情と理
昨日は、無呼吸症候群の診察のため千葉大学病院へ。そこで、オンラインではいつもお会いしている畏友に出会う。オンラインではいつもあってるし、顔もみているが、やはりライブは違う。非常に短時間だが、楽しい時間だった。
さて、人間は理だけならば、オンラインで仕事ができることやできるものがある。それはそれで良いのだが、人間関係は身体性があり、ニュアンスが伝わらないケースもある。
そんななかで、冷静にものをみるのは難しい。ラインが原因で喧嘩になったりケースもあるようだ。
そういうケースも自分も遭遇したこともある。理と情の関係は、理が通るほど難しい。正しさを主張したことが、相手を傷つける。こちらが何とか上手く伝えようと悩んでも、相手にとっては火に油を注ぐという逆効果というケースもある。
会って話せば、それ程大きな問題ではない場合は多い。雑談が与えてくれる潤いは大切なんだと感じる。
さて、雑談のような文章というなら、エッセイはそのようなものになるが、そこには逆に個性がはっきりと見えてくる。
つい最近読んでいたのは、
さまざまな事柄を、科学者の目で見せてくれている。何気ない文章なのだが、読めば読むほど、仏教的だと感じる。
大きな必然的な流れと自らの都合で見てしまう、自我意識をもつ人間のあり方の問題を的確に指摘している。文章の落ちを期待してしまうほどの文章です。
一方で情の部分は
病院の待ち合いでよんでいたが、死者、喪失、悲しみなど一見みると、負のイメージそのものだか、本質に否定的に捉えるべきものでもない。確かに喪失体験はつらい。しかし、悲しみを受け止め死者とともにいきることを考えている。
そこにあるのは、豊かな沈黙であり祈りなんだと感じる。ただし、本書は他の若松さんと異なる点がある。個人としての二つの喪失を明確に述べたことだ。会社員時代の失敗と地位剥奪による喪失、奥様との死別である。その個の喪失からみえてくるもの。そこから普遍的な喪失の中でのあり方をしめしている。
この情と理、冷静と情熱の間に我々は生きている。寺院も人間も…そういう意味ではこの2冊は今こそ読むべき本だと感じる
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