ちょっとした静けさの正体。
「最初で最後のバースプラン。」の続きです。
2007年5月6日。梓ちゃんに「紹介したい友人がいる」と言われ、中目黒のバー「PURPLE」で22時くらいに待ち合わせをした。その友人というのが、マオだった。
当時、マオは24歳で、一回り下の亥年。著名なカメラマンのアシスタントをしており、梓ちゃんから雑誌『SWITCH』の編集者をしていた人と知り合った、と聞いて会いたいと思ったそうだ。
三重県で生まれ、京都の芸術系の大学に進学し、カメラマンになるために上京。そんな自己紹介的なことを聞いてから、マオが持参したブックを暗いバーの灯りの下で見せてもらった。
それはA3サイズの(いや、もう少し大きかったかもしれない)ブックだった。主に人物写真で、みんなカメラレンズを見据えていた。特別凝った写真ではない。でも、被写体が撮影者を受け入れ、自然な笑顔やポーズをしているのがわかった。とても好感の持てる写真だった。
「これ、友人たち? それにしては年齢にバラツキあるな」と呟くと、「街でいいなと思う人がいたら声をかけて、撮らせてもらいました」と答える。それで私は言った。「マオちゃん、大丈夫。撮らせてくださいと正面切って言える人は、絶対にいいカメラマンになるよ」
そのあとはSWITCHで誰を取材したかとか、誰が一番印象深かったかとか、20代と30代の女子らしく互いの恋バナなんかもしながら、私たちは杯を重ねた。酒を美味しそうに飲む若い2人がとても頼もしかった。
「そういえばマオちゃんはどこに住んでるの?」。そう私が尋ねると、「中目黒です」と答える。
「中目黒? 家賃、高くない? お家から援助してもらってるの?」「いえ、築30年の風呂なしオンボロアパートなんです。家賃33,000円です」
しかもトイレは共同。暮らしているのは70代の高齢者ばかりで、一度、トイレに入っていざという瞬間に間違ってドアを開けられたこともあったという。私は再度、思った。この人はタフでいいカメラマンになる。
2014年、マオは独立した。連絡をもらってすぐ、私は撮影を依頼した。11月1日、アテネフランセで行われた是枝裕和監督とミシェル・ゴンドリーの対談だ。企画を手がけた是枝裕和対談集『世界といまを考える』に収録されるモノクロ写真で、時間はトークイベント後の10分程度しかない。ロケーションもさしてよくない。そしてギャラは1万円。でも、マオは世辞ぬきで、本当にいい写真を撮ってくれた。
その後、何度も仕事をした。企業案件もあったし、小山薫堂さんの撮影で尾道にも行ったし、石川県出身の起業家やクリエイター6人の取材、雑誌『SWITCH』にて是枝裕和監督と鴨下信一さんの対談、サウナフェス、宮崎のこゆ財団、京都のホテルなどなど、本当に数えきれない。
そして前後に必ず、酒を飲んだ。12歳下だけど、信頼できる仕事相手で、さらには秘密を打ち明けられる友人でもあった。
特に忘れられないことがある。電通のコピーライターの取材撮影が終わり、私は「マオ、お茶でもしようか」と言った。時間は16時だった。「いいですね」「いや……、お茶やめて、お酒にしない?」「そうしましょう!」
私たちは新橋駅まで歩き、16時過ぎに営業している酒場を探した。突然マオが走り出し、パチンコ屋のサンドイッチマンに声をかける。「ホリさーん!こっちにあるってー!」
私たちは店の軒先のパイプ椅子に座り、中ジョッキで乾杯した。少しして店内のカウンターが空いたと声をかけられ移動し、焼き鳥を食べながら話を続けた。そのときマオが、親しかったある方の死について語り出した。新橋のほどよく満席の焼き鳥屋のカウンターで、その話は目の前に光景をもって立ち上がり、まるで私自身がその場にいるようだった。マオの屈託のなさのなかに潜むちょっとした静けさの正体はこれだったのか、と感じた。
もうひとつは、私の父のことだ。石川県の取材が決まり、私は金沢に住む脳梗塞で倒れた父と3番目の妻に会うため、前日入りすることにした。マオも誘うと二つ返事で行くという。私はマオの家に初めて泊まり、朝早く2人で金沢に向かった。マオは父とその妻の写真をたくさん撮ってくれた。
そして、私が父の次なる見舞いをできていないうちに、マオは金沢で仕事があり、わざわざ父とその妻の家を訪問して、写真を撮ってくれた。父に最後に会ったのは、娘である私ではなく、マオだった。
私は父が死んだとき、マオが撮ってくれた写真を遺影にした。父も喜んでくれたはずだ。
昨日、マオは梓ちゃんを粋に連れて来てくれた。サプライズだった。「ホリさんの店に、絶対、梓と一緒に来たかったんです」。そういえば私が京都に越した2022年2月24日にもマオは東京から逢いに来てくれた。かけがえのない存在というのは、そんな人のことを言う。
(2024年8月7日記)