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Homedoor物語②

14歳でホームレス問題に出会った代表川口が、最初にこの問題にであった時から、Homedoorを立ち上げ今に至るまでのできごとをお読みいただけます。

孤独との戦い

「ホームレス生活をしているのは、自業自得だからじゃないんです!」

精一杯、学校の定期集会で声をはりあげた。どちらかというと内気な川口の必死の主張は虚しく講堂に響いた。登下校を共にしていた友だちにさえ、「もっと勉強していたら、ホームレスになんてならんかったやん。それって自業自得やん。」と言われてしまう始末だった。人が一度抱いてしまった偏見というものほど、覆すことが難しいものはない。悲しく重苦しい現実が立ちはだかる。

誰にも理解や共感はしてもらえず、徐々に自分の活動への自信を失いかけていた。そのたびに炊き出しに参加しては、どうすれば問題が伝わるのか考え続けた。ただ、こんな中学生があくせく、活動しても焼け石に水で、なんの意味があるんだろうか。見て見ぬふりをしてしまおうか。何度も何度も、そんな考えがよぎった。そこで逆に考えてみた。

「もしも今、自分が何もしなかったら、ホームレス問題は何も変わらない。凍死や餓死する人が減らないままだ。」

そう自分を奮い立たせた。講演がダメなら、今度は書いて伝えよう!と校内新聞を発行したり、炊き出しのお米を集める活動を行ったりと、あの手この手で活動を広げていった。

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そして少しずつ、校内でもホームレス問題に興味を持つ者が増えていった。炊き出し用のお米を集めていた募金箱には大量のお米だけでなく、親御さんからの温かいお手紙が一緒に添えられていた。成果が形になり始めていた。とはいえ、感じていたホームレスのおっちゃんたちへの偏見も劣悪な労働環境も、結局何ひとつ変わっていないことに焦りを感じていたのも事実だった。

そんな中、ボランティア・スピリット・アワードという賞に、ひょんなことから応募することになった。これは中高生のボランティア活動をする者に賞を贈るというものだ。関西ブロック代表に選ばれ、東京での全国表彰式と最終選考が行われた。トントン拍子に話は進んでいく。そしてボランティア親善大使に16歳の川口が選ばれた。今までの孤独との戦いが形になった瞬間だった。

Homedoor誕生

「まだまだ、私にもできることがある」

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ボランティア親善大使に選ばれ、ワシントンD.C.での濃密な1週間の国際会議を体験した。各国の親善大使の活動を聞いてみるとスケールの大きさに舌を巻くばかりだった。中学生ながら何億円というお金を一人で集めている人や、企業や行政を巻き込み活動を展開している人もいた。何もないゼロの状態からたった一人でも懸命に活動に取り組んでいた姿に非常に刺激を受けた。その経験から気付かされたのは、いつの間にか『私にはここまでしかできない』と自分の中で限界を作っていたということだった。

まだまだやれることがある。そう考えた川口は帰国後、衝動的に1枚の絵を描いた。それは、施設の間取り図だった。

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とりあえず、ここに駆け込めばなんとかなる。

相談に来たその日からゆっくり休むことができる個室が用意されており、栄養の取れる温かい食事がいただける食堂がある。そして、誰もが働ける仕事がある。
そんな場所があれば、この日本で、この大阪で、路上で孤独になくなってしまう命を救えるのではないか。そんな仮説から描いた1枚の絵だった。

そして18歳になった川口は大学へ進学する。ホームレス研究が日本で一番進む大阪市立大学で労働経済を学ぶことに決めた。大学では学業のかたわら、様々な経験を積もうと複数の団体に入り視野を広げた。そして、19歳になり数ヶ月が過ぎた頃、応援してくれる友人の後押しを受けて、任意団体を設立することになった。ビジョンはかねてからの川口の思いであった「ホームレス状態を生み出さない日本の社会構造をつくること」に決めた。

団体名は電車のホームからの転落防止策であるホームドアのように、『人生と言うホームからの最後の転落防止柵』となれるように、そして、『誰もがただいまと帰ることのできる温かいホーム(=居場所)への入り口』という役割を担う団体になれるようにと願いを込め、【Homedoor】と名づけた。こうして、Homedoorは2010年4月、ついに産声をあげた。

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