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風道/生活/ログマロープ

 まさかこんなにばかな人間になるとは思わなかったから、つい一所懸命に生きてきてしまったのだ。
 もっと賢く、行動力のある人間だと思い違えていた。もっと優しく、もっとたくさんの人に好かれ、もっとたくさんの人を好くことのできる人間だと勘違いしていた。
 でも、現実はそうではないらしい。全然、違うのだ。
 いつも誰かを嫌っており、いつも誰かをうらやんでいる。
 誰にも言えないことだ。

増田みず子「風道」

 読むのに精神がすり減る小説というものがあり、増田みず子「風道」は私にとってまさしくそれだった。
 主人公は三十四歳の独身の見千子、大学の研究室のスタッフの職に就きながらもう十二年、職場の誰とも折り合えず研究も全くやっておらず、上司が退官するとなって後ろ盾も失おうとしている。小説内で主人公に何か特筆すべき事件は起こらない。地の文は三人称でひたすらに自分の現在過去未来への恨み節が撒き散らされる。同僚であったり家族であったり旧友であったり、周りの人間はふいに死んだりあるいは出世したりと人生の駒を前に後ろに進めるなか、見千子はひたすらに流されるまま、ある日職場で自分が結婚して退職するという根も葉もないうわさを流されて、それを好機と退職する。あらすじといえばただそれだけの話だ。
 見千子の独白めいた毒は読んでいて気が滅入る。それはその愚痴があまりに私の身につまされて、性別の職業も身の上も違う彼女の内省が、私の平生の暗い思いと通底するから。見千子は私だと叫びたくなり、それでいてお前なんかとは似ても似つかないと同族嫌悪する心持ちもあって、つまりは私も〈いつも誰かを嫌っており、いつも誰かをうらやんでいる〉。

 自分が十代のとき、三十代の女を見て、何か心を動かされたことがあっただろうか。何もなかった。言葉や気持が通じるとさえ思っていなかったのだ。
 時が流れ、それに応じて、生きている人間は変質していく。自分では変わらないつもりでも、変わっていく。(……中略……)十代の自分は、三十代の自分を軽蔑するだろう。三十代の自分は、十代の自分を哀れみ、結局は軽蔑するだろう。

増田みず子「風道」

 自分一人で考えるから、すぐに振出しに戻ってしまう。
 だんだん頭の回転が悪くなる。以前はよく回ったこともあった気がするが、それを思い出せないくらいに、今の見千子の頭の働きは鈍くなっている。
 生きているのはみにくいことだ。そんな思いが、霧のように体を包む。自分がこんな低調子で生きていることがみっともなく、苦しく、退屈で、たえがたい。

増田みず子「風道」

 こんな風に堂々巡りの自己嫌悪が展開する。周囲への嫉妬や憎悪がそっくりそのまま自分に跳ね返ってきて、どこにも行けない何も為せないひとりの人間の鬱屈は、ともすれば私自身の鬱屈と同根であるようだった。見千子は自分の人生を、少しも楽しいと思っていないし、楽しくしたいとも思っていない。だから見千子の想念に終始するこの小説は、物語としては楽しくない。劇的な出会いが起こるわけでもない。悲劇も喜劇も見千子の蚊帳の外で進む。そしてそれは、私の人生の鏡写しのようだった。人生として楽しくないこの生、このままの暮らしが、あと十年も二十年も続けられるものだろうか。こんな諦念まみれの己を抱えて私は一生暮らしていけるのか。このままじゃいけない、と私は思う。見千子も思う。

 好きなことをして生きることができるだけの力を身につけたい。苦しむのはいやだ。もっと強く、スケールの大きな人間になりたい。

増田みず子「風道」

 内心ではそう願わないこともない。けれど、私は見千子は、どうすればいいのだ。わからない。わからないから考える。けれどもこの鈍い頭では、思考は己の欠点を指し示すばかりでなにをどうすればいいのかの答えは見つからない。

 飛びたいが、翼がない。飛ぶ真似をして、いっそ落ちてしまう方がいさぎがよいのか。
 こんなに長く生きて、自分がつまらない人間であることを認めてしょんぼりと肩を落とすのは、不合理なことだ。なぜ、そんなことを認めなければならないのだろう。たいした人間であるふりをして、飛ぶ真似をして、それで落ちずにすむ方法はないだろうか。

増田みず子「風道」

 見千子はいまの職場を退職するという形で、彼女なりの不細工な飛び方を果たした。貯金を全部下ろして、これが自分の全財産だと認め、これから自分は何をしようか。ひとつふたつ夢想する。

 すとん、と現実感が消えてしまった。見千子は白日夢の中を漂っていて、うっとりしながら、いつ死んでもいいような気がしていた。生まれてきたときだって、この世がどんなところか知らずに生まれてきたのだから。

増田みず子「風道」

 小説は死に天秤をわずかに傾けて幕となる。それは見方を変えれば、周囲に流されるままずるずると生きてきた、どこか保身的なところのある彼女が、無事でなんかなくてもいいと自分の殻を破った瞬間のようにも読めた。あるいはただ捨て鉢になっただけかもしれないが……。飛んでみて落下してやっぱ最初は全然うまく飛べないな、身を切る風も思ったよりも冷たいな、一歩進んで二歩戻って三回転んでもう満身創痍、そんなふうに打ちのめされながらも、どうにか生きていく見千子の姿を私は想像したい。

「戦争は楽です。自分一人の命さえ守ればいい。駄目だったら死ぬだけの話だ」
「じゃ普通の生活は戦争より辛いのね。死ねばいいなんて通用しないわ。それはわからなくちゃいけないわ」

大岡昇平「武蔵野夫人」

 私は大岡昇平「武蔵野夫人」の間男と夫人のやりとりがたまらなく大好きなので何度も引用する。何度も反芻する。生きることは戦争ではない。誰と戦って誰に勝つつもりなんだ。生きるということは生きるということ。そんな同語反復以外にありはしない。

 どうせ生きるなら、楽しく、きびきびやりたい。その方がいいに決まっている。

増田みず子「風道」

 生きるか死ぬか、ではない。そんなものは普通の生活とは呼べない。どう生きるか。生きたいか。生活の真髄はそこにしかない。周囲に対して外殻を作って鎧って、己ひとりにこだわっていた見千子が、つまらぬ生活に見切りをつけて、翼がないなりに飛ぼうとしているその門出を、私は祝福したいのだ。

 ひるがえって私はいまだ、世のなかを憂しとやさしと思えども鳥ではないので飛び立てずにいる。断崖絶壁切り立った崖のその切っ先に立っていて、刻一刻と削れていくどのみち落ちてしまうだろうこの生活の足場にしがみついて汲々としている。何か劇的な出会いが出来事がわが身に起こらないものだろうか。辛うじて二十代の私はそんな夢想をしている。三十代の私は、今の私をきっと軽蔑するだろう。せめて三十代の私はどこかに飛び立てているだろうか。普通の生活を送れているだろうか。私の人生は長らく戦時下なような気がする。

 誰かを抱きしめるのはむずかしい。誰かを抱きしめるつもりでいて、いつの間にか自分を抱いている。

増田みず子「風道」


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