観賞後には人生が豊かになるほど、嫌な映画『TAR/ター』
人生が豊かになるほど、嫌な映画を観た。
まるで濃霧に包まれて、気づけば生き抜く力が奪われているような、美しい恐怖だった。
★プチ出張から帰った足で、映画『TAR/ター』を観てきました。
『TAR/ター』は、ベルリンフィルオーケストラ初の女性主席指揮者であり、作曲家。天才の名をほしいままにしている主人公リディア・ターが、作曲の難航と「マーラー5番」のレコーディングに向けたプレッシャーの中で、かつての教え子の自◯を機に転落していくサイコスリラー。
ストーリーは、創作に没頭し続けているうちに、かつて取るに足らないと切り捨てた過去に復讐されるーーとも取れるし、
シビアな世界で才能と実力と運が足りなかった人たちの嫉妬や悪意により、指揮者人生で最も重要な局面で失脚させられたーーとも取れる。
原因となったリディア側の落ち度は、事実であるとも事実無根であるとも名言されていないのだ。
ラストシーンについて「再起」と受け取る人もいるようだが、私は、「この深淵で、あと何年生きなければならないのだろう」
という絶望感を覚え、内臓から震えた。
この作品は、リディアが50歳を迎えるまでの2週間を切り取ったという。私が十代の頃に見たら、この恐怖は味わえなかったかもしれない。
芸術家にとって、一瞬でも過る「自分はもうダメなのかもしれない」という雑念ほど怖いものはないだろう。
しかも年々エネルギーや可能性が減っていく恐怖、
「いいえ、これは再起の道なのだ」という願望に縋って生きるしかない絶望--。
観賞後には人生が豊かになるほど、嫌な映画だった。
あっという間に過ぎた3時間弱の経験に感謝したい。
作中には、リディアに共感できるシーンも多々あった。
まずは、彼女が追い込まれたときの聴覚。
私も聴覚過敏で子供の頃から耳栓を常備しているため、創作の苦しみとプレッシャーに苦しむリディアの状態がよく分かったのだ。
そして、身体を鍛えることでしか気分転換できない状態も。創作活動と違って筋肉は打てばすぐ響くし、確実に強くなるから。
何より、不眠に苦しむリディアが、仄暗い森の泉の中に置かれたベッドで、ひたひたと冷たい睡眠に浸るイメージ。
これは私も子供の頃から持っている。
森は一見美しいようで、恐ろしいものが今にも飛び出してこようという緊張感をはらんでいる。それは野生動物でもあり、人間でもあり、未知の存在でもあるのだ。
あの眠りの中で、リディアの心臓から火の手が上がるシーンは、とても、とても美しかった。
私はクラシックファンの1人なので、作中で演奏される音楽の数々、描かれている場面、語られるエピソードには当然ながら心を掴まれた。
またこの世界に触れるべく、近日中にもう一度見に行くことにする。
(映画の写真は、映画『TAR/ター』公式サイトGAGAさんよりお借りしました)
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