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liubin
専門
かなり昔だが、仏教を研究していたことがある。専門は日本仏教、鎌倉仏教でなんて言ってましたが…
今の住職は、法事や葬儀を行い。お布施をお預りする。あたかも死の専門家に見えるかもしれない。
でも、死んだことある人は、おそらくいない。臨死体験は、あくまで死にそうになった人で、死んだ人ではない。我々が死を経験するのは、二人称の死か三人称の死だ。だとすると死の専門家か?と言われると疑問になる。
では、医師は?これもまた、二人称、三人称の死を見てはいる。しかし、自分の死はわからないのだ…
落語に「死神」という話がある。
命の問題は当事者になると焦り、上手くいかない。
過日も書いたが、「悟りとは失って初めて気づく大事な事柄を、失う前に知ることである」という表現かある。死も同じではないだろうか?
本書で対談されたお二人最初の本の題名は『やっぱり死ぬのは怖い』だったと述べられています。
死でみないとわからない。わかったかのように生きるのもあるが…というわけでオンラインで生老病死を考えたり、デス・カフェをやったりしている。
正解は求めてもおそらくは出ない。肩書を外し、裸になり、人の話を聞き、考える。そこで自分なりの考えができる場合もあるかもしれない。でもそれもその時だけかもしれない。
そう今になって、お坊さんとしての私の専門は…と言われたら…やはり世間の肩書から外れた遊び人。そう遊行者であり、人々に肩書をはずさせともに悩む時間を与える人ではないだろうか?そんなアホなことを考えている。