お盆スタート
7月13日は、7月盆の棚経がスタート。数は少ないですが、周ります。千葉市から始まり、習志野市、船橋市、西葛西、池上というコース。
ちなみに基本飲食はしないし、仏具は自分で持つていった引金木鉦です。
薬用ハンドジェルも必需品!
顔を見て話すのがメインの棚経が、お茶も基本できないし、立ち話になるのは残念。でも、体調は?とか、近状報告ができるだけでも違う。年一回しか回れない(地元の多くは年4回)件数も少ない分懇ろにお経も読みますが…
ソーシアルディスタンスはありますが、祈りとコミュニケーションは密にしたいもんです。
歴史と信仰
お盆も歴史と信仰の形なんですが、昨日出たニュースにこんな話が…知り合いからどう考えてます?なんて質問を頂いたので考えてみます。
トルコはかなり昔から文明の交差点で、十字軍の問題などもかなり絡みがあった地域です。ヨーロッパすなわちキリスト教文化圏とも交流があるし、サッカーも強い。
今回の博物館の話は従来のヨーロッパとの兼ね合いから考えれば、益は少ない。今までのトルコにあった産業や企業が、トルコを見捨てる可能性がある。イギリスのEU離脱の影響のように、経済的にはメリット云々でなく、多様性の否定になり、中国の不買運動みたいな政府の空気づくりの可能性もある。
にもかかわらず
一方で、国民のほとんどがイスラム教であり、現大統領の支持基盤でもあるようですから、ナショナリズム的には、基盤強化のためだったのでしょう。
バチカン的には、世界のキリスト教徒向けには、残念というのは当然です。ヨーロッパの多くはキリスト教ですから、キリスト教世界がイスラム教に侵食されているとも言えます。法王的にはいわざろうえない。影響力の減少は否定できません。
ある意味、法王の国土はキリスト教世界全般とするならば、これもまた、内向きな発言と見えないわけではありません。
仏教的に第三者的に
立ち位置より今回の事実の受け止め方は確実に異り、トルコ、バチカンともに当然な行動、発言といえます。しかし、両者ともに内向きだと感じがします。結局内部の締め付けや基盤強化にしかみえない。
ハラリの『21Lessons』では
宗教指導者は信徒に厳然とした二者択一の選択肢を提示することが多い。たとえば、あなたはイスラム教徒であるか。イスラム教徒ではないかのどちらかであり、もしイスラム教徒なら、他の教義はすべて退けるべきだ、ということになる。それに対して世俗主義の人は、複数のアイデンティティを平気で受け容れる。世俗主義の観点に立てば、あなたは自分をイスラム教徒と呼び、アッラーに祈り、戒律に従った食事をとり、メッカに巡礼に行くことを続けてもなお、世俗主義的な社会の善良な成員でありうる。ただし、世俗主義的な倫理規定に忠実であるかぎり、だが。この倫理規定は、真実や思いやり、平等、自由、勇気、責任といった価値観を尊重しているものの、じつは、無神論者だけではなく無数のイスラム教徒やキリスト教徒やヒンドゥー教徒にも受け容れられている。それは、現代の科学機関や民主的機関の基盤となっている。(266頁)
「真実や思いやり、平等、自由、勇気、責任といった価値観を尊重」して考えると・・・この二つの発言行動(トルコ大統領の主張と行動、法王の主張)が意味があるか?
あくまで個人的な考えですが…マイナスにはなれどプラスにはならないのでは?と考えます。
大統領はEUとの関係の解消の可能性、世俗主義的故に良好な関係が築けていたものを失う。場合によっては、経済発展を減速させる可能性がある。国民感情には沿っているが、食べていくという食の安全という面では問題が多い。
法王は、イメージ的に損をしていないか?そもそも、今回の決定は、トルコ側のナショナリズム的内向きな発想で生み出されている。とするならば、それに対して内向きの発想や発言は対立構造を構築するだけで、キリスト教世界のイメージが良くなるのか?というと疑問ではないだろうか?
第三者的にみると、そもそもキリスト教とイスラム教は一神教を信じている。ある種の兄弟、親族とも言える関係でもある。
残念なのは事実だし、その発言はありだとは思う。(感情的には理解できる。)一方で、自分もお参りに行ける場所、宗教観対話を促せる場所としてお参りに行きたいという発言をすることも可能かな?なんて思う。イメージ戦略としては…
一方で自分の宗派の寺院が他宗に変わって活動を始めるのを見たら内部的には苦しいと言わないと上手くいかないだろうとは思いつつですが…