魅惑の味。
私は現在の家が「生まれてから24軒目」なのだが(在住丸6年の鎌倉だけでも3軒目)、引っ越し好きの血は父から受け継いだようだ。両親が別居し、弟を連れて東京に移り住んでいた母が私と妹も引き取ってくれたのが9歳のときだから、金沢在住はたったの9年なのだが、その9年で父は横山町、彦三町(ひこそまち)、石引(いしびき)、大手町と、金沢市内を4カ所も移り住んでいる。
正直覚えているのは石引の家からで、住んだのは小学校にあがる寸前の2〜3年だろうか。鉄筋コンクリートの平家で、ものすごく小さいけど坪庭があった。母は後年「カビがひどくて、早く引っ越したかった」と言っていた。家族とのほとんど唯一の記憶は、父が風呂に入る前に青江三奈の「伊勢崎町ブルース」の冒頭、「♪チャラッチャチャラララッチャラッ、ッアァ〜、ッアァ〜」を歌いながら、脱いだ服を1枚1枚脱衣所から廊下に放り投げたり、変顔だけ見せたりするシーンだ。廊下にいた私と妹はゲラゲラ笑い転げていた。
さて、そんな初期の移動の人生において、強烈な思い出の場所というのがふたつある。石引の「千加羅(ちから)」という焼肉屋と、彦三町の「福わ家」といううどん屋だ。家族揃って外食をするのは、この2店だけだった。1年に1、2回ずつとか、そんな回数だったから、本当に特別だった。
「千加羅」は高級焼肉ではなく庶民的な店で、店内は煙がもくもくと立ち、いつも満席で活気があった。座敷席が父のお気に入りで、テーブルの中央に卓上ロースターがあって、ひっきりなしに5人の箸が伸びた。
父と母がよく頼んでいたのは、「シロ」と呼ばれる豚の大腸だった。脂身がなくて固いけれど、噛めば噛むほど甘みが口の中にじゅわっと広がる。子どもや年寄りには不向きで、毎回「よく噛んでから飲み込むんやぞ」と父が言っていた。甘いタレもご飯とよく合った。まだ4歳くらいだった弟がペロリと平らげ、「白ご飯、おかわり!」と元気な声で言って、店のおばさんに「ご飯はもともと白い!」と笑われたのを覚えている。
「福わ内」は1階が駐車場で、同じ敷地内には「鬼は外」という蕎麦屋があった(現在閉店)。大きな石造りの階段をのぼり、重厚な日本家屋といった風情の引き戸を開けると、奥に伸びる座敷席が目に入る。テーブル席や個室もあるのだが、父はここでも座敷席に陣取った。
うどんは「一式」という、抹茶、野菜菓子、うどん鍋(2玉分)、おじや、香物のコースで提供される。たいがいは、父の好きな和牛肉の乗ったうどん鍋一式と、母の好きなにしんの乗ったうどん鍋一式が注文された。2つでうどん4玉分になるから、両親と子ども3人には十分の量だった。
そしてテーブルにセットされた箸袋には、金沢弁で「あんた、ようおいでたね。今お抹茶いただいとって、ちょっこし待っとってたいま。」というような、うどんを待つ心得が書いてある。父が行くたびに「これ、うちの兄貴がつくった箸袋やぞ」と自慢げに言っていた。「つくった」というのは、金沢弁の監修と箸袋のデザインのことらしい。昨日投稿した「肩車。」にも書いたけれど、伯父は金沢工芸美術大学の出身で、美大入学専門予備校「堀アート・デザイン研究所」の代表をしていたのだ。
そうこうしているうち、抹茶と一緒に砂糖漬けの野菜菓子が出される。レンコン、人参、大根、ふき、ゴボウ、かぼちゃなど、ザラザラした砂糖でコーティングされたその菓子は、子どもにとってまさに”ハレの日”の特別な味だった。ただ、「一式」は2セットしか頼まないから、野菜菓子も2つしか出ない。私たち姉弟はその2つをひとかじりずつして分け合った。
食べ終わるころにはテーブルにセットされた七輪に2つのうどん鍋が乗せられた。火をつけると、木蓋のされた鉄鍋がぐつぐつと煮えてくる。火を弱火にしてじっと待ち続け、母が「もういいよね」といって木蓋をはずすと、湯気とともにいい匂いが広がって……。それを待つ間も楽しいものだった。
だが、この、にしんのうどん鍋が、子どもたちは好きじゃなかった。まさに”大人の味”なのだ。ときどき天ぷらののったうどん鍋をオーダーしてくれて、子ども心に「いつもこっちを頼んでくれたらいいのに」と思っていたのだけど、我が家の母は絶対的存在で、とても言えなかった。思えば、子どもにまったく忖度しない母だった。そこが真っ正直で、ユニークな由縁だった。
最後はおじやだ。おひつに入れられたご飯が出てくるので、残しておいたおつゆに投入し、溶き卵を入れて完成する。母はいつも「このおじやが美味しいのに、5人だと足りない」とぼやいていて、たった一回だけだったが、家からこっそりご飯をもってきたことがあった(笑)。でも、おつゆは2つの鍋の分しかないわけで、ご飯の量が多すぎて、逆に美味しくなかったのではないかと推察する。
焼肉「千加羅」は、もうない。いまは同じ場所に違う焼肉屋があるそうだ。(ちなみに、なんと今日の今日まで、「力(ちから)」という店名だと信じていた(笑)。)
「福わ内」は、いまもある。こちらは大学生以降、友達や付き合っていた人を連れて、何度か行った。そして行くたびに、一緒にいる相手に箸袋や野菜菓子の話を聞いてもらった。「福わ内」はいまも本当に美味しい。金沢に行くという人がいると、いちばんに勧めるし、行った人からは「すごく美味しかった!」と連絡が来る。でも、子どものときに妹と弟とかじり分け合った野菜菓子の魅惑の味だけは、大人になってからは味わえていない。
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