【お気持ち】文学について

 李恢成が死んだ。昨日、北海道新聞の記事で知った。彼は晩年を札幌で過ごしていたから、道新はわりあいページを多く扱っていた。「地上生活者」という大長篇小説を執筆中だったようだ。私は追ってはいなかったけれど、惜しまれる死だと思う。

 私は芥川賞受賞作「砧をうつ女」ではじめて彼を知った。芥川賞全集の第9巻に収められている。高校時代、この全集をブックオフで100円で買った。当時といえば私はマイナーな小説を探していたので、知らない作家だらけの当該巻は垂涎の一冊だった。これで文学通ぶれるぞ! といそいそ読んだ。
 収録作は李恢成「砧をうつ女」、東峰夫「オキナワの少年」、宮原昭夫「誰かが触った」、畑山博「いつか汽笛を鳴らして」、郷静子「れくいえむ」、山本道子「ベティさんの庭」。
 この中では郷静子の小説がいちばん良かった。次に畑山博。「いつか汽笛を鳴らして」は兎口の醜形に生まれてしまって鬱屈を抱えている男主人公のやりきれない物語であり、ラストの空恐ろしさみたいなものは今でも印象に残っている。それ以外の小説ももちろん良かった。100円ぽっちでこんなに良いものを読ませてもらえていいのだろうかと不安になった。

 しかし、郷静子も畑山博もその後が続かなかった。なにせ著作が流通していない。ブックオフにはまず見つからない。ネットで買えばいいのだろうが、高校生の時分では自前のPCやネット環境、それにお金もなかったから。古本屋に行くたびにワンチャンないかなと探して、毎回失望して帰るのがオチだった。
 あるとき、李恢成の文庫本を見つけた。青い背表紙の新潮文庫。郷静子や畑山博ではないのが残念だったが、李恢成もまあまあだったから、どれ別作品を読んでやるかと上から目線で手に取った。「伽倻子のために」という長編である。

「伽倻子のために」はずば抜けて良くて、上に引用した場面がとにかく私は大好きで、別れたいと無理を言うヒロインに、主人公が大上段に構えて説得する場面。別れる理由を言うべきだ、それが人間の……と主人公は口にして、はたと押し黙ってしまう。仰々しいことを言おうとして、ふいに冷静になる。人間の義務? 人間の役目? どう言葉を続けようったって、一個の人間に大げさな何かなんてあるわけないじゃないか。私は「伽倻子のために」を恋愛物の白眉だと思った。思っている。

 大学生のころ、また李恢成の文庫を入手した。講談社文芸文庫の「われら青春の途上にて」。表題作はその名の通り青春小説であり、しかしながら中篇ということもあって少し物足らなかった。これなら有島武郎「星座」という青春小説のほうが上だぜ。そう居丈高になって、私は李恢成を忘れた。

 忘れて、十年後。李恢成が死んだ。彼の良い読者ではない私にはその死を悼む資格がないが、それであっても悲しい。作者の死によって未完となる小説ほど、苦しいものはない。有島武郎「星座」がそうだ。作者が女と心中しくさりやがって途絶えた。李恢成は病死だった。死にざまに優劣はない。残念なことだけが確かだ。

§ § §

 友人に、有島武郎の研究者がいる。おなじ札幌の大学で勉学を共にし、有島武郎の「星座」を同じく好んだ。専攻こそ、彼は近現代文学で私は日本の古典と異なっていたけれど。その彼がこの春晴れて名古屋に就職するという。ここではNと呼称する。

