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PERCHの聖月曜日 106日目

たとえば、「自己を確立する闘い」というような言葉は、私には実に奇異に感じられる。「闘って」いるあいだは、われわれは《自分》というものについてすこしも考えてはいない。しかも、考えるとは《自分》について考えることにほかならないというのに。
モンテーニュは、「私は低く輝きのない生活をお眼にかける」といったが、私のいう《自分》とは、近代的自我とか主体性といったよそよそしいものでなく、ごく自明で平凡でかつ奇怪なもののことである。そこでは「日本的自我」と「西欧的自我」という区別など何の意味もありはしない。
「西欧と日本」とか「政治と文字」という議論は、結局私には自意識の形態にすぎなかったように思われる。自分を、つねに何らかの超越的な規範の前に立たせて、欠如や罪責に苦しむ“自意識”の形態である。それはたとえば「西欧」そのものをみようとしない。いいかえれば、同じ平面にいる異質な他者をみようとしない。またそれは「政治」そのものをみようとしない。自分がおり、それをさまたげる異質の他者がいるという、根本的な生の条件をみようとしない。

ーーー「平常な場所での文学」『意味という病』柄谷行人,講談社,1989年,p262

An Emaciated Horse Led by His Master
late 16th century


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