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間
とあることから、歌の話になった。元気になる曲というものがある。それはリズム感がよく、盛り上がる曲だ。体操日本だと「栄光の架橋」が流れ、あの時の感動をとなる。ワードカップサッカーなら「タマシイレボリューション」となり威勢がよい。
カラオケに行き歌う、気持ちよくなるには確かに良い曲だ。ただ、必ずしも人生は努力が報われる。ハッピーエンドだけではない。
むしろ、努力が報われない、涙を飲むがなんと多いのであろうか?ストイックに道を進むことを他人は褒め称えるしかし、成功しなかったアスリートの結末はかなり悲しい。それ故にセカンドキャリアを考えて生きよと『諦める力』で為末大さんは言う。
この道を閉ざされると、すべてが終りになってしまうと考える必要はない。しかし、たとえばアスリートのように閉ざされた狭い社会で生きている人間は、そういう思考に陥りがちだ。今走っている人生と横に走っている人生のつながりが見えないままだと、スポーツをやっている人生と、スポーツを諦めたあとの次の人生の間に脈絡が見い出せない。(66頁)
そこには、その人の人生を他人は背負ってくれないという認識がある。競技人生だけが人生ではない、その向こうにも人生があるという認識であろう。
一方で、メダルと非メダルとで分ける考え方も良いのであろうか?私も含め金メダル何個、銀メダル何個、銅メダル何個とみてしまう。しかし、それがすべてではない。ミスチルのGiftのように白と黒の間には、無限の色が広がっている。
我々はついつい二項対立的にものをみる。善と悪、右と左と…実際人間も良い人間と悪い人間がいると判断する。それぞれの我見、あり方や状況は異なるし、正解があるわけではない。東京外国語大学教授の町田宗鳳博士は著書『なぜ宗教は平和を妨げるのか』(講談社+α新書)で
一方から見れば、相手陣営は邪悪で独善的な狂信集団以外の何ものでもない。しかし、もし邪悪で独善的な陣営の中に身を移してみることができるなら、そこにも否定しがたい「正義」があることに気づくだろう。「正義」というのは、つねに身内の理屈なのであって、当事者が考えるほどには普遍性がないものと言える。
と述べている。各言う私も善悪でものを判断しすぎる。故にかみさんに怒られることが多い。(笑)
また、情報が同じでも、今の私の心の状態で見えるものが変わる。これをメタに認知しようとすることで、苦しみを客観視し、コントロールしようとするのが仏教の考え方であろう。
また、天台大師という中国の仏教者は人間の心には、地獄、餓鬼、畜生、修羅のような醜い世界、人、天のような世界、声聞、縁覚、菩薩、仏のような清らかな世界があると述べる。
私は常に同じ精神状態ではない、相手も同じ精神状態ではない。すべては縁によりて起こる。ただ、どうありたいかという目標、目的はそれぞれであろう。そして、それに賛同する人々は類は友を呼ぶ。
だから、その人を知りたければ、その人の友人を見よと古来から言われてきた。おそらくそれは真実だろう。その人に人がよらないなら、人格が曲がっているということなのだろう。ブッタ『感興のことば』では次のごとく述べる。
どのような友をつくろうとも、どのような人とつき合おうとも、やがて人はそのような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。(25-11)
自分はどうなのかは私にはわからない。ただ、周りが異才が多くてコンプレックスにはなっているかな?
今日もトイレ掃除をしまーす