漫画原作者・宮崎信二さんインタビュー Vol.3 〜漫画編集者から原作者になるまで。〜
──漫画の編集者になりたいと思うようになったのはいつごろからですか?
宮崎 高校、大学と放送研究会に所属していて、もともとはアナウンサーになりたかったんです。「ラジオ関東(現・ラジオ日本)」で1クール、松本清張の『砂の器』を朗読するアルバイトをしたりね。大学の放送研究会では、アナウンス部と技術部と企画部に分けられる。つまりアナウンス部はアナウンサーしかできない。でも、僕はシナリオも書きたいから、最初にいたアナウンス部をやめて企画部に移り、シナリオを書いたりしていました。そしていよいよ就職活動をしなくてはいけないというころに、ひとつ上の先輩が日本文華社(現・ぶんか社)で青年誌をつくっていて、「この仕事はオマエにぴったりだ」と言ってきたんです。所帯が小さいというのもあったのでしょうが、「漫画家と会って、一から十まで一緒にやるんだ。オマエがやりたいことがぜんぶできるぞ」と。それでだんだん興味が出て、やってみたいと思うようになりました。
──高校時代の放送研究会では、企画から番組制作からアナウンスまですべてできたのですか?
宮崎 視聴覚研究会という学校に認められたクラブがあったのですが、僕は放送研究会という学校に認められていないクラブに所属していて、部室も階段の下でした。活動は、職員会議を盗聴するとか(笑)。ドアにマイクをそっと取り付けて、校庭にスピーカーを出して、みんなで聞いたんです。そうしたら先生に捕まってね。その後、職員室で名簿をちらりと見たとき、自分の名前のところに赤い丸がついてて、これは何だろうと(笑)。
──(笑)他にはどのような活動を?
宮崎 当時はフォークゲリラという、ギターを鳴らしてヤジったり反体制的な歌を歌うという若者の運動があったのですが、先輩が「デンスケ」という大きな携帯型録音機を担いで新宿西口で録音したりとか。あとは高校放送連盟という組織があって、賞のための作品を提出しました。
──なるほど。先輩に言われて漫画編集者を目指したということですが、どのような就職活動をされたのですか?
宮崎 自分でいろいろ電話したんです。オチこぼれ学生だったので「優」の数も少なく、就職を斡旋してくれる学生部とは喧嘩していましたし、これは絡め手でいくしかないなと。そのときは青年誌しか頭になくて、片っ端から電話してみたんですけど、新卒採用の枠があまりなくて断わられつづけて。そうこうするうちに、竹書房が新聞広告で経験者を募集しているのを見つけて、応募してみたんです。
──大学4年生のときですか。
宮崎 ええ。単位はもうすべて取り終えてましたから。
──「経験者ではないですが」と言って、自分の熱い想いを伝えたと。
宮崎 ええ、熱い想いを(笑)。実は1回落ちたんだけど、合格者が入社しなかったみたいで、繰り上げ合格で入りました。
──竹書房に入社されて、最初に手がけたのは何ですか?
宮崎 隔週刊の『ギャンブルパンチ』という雑誌です。いま、『マイダスの薔薇』をやっていることを考えると運命的ですが、日本初の麻雀漫画雑誌で、北野英明さんの作品が掲載されていると本が売れるという時代。それこそ20万部近く売っていました。でも、じきに他社も同じような雑誌を出すようになり、もともとパイはそんなにないから、それぞれの部数が落ちていったんですが。
──30年前ほど前の話ですね。
宮崎 ええ。5年くらいは麻雀漫画ブームでしたね。ふたつ節目があって、われわれがやっていたころの北野さんを中心だったころがひとつ目。それから僕が竹書房を辞めたあと、新しい編集部が北野さんと決裂してしまって、かわぐちかいじさんが麻雀漫画を描くようになる、それがふたつ目。
──北野さんは原作なしにご自分で描かれていたんですか?
宮崎 実は、それが僕が原作者になるきっかけにもなるんですが、オリジナルでは描かれていなかったんですよ。最初はあるプロ麻雀の方が原作を書いていた。牌譜(牌の自摸捨てから上がり手までを記録したもの)がプロだと説得力がありますからね。ところが牌譜はいいのだけど、ストーリーに面白みがない。それで北野さんから「宮崎さん、何とかしてください」と言われて、リライトを始めたんです。牌譜だけ切り取って、自分がストーリーを組み立てる。その時代が2、3年ほど続きました。竹書房を辞めて徳間書店に入る直前にそういうことをしていて、徳間に入ってからは普通に自分で台割(ページごとに内容や構成をまとめた設計図)を引いて、原稿を書いていた。自分に原稿料は出さずにね。
──つまり、最初は原作者として表立ってはいなかった、ということですね。
宮崎 そうです。結構そういうふうにして、この世界に入る人が多いんです。
──リライトという形で、という意味で?