 Nから栄転の報を聞いて、久しぶりに飲みたいと思った。約束を取り付ける。一年半の音信不通の時期があったとはいえ、連絡すると返事はすぐに帰ってきて、二言三言で会う段取りが付く。いざ当日に集合場所で落ち合う。私は先だって北海道新聞で紹介されていた酒場「ようかいブルーイング」という店に行きたいと言った。Nは肯った。この店には店主がこだわりぬいたビールがあるという。酒はお互い何でも好きだ。ビールは特に好きだ。
 店内はシックな感じで雰囲気も抜群、女を連れ込むにはもってこいだなと下世話に思った。あいにく連れ込んだのは旧友だったので、変な気を起こさずに済んだ。危ないところだ。
 我々が文学談義に花を咲かしているところ、気さくな店主が会話に彩りを添える。早い時間に行ったから、客といえば私たち二人だけだった。店主を交えて三人でわいわいと盛り上がった。こだわりのビールというのがまたおいしくて、私はブドウから作ったワイン風味のビール(メニュー名は忘れた)というのを注文した。これがまた一口飲んだら味わいはほとんど赤ワイン、そのくせ舌触りはビールのそれで、魔法みたいな一杯だった。うまいうまいとかぱかぱ飲む。連れもいろいろ頼んでへべれけである。Nは、ふだんは慇懃なのだが酒を飲むとまるで豹変する。大学時代は酒癖の悪さで知られていた。一軒目だというのにできあがったみたいだった。いかにも学部生時代のNと変わらない感じがして、それは青春の地続きで、懐かしい気持ちになった。三十路を迎えてこんなことを思うのは恥ずかしいが、Nと飲んでいると、まだ青春の途上にいる感じがする。私はあのころに引き戻される。

 私はNと会う前に、有島武郎「星座」を読み返していた。大学時代ぶりだった。再読する本には発見がある。昔より面白くなかったとか、今になって面白さが分かっただとか。「星座」は、そのどちらでもない。読み返しても面白い! そう感じた。そういう小説は、あまり多くない。

 飲んでいる途中、私は有島武郎「星座」の話を振った。読み直して、柿江という作中人物が好きになったと。柿江は小説内で、己をこう自己規定する。

 柿江は自分が如何いふ骨組みで成立つてゐるかを知りぬいているのだから。彼奴は妙に並外れた空想家で、おまけに常識はづれの振舞ひをする男だが、あれでもきまり所は案外きまつてゐて、根が正直で生れながらの道徳家だ、さういふ印象を誰れにでも與へてゐる。彼れはそれを意識してゐた。

有島武郎全集第五巻「星座」より

 これは俺のことだ! と私は言った。ボヴァリー夫人は私だというみたいに。楽しみはそぞろ読みゆく書の中に我と等しき人を見しとき、とは橘曙覧という江戸時代の歌人の一首であるが、私の読書の楽しみは、ほとんどこれと変わりない。自分みたいな出来損ないの人間でもどうにか生きていることを確かめるように、私は物語られる屈託を読む。柿江は俺なんだよ。私はNに熱弁した。有島武郎の研究者はちょっと苦笑して、ぼくも柿江が好きですよ、と言った。

 酒を飲み飲み「ようかいブルーイング」を出て、さあ二軒目というところで、Nは割と酔っぱらっていた(ように見えた)。このまま連れまわすのも気が引けて、N宅で飲むことにした。コンビニで酒を買い込み、さあ宅飲み。久しぶりに訪れる彼の家は、研究書や古書でいっぱいだった。特に倉田百三の稀覯本には目を見張った。俺もこれ欲しい~! と思いながら本棚を眺める。名古屋までの引っ越し費用はだいぶ嵩むらしい。私は本の山を見て、それはそうだと思った。

 男二人、卓を交えて静かに飲む。大学時代もよくこうしていた。あのころにはありふれていた景色が、今はとなっては貴重だ。もう少し早くにこのかけがえのない時間の大切さに気付ければよかったのだけど、そう何もかも悟ったように生きるには、私は少し幼い。私たちは思い出話やこれからの話をぽつりぽつりとした。Nは今月末に有島武郎「星座」の講演を一つやるみたいだった。客寄せのポスターにはN”先生”、なんて文言があり、先生というその語に私は妬いた。先生、こんどの講演を楽しみにしていますよ。

 私も酔っていた。私はNの眼を見た。なにか、伝えなければいけないことがある気がした。しかし言葉にしようとすると、そのどれもが違うのだ。私は本を読み足りていないみたいだった。

