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読書記録|手づくりのアジール(青木真兵 著)⑩

  一昨日から昨日にかけて、下記のトークイベントを視聴していた。

 この中で、リゾート的な場所や時間、余裕があるときにしか「考えること」ができないという話や、人は何らかの失敗をしたとき「心」が発生するのではないかという話があった。
 研究でいえば、本を読んだり論文を書く時間が「研究の時間」で、それ以外は、そのための時間を確保する労働の時間と一般的には考えられていると言える。青木真兵さんは、オムライスラヂオ等で「大学では研究する時間以外は非効率な時間で、成果を上げることが目的化するようになり、それ以外の研究のかたちを(結果的に?)模索するようになった」といった趣旨のことを繰り返し話している。
 私の経験に即して言えば、2023年6月30日に「homeport」を創設するまでは、いかに「研究の時間」を確保するかが、自分の中での至上命題だった。それが、現在では、部屋の掃除をしたり(全然進まない)、北大を歩いたり、副鼻腔炎の治療をしたり、文化団体協議会で働いたりする時間も「研究する時間」だと思えるようになった。「思える」と書くと「本当の研究の時間」があることが前提のようになってしまう。ということはまだ「思える」の世界(資本主義)に留まっているのかもしれない。あるいは、青木さんが繰り返し語っている「都市と地方を行ったり来たり」を踏まえるならば「思える」と「思う」を行ったり来たする中で、生活は編まれていくのかもしれない。

 最近、この「研究の生活」の中で、いろんな経験や血肉化されてきた言葉が一つの連なりとなって、自分の中に押し寄せて来る感覚がある。それが「観光」だ。

 『手づくりのアジール』の「対談4 土着の楽観主義 竹端寛×青木真兵」には、下記のような記述がある。

 JR福知山線の脱線事故が起きたのは、そのせいですよね。電車が数分遅れただけで殴り掛からんばかりに怒りだす。”お客さま”がいるから、JRは過度な時間厳守を教育し、運転手は数分の遅れを取り戻そうと必死に飛ばして、マンションに突っ込んでしまった。もちろん乗客に責任はありません。でもぼくはあの事故を見て、「これはぼくたちの責任でもある」と思いました。

『手づくりのアジール』P144

 私たちは、「お客さま」に過剰になっている。グーグルマップの辛辣な口コミに対して、真摯にコメントする店主の人。観光の現場では、お客さまは歓迎する存在であると同時に、「オーバーツーリズム」という言葉に代表されるように忌み嫌われる存在でもある。
 私は北海道大学大学院の「観光創造専攻」出身だが、観光には懐疑的だ。おそらく同期の多くもそうだろう。忌み嫌うから、そこと向き合わなければならない。ときに横暴な振る舞いをする観光客を忌み嫌うが、自分も観光客になることが度々ある。その両義性をhomeportの第1回ゼミ合宿では、実践し、自覚した。

 この「お客さま」について、湖畔の制作室の田中くんが、homeportに寄贈してくれた『異界の歩き方ーガタリ・中井久夫・当事者研究』(村澤和多里・村澤真保呂、2024年、医学書院)には、下記のような記述がある。

 筆者の考えでは、当事者研究における「お客さん」という概念は、症状をその人から切り離す「外在化」という側面だけでなく、心身をさまざまな声や症状が訪れる場として開放するという側面が重要であると思われる。それは「外在化」というよりも「ポリフォニー化(多声化)」といってもよいかもしれない。

『異界の歩き方』P53

 同著で取り上げられている北海道浦河の「べてるの家」では、精神疾患として現れる幻聴や幻覚を異常なモノとして排除するのではなく、自分の中に共棲する「お客さん」として見出そうとしている(この辺りは坂口恭平さんの「いのっちの電話」の実践にも繋がるように思う)。
 それはつまり自分の中に異質なものを共存させること、つまりは自分自身が「宿になる」ということだと思う。

 再び『手づくりのアジール』に戻る。

 ぼくら一人ひとりには、内的な合理性や論理がある。でも多くの人は、社会生活を営む中で、社会通念に合うように自らの合理性を縮減させ、通念に乗っかって生きている。

『手づくりのアジール』P147

 健常者の中にも、内的合理性はさまざまにあります。周りの人が聞き取れない何かが聞こえるのに、親に「そんなものが聞こえてはいけない」と言われて自分の可能性を縮減し、社会人として「立派」に生きている人もいるでしょう。でも、それで本当にいいのか。

『手づくりのアジール』P148

 ここで、私が、度々参照する須藤廣の「観光者のパフォーマンスが現代芸術と出会うときーアートツーリズムを中心に、参加型観光における「参加」の意味を問う」を引用したい。

 観光地は通常、住民も生活しており、観光客が容易に近づけるもの以外の多様な情報に溢れている。観光者は前もって与えられた観光情報をもとに、そこから行動のメニューを選び出し観光をする。その時に住民の生活に比べて遥かに短い時間を観光地で過ごす観光客は、複雑な情報を縮減して行為しようとする傾向があるといえる。こうした観光客の傾向に応じて、観光提供者も様々な媒体を使って縮減された情報を提供しようとする。しかしながら、それらは観光者の行為の一面でしかない。観光の快楽はむしろ、縮減された情報の外側に存在する、情報の縮減からこぼれ落ちた「偶有性」を見つけ出し、経験しようとするところにある。観光者は、実際、そのように行為しているのではないかと考えることもできる。(須藤2017:64)

  自分の中に押しとどめている「声」を縮減しないで、清濁併せ持った宿的な身体として生きることができる世界。それは「社会」とは呼べないかもしれないけれど、そんな世界が成立する場所が「homeport」だし、宿のような存在としての研究者がまずあって、そのあとに、個々の研究のコンテンツがあるのだと思う。「homeport」は、そんな研究(者)が集う場に育っていけばいいなと思う。それは、まぎれもない「観光創造」だと思う。


「ルチャ・リブロを読み直す」第5回読書会
課題図書:青木真兵(2021)『手づくりのアジールー「土着の知」が生まれるところ』晶文社
第5回:「対談4 土着の楽観主義 竹端寛×青木真兵」(P133-158)
2024年11月30日(土)9:00~11:00
会場:homeport(北20条)or オンライン
どなたでも参加可能です。参加希望の方は下記までご連絡ください。
tourismusic.station@gmail.com

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