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『宗教と日本人』を読む

ポストレリジョン的な考え方に関しては、個人的には肯定的だ。それは、釈迦の仏教そのものは信仰を説くものではなく、法への信用、信頼を示すものであるからだ。ブッダや祖師を神格化し、そこにすがりつく考え方は、後世に生み出され大乗仏教の発生につながっていく。

さて、日本人は無宗教を主張する。信仰というより習慣という感じで、日本仏教は近代ここまできた。

本書では、寺院参拝等を実践とし、檀家などになっている状況を所属としている。

檀家寺の宗派やその教えに知識や関心がないのであれば、それは信仰なき所属として分析できるのである。(47頁)

信仰・実践・所属で分析を展開していくが、注目すべきは葬式仏教に関してです。アンケート結果に基づきながら

葬式を宗教儀礼ではなく、「人間関係での儀式」と捉えているのだ。(70頁)
確固たる信仰があるわけでもないし、具体的なリターンを期待しているのでもない。死者への思いという漠然とした情緒に基づいて葬式は実践されているのである。(71頁)

と述べている。そのうえで、著者は

葬式仏教は現代社会に合わせて変化を遂げつつあるのだ。儀礼の実践によって感情的・社会的効果をもたらす葬式仏教は、信仰なき宗教の典型と言える。(78頁)

と述べている。葬式仏教と言われ、そこに安住してきたが、それそのものが信仰不在の典型と指摘している。従来、葬式をしないを問題にしてきたが、したとしてもそれはあくまで「感情的・社会的効果をもたらす」ものでありうる。

個人的には、

だからと言って信仰的にあれというのも、難しい。死後の世界のリアリティの減少、科学の発展によるスーパーパワー的存在への疑問が生じているからだ。

本書は最終的に信仰なき社会のゆくえで重要な指摘を述べている。

多くの日本人にとって、宗教は、それなりの特別な情緒を得たり、気分転換したりするための清涼剤のようなものだ。そうであれば、その体験についても、たとえば観光や映画と同じような、一般メディアで流通しやすいガイドブック的な語りがますます広がり、宗教は世俗社会の文化としての性格を強めていくだろう。(中略)伝統宗教そのものに信仰なき宗教としての性格が強い日本は、宗教が商品として世俗環境に溶け込みやすい社会なのである。(213頁)

昨今話題になった?(笑)マインドフルネスブームも含めあくまで商品的なものであり、信仰ではない。商品としてコンテンツとして仏教を扱うなら代替え可能なものであり、不必要となる。そこに必要なものはなんであろうか?

松本紹圭師のポストレリジョンでは二階論が展開されている。そのことは問題でないし、その根底部分として二階をまわしつつ、当面は一階の法事・葬儀で経済を回すことを考えてもいる。

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しかし、『宗教と日本人』の指摘の通り、一階が信仰なき所属であり、二階が商品であるならば、諸行無常の世の中で生き残れるのか?という問題に直面する。その解答は実はわからない。

習慣が商品かは、わからないが…商品化しない。させないは大事だと思う。そこには、我々の思想や思考が大切だとは思う。

何度も繰り返しこのブログでは述べたが、生物の進化は願望や願いで起こるのではない。突然変異によっておこったものが淘汰される。そして後から振り返ると合理的に見える。

やってみるしかない。実験してみるしかない。ただし、合理性を無視しない。時間軸は戻らないし、明らかに間違えな道はある。そのことを踏まえながら・・・

恐ろしさもあるが、座して死を待つぐらいなら…挑戦はしてみょう。伊達と酔狂にみえるかもしれないが…(笑)




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