宮崎 コマ割りまでやる編集者もいます。自分もやってみたことがありますが、自分で描いて自分で編集するのはよくないですね。客観性がなくなってくるから。やはり描き手と編集者というのは分けないと。
──編集者は読者としての意見を言えないとダメなんでしょうね。
宮崎 そうです。輪が完結してしまう、閉じてしまうんですよ。輪は穴が開いてないと、次の形に変化できない。いまはわりと理想的なポジションで仕事をしていると思います。
──徳間書店に移られたのは25、6歳のころですね。
宮崎 26歳ですね。竹書房で3年3カ月経ってましたから。
──仕事の内容は同じようなことでしたか?
宮崎 徳間には僕を採用してくれた編集長と一緒に移ったのだけど、『漫画タウン』という麻雀劇画誌を──要は竹書房の敵誌をつくりました。
──その後はどういうキャリアを?
宮崎 最終的に『コミックバンバン』という隔週誌の編集長をやりました。ここでかわぐちかいじさんと知り合ったんです。連載をお願いし、担当者になって、何本かつくっていく。その間、原作はしていません。そして『コミックバンバン』が徳間書店の都合で廃刊になったのを期にワニブックスに転職し、『コミックジャングル』という青年誌を創刊しました。これはちょっと鳴り物入りで、当時スーパースターだった小泉今日子が表紙を飾ったりしたんですが、敢えなく討ち死にしました(笑)。月刊誌で14カ月の命でしたね。それでエニックスに声をかけてもらって、少年漫画をやるという約束で移るんですが、蓋を開けたら『ガンガンファンタジー』というファンタジー漫画誌の編集長だった(笑)。
──ファンタジー作品のみの雑誌だったのですね。
宮崎 ええ。ここでは現在に繋がるいい出会いがいろいろあるのですが、どうもファンタジーというものと折り合えずにいたところ、『漫画ゴラク』の編集長の東さんに「宮崎さんはやっぱり青年誌じゃないの? 何か1本企画を持ってきなさい」と言われたんです。それで徳間からワニブックスまでの間に付き合いの深かった谷村ひとしさんという、パチンコ漫画を描いている方ですが、彼を想定して格闘技+ギャングという視点で企画を立てた。そうしたら東さんに「原作者がいないんだよね。君、描いてよ」と言われて(笑)。しかも読み切りのはずが、いつの間にか週刊連載になって。そこからですね、純粋な原作者としてのキャリアのスタートは。東さんが背中を押してくれたんです。
──エニックスを辞めて、いきなりフリーランスの原作者に?
宮崎 いや、辞めずに。連載開始のときはもう辞めていましたが、書き溜めのころはまだ勤めてました。
──書き溜めというのは普通にされるものなのですか?
宮崎 原作はしますね。やはり原作がギリギリだと漫画家が描けないので。連載が8月スタートだったので、7月にエニックスを辞めました。実はいまだに僕は編集者を辞めたつもりはないんです。いまでもやっていますし、いつかどこかの編集部で仕事をするんだろうなあと思いながら、10何年経っただけ(笑)。
──東さんに見抜かれたというのは、才能を宮崎さんに感じたということですよね。
宮崎 どんな根拠があったんでしょうねえ。東さんには『麻雀劇画』時代に原作をちょこっとやっていたなんて話、したことなかったんだけど。
──では、企画を持っていったときのプロットがよくできていて、そこに何かを感じたってことでしょうか。
宮崎 天才肌の編集長でしたからね。それが93年のことです。
──その作品のタイトルは?
宮崎 『闘龍伝』です。
──その作品で初めて宮崎さんの名前が原作者として出たということですね?
宮崎 ええ。まだエニックスの社員だったので、塙鉄人というペンネームを使いました。徳間書店の『コミックバンバン』時代に、かわぐちかいじさんに連載していただいた『ライオン』という作品の主人公の名前です。かわぐちさんにその挨拶をしにいったら「オマエもやっぱりこっちに来たか」と(笑)。「オマエはやっぱりサラリーマンじゃないよな」って。
──ペンネームはひとつだけですか?
宮崎 いろいろありますよ。高岡レオというのもあります。妻の実家が高知県の高岡市で、そこで飼われていた犬の名前がレオだった(笑)。担当者に「犬っすか?!」ってイヤな顔されましたけどね。
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