歌のはなし

中学生のとき、歌詞のない、声そのものが楽器のように奏される、そういう歌が聴きたいんだけど、ないのかなという話を姉にしたところ(このエピソード自体は憶えてないのだけど)、ある日近場の音楽ホールでメレディス・モンクのチラシを見つけた姉が、これは!妹の言ってたものではないか?と直感し持ち帰ってきてくれた。
そのチラシに書かれていたモンクの音楽性についての文句(モンクだけに)を読んで何かがビビビと来てしまった私は、私の求めていたものはこれだ!メレディス・モンクは私のいちばん好きな歌歌いだ!※
と聴きもしないうちに確信し、そういうことにすることにした。

※その当時はそう思っていて、のちに聴いてからは、作曲家でヴォイスパフォーマーだと思っている。

そしてひきこもりや摂食障害を経た数年後、やっと実際にモンクのCDを入手して聴くことが叶い、中学生の頃から思い込んでいた通り、本当に自分の求めていたものがそこにあって、とても嬉しかった。
そういうものに、出逢ったことがなかったので。

最初に聴いたのはVolcano Songs で、最初に聴いたせいか、たまたまか、モンクの作品のなかでもとりわけミニマルな心地がする。
私は音楽の理論的なこと、専門的なことはさっぱりわからないのだけど、音楽の形式としてのミニマルではなくて、生きているなかでたまにふと思い出す、簡素で静かで原初的な心地のこと。

その後二十代になってから、世間であまりにも歌というものが特別に愛されていることに馴染めなさを覚え、では世の中で歌とされているもののどの部分が自分にはわからないのか、いろいろ考えた。
それら「歌的な歌」(勝手にそう呼んでいた)には意味のある歌詞があり、まずその歌詞という言葉の部分と音楽の部分(音の運動)とが、私のなかでは融合されないのだろうと思った。
そして歌は、人の身体から出された声を使って歌われることがほとんどで、その声の要素と歌的歌特有の音の運び方とが、やはり私のなかでは融合しにくいのだろうと思った。
つまり音楽と言葉と声とが融合してこそ歌の魅力というものが発動されるはずなのに、それらがいずれも私のなかで融合せず、置いてきぼりになる。

そんなことを気にしていた二十代だったけど、その後いろいろあって心身ともに力が抜けてしまい、もうそういうことは考えなくなった(物事に拘れる集中力がなくなった)一方で、相変わらず大抵のポピュラー音楽の歌を受け付けない体質のまま、最近になって、たまに良いなと思える歌もあることがわかった。

いや、むかしだってあることはあったのだ。
あわてんぼうの歌とか、あわて床屋とか。
この2曲は、子ども時代と三十路に入ってからの二つの録音小僧期に、それぞれ自分で歌ったものを録音している(それ以外で歌を録音したことはない)。
なぜか2曲ともあわててる歌で、そんなに自分はあわてんぼうが好きなのかと思う。
これから先に再び録音小僧期が来たとしたら、またあわて者の歌を歌うのだろうか。

「歌のはなし」というタイトルにしてしまったけれど、実際は「歌が(ほとんど)わからないはなし」だった。

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