見出し画像

PERCHの聖月曜日 116日目

職場からの出品は、この展覧会でも、他の場所に陳列された絵からうけた印象も、生活力には溢れているけれども、素人にわかる範囲での技法、ことに色彩の解釈や置きかたなどが、まだまだもとからあるものに支配され、追随していると感じます。そして何処やら、対象の掴みかたがぼんやりしている。つまり、描きたい心は百あって、描けているところが七十から八十で、あと二十の表わしたいという気持が、その客観的に画面に押しだされ切らない空気のなかに、漂っている感じでした。
自立劇団が大変上手になったけれども新劇のあとを追っているという可能性があるように、絵画のような訓練の要る、材料に費用のかかる芸術では、職場といっても、そこの画家たちはいわゆる労働者ばかりではないでしょう。職場からの絵画のなかに、むしろ絵画以前のエネルギーとして表われている可能性は、現実会の作品や前衛美術会の雰囲気のなかに立ち混って、決して容易でない民主的芸術の前途を暗示しているようでした。
あの展覧会には、日本画も幾つか出ていました。日本画というものの未来について、これらの日本画家はどんな展望を持っていられるかと興味をもちました。ちょうど私が見ていたとき、三人のアメリカ兵が会場に入ってきて、各室をスースー通りぬけながら最後の一室にやって来て、ああこれはいいと言って、一人混っていた女を先にたてて止まったのは、一枚の日本画の前でした。輸出芸術としての日本画の運命が何と鋭く閃いたでしょう。
アンデパンダンの日本画家たちは、日本画というものの屈辱的な運命を克服する使命があります。日本画で線というものは何を意味するでしょう。法隆寺の壁画を思いだします。大観の絵と違った世界があることを感じます。この課題が日本画家たちによって、どう解かれてゆくでしょうか。

ーーー宮本百合子「第一回日本アンデパンダン展批評」,『宮本百合子全集 第十三巻』新日本出版社,1979年
https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/2981_10079.html

Black Lion Wharf
James McNeill Whistler
1859

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集