将来/シカゴ/しらふ

 毎日、暴飲を繰り返している。よくない。年末商戦のただなか、我から身を崩そうとしている。ただでさえ疲れた体にしいて酒を注いで、どうにか一日というものの体裁を取り繕っている。これがなければ眠れない。しらふだと考えてしまう。己の行く末、30過ぎて、未婚の、小売りに従事し甲斐性は見込めない、しだいに強まる貧乏暇なしの感覚、果たしてどうやって切り抜けていこうか。何から手を付ければよいのやら。このまえ缶ごみの日を逃したので、酎ハイ缶は今やはちきれんばかりだ。しらふだと考える。下手の考え休みに似たりというから、たぶんもっとまともに何事か思案している連中にはとんだ小休憩をしているように映ずるかもしれないが、あるかなしかの頭を使って精一杯、どうにかこの見通しのつかないこれからを生きようと、あれこれ考える。そういう風に頭をいっぱいにしていたら寝られるはずもない。そんなやみくもな不安に酒は効く。百薬の長だ。万病のもとだ。

 ただ例えば休み前の夜、朝を気にせず起きていられるときにあっては、仕事終わりにすぐ補給した酒も夜の更けるごと薄まって、コンビニへ買い足しに行くのも部屋着を着替えるのがおっくう、寒くなってきた部屋の暖房の電源を入れなおすのさえためらわれて、薄い布団にくるまりながら、パソコンをてちてちしている。今、現在だ。

 枕元にはいくつか文庫の詩集がおいてある。詩集を買うときはいつもこんな調子だ。寝る前にひとつふたつ読んでよい夜を過ごそうだとか高邁に思って、そのうちに漫画本の下敷きになったりしている。引っ張り出そうか。どちらも岩波の、茨木のり子詩集とシカゴ詩集。前者はまだまともに読んでいない。後者のシカゴ詩集は、学生時分に買って、どこかに失くしてしまったものを、いつか新しく買い直した。読み返してたいていは憶えていなかった。海外詩なんてそんなものだ。けれどその冒頭に収められている「シカゴ」、その出だしの小気味よさには改めてうっとりした。そうだ、これが好きだったときがあった。文学青年だった。中年の今になって、その青さがわかった。

 よい詩集は解説もよい。これは少しばかり本を読んできたことで培った偏見だ。当該文庫の訳者解説、その末尾にはこうある。

『シカゴ詩集』を通じて、この仕事を進めながら、何よりも強く私の心を動かしたのは、ここに溢れている、若々しい熱情と非常に健康な精神の、何ものをも恐れることのない自由さ――それと、あらゆる人間にたいする、詩人の限りなく深大な愛情である。

 何事にもふまじめで、不健康な生活をしている、将来を思うだけでおっかなびっくりな、友だちのいない身にも、上のように評される詩人のことばは透る。これ以上、よけいな形容をつけたしする必要はないだろう。解説を読んで本編を読んで解説をまた読み返して、そうだなあそうだなあ、となった。なかば憧憬の念もある。こういうことばを書きたかった。こういうことを思いたかった。書けなかった。思えなかった。ぐずぐずと書き連ねるのはほとんど妄言、夢想ばかりだ。熱情も健全な精神もひとへの愛情もない。憂さ晴らしのように酔いに任せてタイピングした、無我夢中の傍若無人な散文。明日になったら何を書いたかも忘れてまた平気な顔でのらりくらりと生きる、その連続に、「シカゴ詩集」はひやりと刺さった。気分だけはまだ文学青年でいるらしかった。

 詩集の一篇「文体」。

 文体――文体については大いにしゃべるがよい。
 どこで自分の文体が得られるかはわかるのだ、
   ちょうどバレリーナのパヴロワがその脚を
   または野球選手タイ・カップの打球眼を得たところがわかるように。     いくらでも話すがよい。
 ただし、ぼくの文体は持っていってくれるな。
   それはぼくの顔だ。
   大したものではないだろうが
    ともかく、ぼくの顔なのだ。
ぼくはそれで語り、それで歌い、それで見たり、味わったり、感じたりする。それを何故守ろうとするのか、自分で知っているのだ。
この文体を殺してみろ
          それはパヴロワの脚を折り
          タイ・カップの打球眼をつぶすと同じだ。

 生活はことばだ。どうもうろんなことばを続けてばかりいる。冗長な問わず語りばかりしている。とうてい上に引いた詩のようには、文体のひとつと胸を張って言える代物ではない。せめて丁寧な、まっとうな生活を送り、ひとなみのことばを書けるようになりたい。などと殊勝な心掛けをするくらいには、どうやら多少、しらふになってきているらしかった。眠るにはちょうど潮時だ。

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