ヘンリー八世
映画でも小説でも漫画でも、触れる作品はどうしても自分の興味ある作品に偏ってしまう。映画は最近アメコミばかり観ているし、小説は日本のものばかり、漫画はきらら系のかわいい女の子だけ登場するゆるふわ4コマしか受け付けない体になってしまっている。それで事足れりと普段はしているのだが、たまになんか新規開拓するかという気分になって、私は手始めに自分が観なそうな映画を探した。
「ファイアーブランド ヘンリー8世最後の妻」という映画がきょう公開された。私は先月予告で存在を知った。イギリスの歴史もの。私は世界史をまじめに勉強してこなかったので、舞台となっている当時の宗教改革とかテューダー朝とか言われてもなんのこっちゃ。たぶん私には面白くは感じられないだろうなと思った。まあともあれ物は試しだ。自分の知らないジャンルに手を出すきっかけにはちょうどいい。
映画が公開されるまでには間があったので、事前に当時を描いた小説や漫画がないか探した。シェイクスピアの戯曲にひとつ見つけた。「ヘンリー八世」(ちくま文庫)がそれだった。とりあえず買って読んでみた。
シェイクスピアも私はろくに触れたことがない。大学時代に、シェイクスピアの一節を会話に差し込んだりするの格好よさそう~というふざけた理由で一、二の戯曲を読んだけど、なにも身につくものはなかった。戯曲って難しいなあというイメージだけが残った。
シェイクスピア「ヘンリー八世」も映画「ファイアーブランド」の予習として読めばいいやと軽い気持ちでひもといてみたら、存外面白かった。ヘンリー八世が主人公というよりかは、その側近の人たちの権謀術数や盛者必衰がメインで描かれていて、第一王妃・キャサリンの枢機卿に対する態度やセリフ回し(第二幕第四場)、そして枢機卿の没落を知ったキャサリンの鷹揚さ(第四幕第二場)が特に気に入った。戯曲では、キャサリンが追放されて新たに迎えられた第二王妃・アンが娘のエリザベスを出産して終わる。
ヘンリー八世は6人もの王妃をかわるがわる迎えたという。ずるいぞ。一人くらい俺に分けてくれよ。ともあれ「ファイアーブランド」の予告では、王妃5人目までの去就が序盤に紹介されている。一人目のキャサリンは追放、二人目のアンは処刑、三人目は出産死亡。四人目は追放。五人目は処刑。碌な男ではないことは確かだ。映画では六人目の妻とヘンリー八世が物語られるらしい。シェイクスピアと「ファイアーブランド」のまでの間、他の王妃たちにいったい何があったんだと思って、ネットで調べた。しかしウェブサイトの無味乾燥な説明だけでは物足らない。シェイクスピアみたいな物語として読んでみたいと思って、いい本がないかと探していると、日本の漫画に見つけた。こざき亜衣「セシルの女王」という作品。
エリザベス女王に仕えたらしい実在する重臣のウィリアム・セシルを主人公に、彼の少年期・ヘンリー八世の治世が描かれている。試し読みしてみると、ちょうどシェイクスピア「ヘンリー八世」の続きといってよいところから始まっていた。ちょうど新刊の八巻目が出ていた。追いやすい巻数だ。大人買いした。
私は史実に詳しくないのでどこまでが実でどこからが虚か判断ができないけれど、そんなことに関わらず、すぐにのめり込んでしまった。ヘンリー八世の横暴さはシェイクスピアで見た時よりも拍車がかかっていて、王を取り巻く連中の貶めあいも手に汗握る。腐った人間群像のさなかに描写されるささいな恋物語や友愛がまた胸を打って、悶えながら読んだ。映画予告の紹介通りに、二人目の妃は惨殺され、三人目はたやすく死ぬ。三人目の王妃の気位が私はいちばんしたたかで好きだ。王様に腰を振って参りますわ、と言ってのける一コマが大好き。四人目の王妃は変わり種の女で、追放こそされたけれどいちばん無傷で安心した。五人目が、作中でも紹介されているようにいっとう不運で、悲しかった。「ファイアーブランド」でメイン役を張る六人目の王妃も漫画では描かれている。これを読んだら映画のネタバレになっちゃうかなあと危惧したが、歴史ものにネタバレもくそもないと思いなおした。ヘンリー八世と六人目の王妃、どちらが生き延びるかはもう知ってしまっていた。献身的に王を、その子息を思いやる六人目が愛おしかった。歴史通りに物語は進み、最新刊の八巻目はちょうどいいところで終わる。早く九巻目を出してくれ!!!
