コモンズ・フォーラム # 1「芸術と社会」メモ
「わかりあえない者たち」をつなぐ芸術:敵対と不和を乗り越えるために
登壇者 │ 伊藤昌亮 × 藤井光 × 相馬千秋
司会 │ 藤田直哉
https://theatercommons.tokyo/program/commons_forum_1
今の時代は経済がぼやけてるからネット右派やオタクなどの常民派には経済エリートが見えにくくなってしまっていて、文化エリートが権威主義に見える。先生的な権威の押し付けに反発してる。
彼らはマイノリティに憎しみがあるから女性とか外国人を攻撃しているんじゃなくて、自分達と敵対しているリベラル派が包摂している存在だから叩く。そして文化エリートを叩くために常民派とマジョリティが結託して弾圧してるという構造。
アーティストへの反発はこれまでなかったけど、アクティヴィズムアートがリベラル派の言論と帯同することで文化エリートとして見られるようになってしまった。
ふわっとした何となくの被差別感覚、新しいマイノリティ感覚、それを含めた何となくの異議申し立て、そういったものがふわっと広がってきてる。そことどう取り結んでいくか考えていかないといけない。
産業や科学が衰退してアイデンティティを支えるところを文化芸術娯楽に求めるようになったからここに争点が来てしまって、人々は自分の実存を賭けて闘うようになったんじゃないか。
自分のシニシズムをどう抑えながら仮想的なもう一つの新しい未来を提示していくか、という絶え間ない努力が必要。
街を歩いて人と接することがネトウヨ的になることを防ぐんじゃないか。
芸術が他のメディアと違うのは、人間という存在そのものの複雑さやわからなさへの尊厳、それへの敬意を取り戻すものという側面があるということ。
ネットで過激なものが飛び交うのはある種のアテンションエコノミーみたいなところがあって、注意を引くために単純なことを言って友敵な構造を使う。今極めて複雑性が増大した中でみんながアテンションを稼ぎ合って、いかに複雑性を縮減していく方式を提供できるかということを競い合ってる。
その中でアートが行う複雑性の提示というものに対して、わからない理解できないというよりも、そこに関与しないという選択をする人達が多くなってる。
でもだからこそ複雑さが大事。
全員を関与させることはできないけど、ふわっとはしてるけど色んな想いを抱えてる人はそういう所に絡んでくる可能性があるから。そういう人達をきちんと掴まえていくことが対話なのだろう。そこに行くために複雑さを諦めないこと。
SNSでは分極化が激しい。アテンションがどんどん小さくなって強烈なアテンションを競い合う行動様式がどんどん増えてる。その中で極端な表現とか極端な時間とかそういう分裂が大きくなってる。
もしかしたら右傾化よりも、我々の関心のスコープが小さくなって極端化していること、そういう行動様式自体が根本的に問題なのかもしれない。
などの言葉が印象に残った。
伊藤昌亮さんのこちらの記事もとてもわかりやすくてよく理解できた。
https://synodos.jp/society/23151