 眼が合う。ふいの沈黙。辛うじて私は言った。お前に会えてよかったよ。少し早すぎる惜別だった。まだこれからも多少は会えるのにね。けれど私の語彙力ではそれが精一杯だった。私は手を差し出した。Nはその手の甲に口づけをした。それから、何かよくわからないことを口走った。Nは酔っていた。私も酔っていた。もうそろそろお暇するよ。そう言い残して宅を出る。雪道を、転ばないよう気を付けて帰る。俺も飲み過ぎたな。昔はもっと飲めた。そんなくだらない負け惜しみを繰り返す。昔は……昔なら……。詮無いことだ。男同士の関係にともすれば誤解されるかもしれないが、私は素直にこういえば良かったのかもしれない。N、お前は私の最愛の人だと。文章ならばいくらでも書ける。発話となるとそうはいかない。けれども私はそういうことを伝えたかった。伝わったかどうか、それは知らない。

§ § §

 今回の芥川賞受賞作が決まった。二名のうちに、安堂ホセがいた。

 文藝あがりの新人で、思考形式やtwitter上の振る舞いも今風の作家。私は彼が嫌いだ。作物も含めて。

 しかしそういう作家が、李恢成や郷静子、赤染晶子という名立たる文豪の登竜門である芥川賞を受賞したというからには、おかしいのは私のほうなのだろう。私は今度の芥川賞候補作、乗代雄介が手にするものだと賭けていたから。審査員が九人もいて、その九人のうち少なからぬ人数が安藤ホセに是をしたのだ。私はとうてい是とできない。これはつまり、私が現代文学の良い読者ではないということだ。もとより、他の小説家に対しても私は良い読者ではない。芥川賞受賞者でいえば、李琴峰あたりには、だいぶ不信感がある。しかし一介の中年男性が不信感を強めたところで、文学界隈にそよ風ほどの影響もない。私は良い読者ではない。それだけが確かだった。

 ただ、どうあれ、本の感想は自由だ。自由であるべきだ。誰かが悪しき本だと声高に叫んだとして、読まずに同調するのは愚かだ。芥川賞受賞作にだって駄作はたくさんある。審査員のお偉いさんがどんなに好評価しようとも、個の読者にとって刺さらなかったらそれまでの話。安藤ホセの小説を読んだうえで、私は声高に叫びたい。これは芥川賞に泥を塗る選択だろうと。格落ちが激しい。同じ文藝出身でも例えば遠野遥はデビュー作「改良」から魅力があった。めっちゃ面白かった。それにひきかえ今回の受賞は……。誰にでもあげればいいってもんじゃないだろう?

 私は良い読者ではない。それだけが確かだ。私は今風ではないのだった。

 流行りにのれないからといって気軽にお気持ちを表明する人間ほどみっともない者もない。私のプレイしている学園アイドルマスターというソシャゲにも軽々しくお気持ちを発する輩がいる。この前noteで見かけた。

 学園アイドルマスターという神ソシャゲに対して拙い文章で物申していやがる。不遜な輩だ。学マスの売上を見てみるがいい。うなぎ上りだ。大多数に支持されているという証左。その金銭的価値を前に、アンチは口を噤んで黙るべきなのだ。お気持ちなんてくだらない世迷言を発さずに静かに去ね。はい。お気持ちなんてするのは劣等生。ジャンルの流行りの足を引っ張ったら殺されるべきだ。まったく、みっともない。はい。黙って去ります。

 何の話?

 李恢成が好きだ。有島武郎が好きだ。私は文学が好きだ。けれど私は良い読者では年年歳歳なくなっていく。私はきっと次の夏の芥川賞にも異を唱え、来冬も異を唱え、そのことばは届かない。今の文学は私にとって年を経るごとに魅力を欠いていく。私はもう良き読者ではない。しかしそれでも本を読んでいたい。私にはもう古典しかない。読み止しの源氏物語を私は紐解いていく。馴染んだ言葉が開かれている。

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