homeportに期待する可能性

7月11日 日誌 
 "homeport"には、「母港」の他に「母校」という意味が掛けられている。 
 山崎さんからそう聞いた時、私の脳裏には実に多くのイメージが駆け巡り、homeportの目的を踏まえても素晴らしい表現であると得心している。

 homeportの目的は、「社会の常道に依らない新たな選択肢を認め、模索する場所を作ること」だと認識している。
 社会の常道とは、社会において広く求められる、いわゆる「模範解答的な生き方」だ。例えば、中学での勉強は高校受験のために行い、高校での勉強は大学受験のために行う。そして、苦労して大学に入学をしたのも束の間、すぐに就職を意識した活動にシフトし、社会人となっても理想的ビジネスマン像を追い求める。その生き方に適応できない人間は競争社会から淘汰されていく。

 確かに、そのような生き方には美点もあり、そのように生きるスキルを持つ人間は尊敬の対象にもなるだろう。
 しかし、果たしてすべての人々にとって、常道を追い求めることを強いるべきなのだろうか。
 果たしてすべての人々にとって、常道こそが王道となり得るだろうか。

 多種多様な要素が絡み合う現代において、自分自身に適合した生き方を見つけることは難しい。まして、社会の常道を志向するレールの上を歩きながらでは尚更だ。
 また、社会に出て、あるいは社会に出る前に障害にぶつかる人々にとって、レールが一つでは逃げ場がない。障害を避けそれぞれが再度目的地に向かって走り出すためには、新しいレールが必要なのだ。

 そして、その新しいレールを生み出すきっかけの場こそが、homeportであると期待する。

 社会の常道から離れ、従来の生き方では決して交わる事がなかった人々や考え方に触れ教訓を得て、存在しなかった新たな選択肢をもとに、改めて今後の目的地を考える場所。そういう場所がhomeportから今後生み出されていくのではないだろうか。
 まさに、多数の人々が交わる「港」であり、新たな世界に出会う「学校」である。

 しかし同時に、その場所に依存してはいけないとも感じる。
 homeportは、得られた経験をもとに、新たなステージへステップアップする場所であり、公私の間に存在するモラトリアム的存在であると思っている。
 「母港」とは帰る場所であると同時に旅立つ場所でもあり、「母校」もまた同様である。
 もちろん、旅立つことが疎遠になることを意味してはいない。要するに、その場に居続けることを目的にしないというだけの話だ。

 私を含め、社会に閉塞感を覚える人々が増え始めている世の中において、homeportが常道を進むでも立ち止まるでもない、「第3の選択肢」となることを祈っている。

少々文章に熱が入ってしまったが、そこは初投稿ゆえのご愛嬌と理解していただけると、ありがたい。
(担当:阿部)

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