光を閉ざしたアトリエ(6)
平野の書いた『青い雪どけ』という詩が一篇ある。
空から降ってきたのは白い雪だ。
それが止んで 白い静寂の世界が
しばらくは空間をはしる
雑音を吸引する
雪の中をかけ出してゆくのは
子供心を素直に出した
いい年の男どもだ
その白い大地にぽっかりと
穴が開き しずかに広がってゆく
春をまつ稲田の一角のせせらぎが
蟻のすき間から流れ出て
原始人を生み出したのだ
空からこんどは 雪ならぬ
夢を溶かす黒い陽光がそそいでくる
彼が画家として大きく評価されるきっかけとなった油彩画『青い雪どけ』は、暗く陰鬱な作品と思われがちだが、同名の詩からは躍動感にあふれた温かく力強い印象が窺える。夫人はこれを描いた「雪が降り積もりザクザクした霜柱が立った日」のことを覚えており、彼女の眼にも実に美しい朝だったという。彼の眼に見えていたのは詩が現す世界、冷たく白い雪を射す明るい陽光ではなかったか。
1986年の池田二十世紀美術館での展覧会後、北九州、セントラル、下関の美術館で大規模な展覧会が続き、彼はそこで膨大な数の抽象画を残した。その頃の言葉にこういうのがある。
──眠っているのは人間だけだ。闇を見なくてはいけない。闇を見つめることによって見えてくるもの、それを描くのだ。──
彼が見つめてきた「闇」。それは幼い頃から引きずってきた孤独とたった一人で闘いながら、どうしても忘却できずにいた「闇」。
彼の絵は、光を知覚し、それに喜びを得る感性を持っていても、外国で光が燦々と降る中、街行く人々をあざやかな彩色でデッサンする時間を経ても、この「闇」の世界をついぞ失うことはなかった。
「ええ、それは一生引きずっていくものだし、生き変わろうったって変われないものですしね。新しい『光』の世界を知っても、描く時は人間の深淵、心の奥底を見ようとするんですよ。命を懸けて格闘できると言いますか……。最期までそうでしたね」
夫人はふと息をつき、庭の方に顔を向けながら続けた。
「最近、私もひとりでいますでしょう。『お寂しいでしょうね』と人が言うんですけど、たとえば老後のために貯金するでしょう。私は、平野との生活がそれと同じように思えるんです。ずっとともに過ごした時間、お金ではなくその想い出によって私は生きられるんだなと……」
チチチ……という虫の声が聴こえ、灰色の空が庭に繁る木々の間に見えた。夫人の「もう一服いかがですか」という静かな声に、返事をするのも憚るような気持ちだった。