私は「セシルの女王」を何回も読み返した。ふだん私が好んで読んでいる漫画みたいな、女の子同士のキャッキャうふふとは無縁だけれど、とにかく面白くて心惹かれた。純粋に絵が奇麗だ。魅せられてしまう。作者を調べるとヒット作「あさひなぐ」を書いた人らしい。こんど読んでみたい。しかしとにかく今はヘンリー八世だ。早く映画を観たい。今なら私は絶対に「ファイアーブランド」を面白く観られる。楽しいな。楽しい。自分が面白いと思える領分を広げていくのは、物語に触れる醍醐味の一つだ。
バイブスが完全に高まった状態で今日を迎えた。映画初回から観ようと思って、劇場が開く前にいそいそ出かけた。するとそこには開場を待つ長蛇の列。みんなファイアーブランドを観に来たんだな、やっぱ誰もが待ち焦がれていたよなあ、なんてしみじみしていると、いざ映画館が開いて人の波はいっせいにグッズコーナーへ。どうやらみんな今日から公開される「トリリオンゲーム」の劇場版、そのグッズにお熱らしい。事前にパンフレットを買いたいなと考えていたのだけど、あまりに人が並んでいる。あの、私はトリリオンゲームに興味がないんで先にパンフレットを買わせてくれませんか。私はあなたたちの敵じゃありません。譲ってください。私はしがない「ファイアーブランド」ファンです。まあ、映画を観終わってから買えばいいか。
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「ファイアーブランド」のスクリーンの人入りは十人もいなかった。劇場にはあんなに人がいたのにね。目黒蓮が「ファイアーブランド」に登場したらみんなこの映画を観てくれるのかなあ。
映画が始まり、終わった。私は恍惚とした気分でスクリーンを後にした。「セシルの女王」で描かれていた第六王妃とはまた違った肉付け、脚色で、世界史に疎い私には何がほんとうなのかわからないけど、気持ちのいい結末だった。私は「ファイアーブランド」が心の底から気に入った。これはもう今年ベストでいい。どこを切り抜いても好きだ。好きだ。好きだ!! 最期のほうの魅せ方に関しては、「セシルの女王」よりも鬼気迫っていて、溜飲が下がる。エンドロールに流れる曲も良くて、後になって調べた。
シェイクスピア「ヘンリー八世」でも「セシルの女王」でも「ファイアーブランド」でも、それぞれヘンリー八世の描かれ方が違っていて、横暴さこそ一致してはいるが、仔細はまったく異なる。同じ人物・題材を扱っているのに、味わえば味わうほどそれぞれに発見がある。いい戯曲だ。いい漫画だ。いい映画だ。映画「ファイアーブランド」ではエリザベス女王の活躍を仄めかして幕となる。「セシルの女王」の九巻目以降は、いよいよエリザベスが歴史の表舞台に立ってくるだろう。なおのこと楽しみが増えた。早く続きを読ませてくれ。
映画を観終わって、さあパンフレットを買うぞと思ったら、まだトリリオンゲーム目的の客の列は引いてなかった。相変わらずの長蛇。まあ、こんど買えばいい。私は出口に向かった。それにしてもトリリオンゲームとやらはそんなに面白いのだろうか。私にとっては未知の領分、しかしイギリス史にだってどうにか興味を持てたのだ、トリリオンゲームも観てみようかと思った。自分のふだん触れない作品に触れるのは、とても楽しい。