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対話

とある方にズームを用いてインタビューをしていただいた。
具体的な内容は書けないが・・対話から見えてくるものがあった。

具体的な事実を認識し、その裏にあるものを抽象化していく。今行っている活動や儀礼を抽象化し、それはどういう意味合いや役割を我々に果たしてくれているのか?自分が何気なく行っていることの中にある種の理想や願望があることが見えてきた。

更に、ある種の当たり前の表現の向こう側にあるものが見えてくる。無意識な言葉や行動の向こうに見えてくるもの、それは自分のコンプレックスや癖なのだと思う。
しかし、これも一人では行き着けない。良き鏡となってくださる方が、いてだと思う。

個人的には、今回の対話で見えてきたのは、如何に我々が短期思考に陥っているかであり、寺院やその周辺でおこる行いがそこから脱却できるか?が鍵であること。また、可視化できないものの価値を認識し、伝え、場合によっては意識的に可視化することを考えることの必要性を感じる一時でありました。

さらに、寺院やその伝統的儀礼の向こうに、社会や日常生活からの逃避場所や逃避時間(一休み)の意味合いもあるのではないか?それを提供する方法や習慣として今、私が寺院で行っている活動もあるのかもしれないと認識したりもした。

しかし、自分はつくづく信仰という言葉で片付けたくないのだということを感じた。お経を読む、お題目を唱えるを信仰という一言でおわりにするのでなく、その行動が今を生きる我々に何を与えてくれているのか?それを言語化し、説明したいのだと思う。

宗教家としての良し悪しというより、人間としての癖なのだろうと個人的には思う。

立ち止まって考える一時だった。


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