左川ちか 黒衣の明星
十二月を間近に控えて札幌の雪は降りみ降らずみ路上はどこも白く、朝夕には凍っていて歩くのに骨がいる。左川ちかという北海道出身の詩人の展示が道立文学館で開催されていると知って、行くことにした。文学館があるのは中島公園というひろい公園の一画、すっかり禿げた並木道を滑らないよう歩いた。銀杏の残り香が生乾きの雑巾みたいに臭い。
左川ちかは夭折の詩人として知られている。といっても私はそれまで名前くらいしか知らず、じっさいの彼女の詩作には触れてこなかった。近年になって、戦前の北海道という僻地生まれ、さらには早死にの女性という要素が重なってか、全集が編まれたり評論が出たりした。それでもそれらの本はたいがいが詩文芸をもっぱらにする出版社からなるものですこし値が張る。ところがこの秋に岩波文庫の一冊として「左川ちか詩集」が上梓され、私みたいな門外漢にも手の出しやすい作家となった。
岩波文庫でぺらぺらめくり、実物を読んでみると、私にはまるでわからなかった。生硬な感じがした。それでもときおりこれはいいと思える一節があって、宝探しをするように読んだ。それが正しい読み方なのか、私は知らない。
文庫の解説にはこうある。
道産子としては余計なお世話だと眉をひそめたくなる解説だが、実のところはその通りかもしれない。ここは広義の芸術にとって不毛の大地。村上春樹も「ノルウェイの森」で北海道は第二の都市である旭川をこてんぱんに蔑んでいる。さいわい左川ちかは、生まれこそ恵まれなかったとはいえ、人に恵まれた。それは伊藤整や萩原朔太郎の知友を得たり、百田宗治夫妻の厄介になったりしていることからもわかる。百田といえば私の出身中学の校歌の作詞者だ。誰もそんなことを意識して歌ってはいないだろうし、左川ちかよりずっと忘れ去られた詩人ではあるけれど、オホーツクには彼の名前がたしかに遺っている。
閑話休題。文学館の左川ちか展は、彼女の遍歴をていねいに追って、貴重な資料を所狭しと並べている。昔の褪せた文芸誌、その開かれたあまたの二ページを私は目を皿のようにして鑑賞した。ウルフやジョイスの詩訳もしており、それは比較として飾られた西脇順三郎らの訳よりも、ずっと格調高く読めた。これはただの贔屓目かもしれないけれど。それでも不遇な場所からその才覚を余すところなく発揮した彼女が、令和の世になって改めて日の目を浴びている姿を目の当たりにするのは、同じ道民として嬉しい。
展覧会に行ったからといって、改めて彼女の詩をいくつか読んでみたけれど、答え合わせをするみたいにするすると読み解けはしなかった。むしろわからない部分の方が多くなった気さえする。
ただ彼女のことばが、何十年もの時を経て人々の心に種をまき、こうして一つの大きな催しを開くまでに至っている。会場には紙粘土作家が作った左川ちかのフィギュアも飾ってあり、切れ長で吊り目の、ベレー帽をかぶった洋装の彼女は、往時のモダンガールの小粋さをぞんぶんに発揮していた。生前は黒い衣装を好んで着ていたという。今を生きていたらきっとゴスロリを着ていたに違いない。当時にそんな単語はなかっただろうが、その服装は特異な印象を他人に与えたに違いない。展覧会のサブタイトル「黒衣の明星」とは、彼女の風貌と詩作物の特徴を端的に言い表したよい喩えだと思う。
会場の最後の方に、左川ちかの数少ない随筆風の小文がいくつか引用されて飾られていた。「樹間をゆくとき」という題の作品は、岩波文庫にも併録されており、初読のときは読み飛ばしていた一節に、会場の末で出くわしたとき、私は打たれた。
私はこれからも少しずつ左川ちかの詩を読むだろう。そのたびにああでもないこうでもないと思って、ああだこうだと考えて、その応酬は会話に似ている。そのうちに、他愛もないおしゃべりのなかで、彼女の彼女なりに託した言葉を汲み取ってみたい。紛れもなくそれは詩を読む楽しみのひとつである。
私が左川ちかの詩で特に好きな一節は「単純なる風景」という詩の末尾だ。
文学館の帰り道、銀杏はずっと匂った。