記憶について
現実で起きたことだけでなく夢の記憶についても同じなのだけど、嫌なこととも嬉しいことともつかない、自分にとっては印象深いものが、前後の文脈とも切り離されて、そこだけくっきり残っている。
そこに何の意味があるかというより、その記憶を繰り返し思い出すことそのものが、私にとって重要みたい。
ひとつひとつの記憶についての感触は、視覚だけでなく聴覚嗅覚触覚、温度、湿度、すべて動員された体験で、心理的にも不安と恍惚、孤独感と安心感、さまざまなものが同時に混在しているので、嫌なこととも良かったことともつかないし、どちらの要素も兼ね備えているからこそ印象深いのだと思う。
そういう記憶を私は手放したくないので、たとえ少しずつ変容していってるとしても、いつまでも繰り返し思い出すし、その思い出す行為そのものが私にとっては幸せなのだと思う。
「自分が生きていた感覚」を手繰り寄せることだから。
ということは、いまは「生きていない感覚」を生きているのだろうけど、それですらずっと後になってみると、ずいぶん生きていたんじゃないかと思うのかもしれない。
いまはいまのなかに囚えられているので、そんなに生きているようには感じられないし、過去の記憶の方が鮮明な分、美しく見えてしまう。
つまり、鮮明さを欠いた感覚のなかに生きていることが、どこか不満なんだな。
鮮明さのなかにいた頃は、苦しくて堪らなかったので、自分から感覚を遮断していったのに、やはり鮮明さのなかに生きることへの懐かしさや憧れが、底の方にずっと残っていて、何らかの形で再生させる機会を伺っている。
考えてみると、「悪かっただけの体験」とか「良かったこと集」という記憶の持ち方をしない気がする。
一般的には苦しい体験として扱われることでも、必ずそのなかに他では得られない特異な感覚があって、それが私にとっては貴重で忘れ難かったりするので、幸不幸はわりとワンセットになってる気がする。
ワンセットというかコインの裏表だな。
よく言われることだけれど。
とはいえ、本当に自分では抱えきれない、いわゆるトラウマを負った期間の記憶については、そこだけすっぽり抜け落ちている。
思い出す必要もないし、困っていないので、これからも思い出さないと思う。
(思い出そうとしても本当に思い出せなかったんだった)
よく考えてみると、私がよく思い出す記憶=思い出したい記憶は、どれも非日常的な要素があり、自分に合っていた体験についての記憶、ということなのかもしれない。
苦しさも、合っている苦しさと合わない苦しさがあり、無意識に合わない方の苦しさについての記憶は忘却へ向かわせていたかもしれない。
脳は自分にとって都合のいいように記憶を編集するところがあるので、私はいつも無意識に自分にとって都合の悪い=好きじゃない記憶の持ち方を遠ざけているような気はする。
それがもしかしたら人間にとっていちばんの健康法といえるかもしれないし、不健康法ともいえるかもしれない。
自分にとって本当に大事な記憶については、そこに解釈を加えようとしたりはしないし、できない。
理解もしない。
ただ飴玉を舌の上でころがすように、繰り返し繰り返し味わい直す。一種の安心毛布ともいえるかもしれない。
“解釈”をしていく場合は、ひとつの至高の答えにたどり着くことを目指しているわけではなく、たまたま手元にあったネタから出発して、さまざまなヴァリエーションを生み出していくことそのものが、楽しみになっている気がする。
(Twitterでとりとめなく増殖してしまったツイート群を切り貼りしただけの記事)