4人の田中くん
今年(2024)年の夏、久しぶりに熊本へ帰ろうかなと思っている。この前帰ったのは、2023年の1月だった。帰ろうと思って帰ったのではなく、祖父が亡くなったという一報が宮崎の都城の実家から入ったからだ。
思えば、2012年の3月にも、見慣れない携帯の番号から電話がかかってきた。そのとき、私は虎ノ門のPRONTOで、先輩と飲んでいた。仕事は実質21時30分が定時だったので、仕事終わりにちょこっとだけ先輩と飲んでいた。電話に出ると、親族から「父が亡くなったので帰ってきてほしい」と言われ、朝一で会社の上司に相談して、すぐさま宮崎空港へ。
昔会っていたであろう親族と約20年ぶりに空港で再会し、警察署へ。事件性がないか念のため確認中のため、警察署の安置室で対面した。「父さんって呼んであげなさい」と刑事ドラマの一場面のようなセリフが私に向かって飛んできたので、その場を収束させるため「父さん」と呼んだ。その後、葬儀場に着くと「お~息子が帰ってきたぞ」と親族一同からの声に、無意識に「息子」へと気持ちが切り替わって、火葬場のスイッチを押すまで、無事に役割を果した。
父が亡くなり、祖父母の子ども3人は全てこの世を去ってしまい、孫は私唯一人。だから、私に電話がかかって来る。しかし、私には父と過ごした記憶はほとんどないため、中3で再会して以降、ずっと他人であり続けた。一方で、父の息子であるという生物学的事実ゆえ、自分も躁うつ病なのではないかと、どこかで悩み続けてきた。意識的にはそれほど悩んだことはないが、実際に身体が言うことを聞かず、寝込んだり這い上がったりを繰り返すもんだから、そのままだと、死に向かっていった可能性もある。
2012年の3月に父が亡くなって以来、たまに宮崎の実家に帰るようになった。意識の面では形式的に(義務感)。無意識の部分は分からない。私にとっての実家は、父が生きていて、母と3人で暮らしていた多摩ニュータウンだと思う。そして、父が発症して、母と引っ越した母方の実家である熊本県益城町広崎が二次的な実家なのかもしれない。あるいは、中学から高校まで過ごした熊本市内のアパート「ポリアス京塚」もまた実家である。そして、私は今、札幌市北20条の「Seagull#N208」に住んでいる。ここが私にとっての「homeport(母校(港))」である。
広崎の実家は、祖母が亡くなって、他人に貸していたが、熊本地震の後、まもなくして空き家になる可能性があったので、母が住んでいる。地震の直後、久しぶりに益城の実家を訪れ、母校である広安小学校と広安西小学校にも立ち寄った。小4までが広安小で、小5から新設された広安西小に通った。私は西小の1期生だ。近くには益城熊本空港ICがあり、熊本最大級のコンベンション施設「グランメッセ熊本」がある。そんな交通の要所、田んぼがだだっ広く広がる土地に建つ真新しい校舎に2年間通った。今は誰とも連絡を取り合っていない。震災直後に訪れると、かつて毎日を過ごしていた教室が避難所になっていた。その足で、広安小にも立ち寄った。広安小では、毎年恒例のナイトハイクがあり、熊本空港へ向かう「第2空港線」を同級生とキャッキャッしながら歩いた。
その広崎の実家が、まもなく亡くなるかもしれない。母が札幌へと越してくるからだ。まもなく売りに出されるであろう実家は、無事に誰かの手に渡るだろうか。その前に、最後の「(homeport presents)お泊り会」をこの夏、開催予定だ。小学校時代、近くに住んでいて、いつも一緒に遊んでいた潤くんとよく互いに家を行き来していて、「お泊り会」をいていた。潤くんの家には真っ白な「ロン」という犬がいて、少し年が離れたお兄さんはCDをたくさん持っていた(確かtrfの「masuquerade」)。潤君と一緒に益城少年少女合唱団に所属し、毎週、益城文化会館に通っていた。行きはよくISEKIに勤めていた潤君のお父さんが車で送ってくれた。車についているスピーカーの音質が良くて、いつも車に乗るのが楽しみだった。益城少年少女合唱団を主宰する井手公二先生は、オリジナル曲をたくさんつくり、「燃えろ燃えろ阿蘇山~」と当時の私は声高らかに歌っていた。ググってみると、井手先生は、こどもミュージカル「ねこぼく石」を上演していた。「ねこぼく石」は、私が身近で出会った初めて出会った「史跡」かもしれない(もちろん当時はそんな意識は微塵もない)。
homeportを通して出会った、あるいはhomeportが世の中に出る狭間の瞬間に出会った田中くん(田中伸之輔(2023)『研究的実践をくみなおす』)。田中くんとお泊り会の企画を話している中で、ふとX(Twitter)を見ると、「アートスペース田中事件」なるアカウントの投稿が流れてきた。
プロフィールには、以下の記載があった。
このアーティストは「研究者」もOKなのだろうか。homeportの初個展はここでやりたい。直感的にそう思った。そして、実家が亡くなっても、熊本に戻るきっかけになりそうだとも思った。
このアートスペースを主催している田中事件さんは、熊本在住のシンガーソングライターで、内科医でもあるらしい。この田中さんを知ったのはUROROSというミュージックネットマガジンの記事を読んだのがきっかけだ。
UROROSを主催する北原さんとは、もう10年以上の仲になる。何と形容してよいか分からないが、「戦友」が一番相応しい気がする。この田中事件さんの「Requiem for My Generation」が、改めて、故郷としての熊本と向き合うきっかけになった。熊本の問題であり、社会の問題であり、同世代の問題であり、homeport的課題であるような。それらを内包している音楽、それが田中事件の音楽だった。事件さんはこのアルバムについて、以下のように記している。
そういえば、田中健太くんという同級生がいた。いつも一緒に、健軍にあるイトマンスイミングスクール(現:はるおかスイミングスクール)にスクールバスで通っていた。泳ぎ終わった後、心地よい気だるさの中、バスの窓を開けると気持ちいい夜風が入って来る。鹿児島と福岡で離れ離れになった兄弟が邂逅する、映画「奇跡」(2011)の中でも、その光景を彷彿とさせるシーンがある。
田中健太君は、益城の中でも新興住宅地に住んでいて、その区画の中には、同級生が何人も住んでいた。宮城あかねちゃん、坂田なほちゃん、佐々木良樹くん(名前は正確じゃないかもしれない)。良樹くんは、中学からマリスト学園に進学して、私が高校から入学したときに再会した。再会した良樹君は、何だか逞しくなっていて、あの頃の良樹くんとは違っていた。でも同じ良樹君でもあった。
田中と言えば、私の母校である北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院に現在通っている、4人目の田中君と、ひょんなことから北18条で会うことになった。話してみると、彼は同い年で熊本出身、地元も益城から近いことが分かった。でもこれまで歩んできた道のりは全く違う。
2024年8月。約30年の年月を経て、益城町広崎でお泊り会を決行する。
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