています。かなり悩みましたが、お預かりしている本休寺、善徳寺、妙光寺の総代さんとも協議をし、本休寺、妙光寺は墓前回向、善徳寺は今回に限りお経回りの中止という判断にいたりました。私自身、ワクチン接種ができていないこともあり、媒介者になりえる可能性もあるので、今回の状況では仕方がないと考えるようにしています。
さて、本日私が凹んでいるを知って友人からJUJUの「Wonderful Life」の歌詞が送られてきました。
同じような一日 繰り返してるわけじゃない 明日が昨日のマネしても 今日は二度とやって来ない 交差点 立ち止まり思う 「何のために生きてゆくの?」 「迷える日々こそ生きてる証」 今はそう信じてみる
と述べています。時は過ぎ去り戻りえない。一見同じような条件を揃えても、精神状況も含めれば同じ判断に至るかわからない。たとえば今日選んだお経回りの判断も、次の日の感染状況をみると間違えになるかもしれません。
「何のために生きてゆくの?」と歌は問います。迷えることの価値を述べています。確かに、悩み考えるという行為を全力でやることで、納得することは可能ではないでしょうか。今回、かなり急遽の判断になりました。結果として残念ながら、棚経中止になりましたが、悩み相談したことは間違ってはいないとは思います。そこを大切にしたいと思います。
この歌では「遠回り」や「それぞれに咲く花」のことなどを述べつつ、「今はただ信じてみる」と述べています。
この歌の歌詞をみるとフランクルの「それでも人生にイエスと言う」の一説を思い出します
生きるとは、問われていること、答えることー自分自身の人生に責任を持つことである。ですから、生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるように思われます。生きることはいつでも課せられた仕事なのです。このことだけからも、生きることは、困難になればなるほど、意味あるものになる可能性があることは明らかです。(57頁)
生きることは、問われることだ、答えることだと述べています。
仏教ではどうとらえるのでしょうか?
仏教はキリスト教やイスラム教のように神が創造して人間が生まれたとは言いません。なぜ生まれたのかということをそもそも問わないのです。
毒矢の喩えは有名ですが、だれが毒矢を撃ったのかを問うても無駄であり、まず毒矢を抜くことが必要とブッダは言います。
なぜ生まれたを問うより、生まれてしまったと考えるとも言えましょう。
精子と卵子の掛け合わせで生まれたといっても、なぜその精子が生き残ったのかはわかりません。偶然以外の何物でもない。となれば、偶然なんですから生きる目的があるということはおそらくないと思います。
目的は後付けであり、お金のために生きる人もいるだろうし、信仰に目覚める方もいるでしょう。ただ、人間に限らず動物、植物も生きていくためには生存するためのシステムに飲み込まれています。人間でいえば睡眠欲、食欲であり、後世に生命を残そうとするならの性欲があります。欲望どうしても存在してしまう。
その欲望を自覚し、より精神的に楽に生きていく、心の安定を求めていくということを目的したのが仏教なのだと個人的には考えています。欲を減らし心穏やかにいきることを目的にする。そうすることで他者にも優しくなれるのだろう考えられます。
そしてその方法として、瞑想や修行がある。その中で大事なのは道しるべである先師、先哲の言葉でありましょう。また現在の我々も我々なりに様々な方法を用いながら、今という瞬間を大切する。その積み重ねが、生の充実につながるとも考えてられないでしょうか。
先の唄では「あの日流した涙の向こう」「こんなに笑顔になれたんだから」と歌います。そこには悩み苦しみをこえ、今を生きるがあるようにも感じます。素敵な歌詞だなと感心することしきりです。