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PERCHの聖月曜日 109日目

武田 (略)たとえばドストエフスキーなんかみんな非常に尊敬しているけれど、彼はロシア人でロシアの十九世紀しか書けないわけですね。そうすると、それじゃ自分はドストエフスキーばかり読んでいればいいかというと、日本人としては、やっぱり日本の風習もちがうし、意識もちがう、善人、悪人に対する意識もちがうわけですね。ところが、書いたものは、非常に軽薄でいっこう信心の根本に達しない場合が多い。作家はだれだって全部そう思ってます。しかし、書いてみるとどうしても、そこに達しないわけです。だからその時に、反省するにはもう一回ドストエフスキーを読む、もう一回読んでこんな立派なものがあるのに、ということですね。そうすると、そこでまた光をもらってきて、また勇気をとりもどしてやるわけです。だけどそれは結局ドストエフスキー的なところまでいってないものですから、書けないんです。書けないけれども、それなら、たとえば夏目漱石なら夏目漱石に満足するかというと、同じ日本人でありながら、夏目漱石がいても自分の存在のきえないものを書きたい、ということになりますね。だからつまり野心というか、排他ですね。自分というものを確立するためには、どうしても排他しなけりゃならないわけです。排他しなけりゃ吸収されるわけです。だからそういう意味の信心というのはもてなくなっちゃうわけですね。たとえ才能がたりなくても、なにか新しいものをつくらなきゃ、なんのため文章を書くのかわからない。それでみんなじたばたして書くのをやめないわけです。だから最後まで信心をきめないというか、根本を本当に出さないほうが、ながつづきがするわけですよ。変ないいかたですけど、そういう結果になりますね。(笑)

ーーー武田泰淳「対談・いのちの歴史ー宗教と文学 宗左近、武田泰淳」『私の中の地獄』筑摩書房,昭和47年,pp278-279

Island of the Dead
Arnold Böcklin
1880


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