七月隆文の新刊が出たので

 七月隆文の新作が角川文庫から上梓された。「100万回生きたきみ」。めでたい。私の大好きな作家だ。鳥類にたずねれば、生まれたときはじめて見たものを親と思う刷り込み、ほとんどそれと同じで、私は七月隆文の「ラブ★ゆう」というライトノベルから、読書の道をはじめたのだった。本屋に行ってもまだ右も左もわからない時分だった。七月隆文に導かれてもっぱらラノベに没頭した。彼の過去作は旧筆名名義も漁った。そうして私は「Astral」から「フィリシエラと、わたしと、終わりゆく世界に」から「白人萠乃と世界の危機」から「イリスの虹」から、どうやら文学らしいものに触れているのだと、わかった。

 思い返せば、読書のはじめの一歩として、あまりに軽薄な作家であったかもしれない。たとえばこれが太宰であったならば、ふつうの文学青年然としていられただろう。三島由紀夫であったなら、硬派な男になっていたかもしれない。伊坂幸太郎でもいい。そこそこに小説を楽しみ、かつ人当たりのいい人間になれていた気がする。あるいは海外文学、カフカでもいいシェイクスピアでもいい、新潮文庫の100冊の特性カバーの選ばれる本を先に手に取っていたら、そのまま外語に傾倒して、国際的な私であっただろうか。詩文はどうだ。その時分、私は中二だったから、その年代が好きそうな、日本なら寺山修司、海外ならランボーやボードレールであれば、もう少し私に気品があったに違いない。同じライトノベルから始めるにしても、鎌池和馬や谷川流といった当時の流行どころでありさえすれば、まっとうなオタクとして仲間内でワイワイできていたはずだ。

 ただ、こんなもしもの妄想は、何の用にもならない。私の最初の親は七月隆文だった。そのあと、いくつかの変節があって、ミステリにハマったり純文学に心震わせたりしているうちに、親は数えきれないくらい変わった。複雑な家庭だった。過程だった。けれどもその原点はどうしようもなく七月隆文ただひとりで、子は親を選べないというのはその通りらしかった。

 悪い親ではなかった。2000年代は打ち切りのラノベばかり量産していて、たしかにぱっとはしなかった。10年代には庶民サンプルやぼく明日といった作品群でアニメ、実写映画化を果たし、文春文庫や幻冬舎や新潮文庫にも彼の名前を見つけられるようになった。そうして、20年代、今、七月隆文が角川文庫から小説を出した。これは偉業だ。角川文庫といえばその系列に電撃文庫や富士見ファンタジア文庫がある。上にあげた「フィリシエラ」や「イリスの虹」はそれらのレーベルから発刊された。「ラブ★ゆう」に至って集英社に移り、「学園とセカイと楽園」ではまた角川系列に戻ったが、三巻きりで尻切れトンボな完結のまま、別レーベルに移って、そこで日の目を見た。そうである以上、私の中学生活を費やした、打ち切りのラノベたちは、もう二度とその続きは描かれないのだろうと諦めてしまっていた。それがどうだ。帰ってきた。七月隆文は帰ってきた。電撃、富士見系列に。その首魁たる角川書店は角川文庫に。ならば、夢物語ではない。フィリシエラの二巻は出る。白人萠乃の五人目の戦士が登場する。イリスの虹は完結する。十五年。十五年だ。十五年待ち焦がれてきた。当時中学生だった私は、すっかり中年になってしまった。中の字は同じなのに、続く文字が学生か年かで印象は全く異なる。私の同世代の面々は、まるで様子を変えてしまった。職歴の華々しいものがいるかもしれない。wikipediaで1994年生まれの有名人を調べればごまんとあることだろう。世に知られていなくとも構わない。家庭を持っている人間は過半だろう。子どももいるかもしれない。家を購入しているかもしれない。ワクチンを二回接種しているかもしれない。未婚の低収入の札幌の二十代の私は、たぶんいっとう、必要とされていない存在であるだろう。それがどうした。待っていたんだ。待っているんだ。私はもうそれだけでいい。七月隆文。打ち切られた物語に、ピリオドが打たれることを。

 「100万回生きたきみ」はよかった。ぼく明日以降、何となくこぢんまりした世界観に終始していた。今風のことばでいえば、エモい、そういう形容に迎合する小説が多かった。面白くなかったわけでは決してない。今田隆文らしさがすこし強かっただけだ。心を鬼にしてやさしい物語を書いているのが分かった。彼の本領のひとつである。ときめきメモリアルのノベライズを読めば誰しも了解する。さくらコンタクトでもいい。市川拓司ばりの恋愛を書いている。今田隆文の十八番だ。そうして結実したものが「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」だったろう。しかし、違う。それだけでは決してない。旧筆名ではないから。七月隆文の名義であるから。そのデビューが「白人萠乃と世界の危機」という、破天荒な一作であるから。待っている。待っていた。生った。「100万回生きたきみ」が世に出た。勝鬨を上げるときだ。待っていたんだ。七月隆文らしい世界観で、今田隆文らしく物語られるとき。そうだ、私は懐古厨だった。十五年の月日は新参のファンをきっぱり古参にしてしまった。私よりももっとずっと前にこの小説家に出会っていた人はあまたいるはずだ。彼らも気づいているはずだ。来るぞ。時代が来るぞ。七月隆文の時代だ。何が太宰だ何が三島だ。純文学が何だ。物語りつづけることに真髄があるのだ。途中で退場した彼らより武者小路のほうが私は好きだ。一貫した人間より、一貫しきれなかった人間のほうが、私はずっと好きだよ。しかしこれは違う話だ。七月隆文の話をしよう。している。七月隆文。数限りない変節を経て、またこうして角川に戻ってきた。「100万回生きたきみ」。世評は知らない。私評でよければ、とてもよかった。

 推し、ということばが好きではない。私の話だ。ファンとか、そういうことばのほうがまだしっくりくる。ネットスラングも懐古厨の私だ。推し。推すからには、全身全霊を込めなければいけない。さもなくば推される側に失礼だ。推す側には責任がある。めくらめっぽうに連発すべきことばではない。責任は一度しか取れない。これが大事だ。推した誰某かが失脚しても引退しても死んでもなお、たやすく鞍替えせずに、最高だと殉じる心なくしては、推しなどと口が裂けても使ってはならない。信じつづける意志の力。その前提で、強くひと皆に叫ぶのならば、私は七月隆文推しだ。イリスの虹の三巻は、来年あたりに出るだろうか。

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